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【小説】イマドキの若者、小さな命

こちらは八幡謙介が2014年に発表した小説です。


イマドキの若者


 俊和(としかず)は両手に抱えた紙袋を隣の椅子に置くと、「ぁあーっ」とうなり声をあげながら椅子に腰を下ろした。すると、妻の幸子が可笑しそうにこちらを見つめている。
「何だよ」
 俊和も釣られて笑いながら訊ねると、
「だって……『あああー!』って、おじさんみたいに……」
 と、いつまでもクスクスしながらさっきの声を大げさに真似た。
「そんな言い方してないだろ。それに……」
(お前だって人のこと言えんのか)
 そう言いそうになって、ぎりぎりのところでどうにか留めた。つい先日、めっきり老けてきた妻の容姿のことをからかって大げんかしたところだった。最後は俊和が謝って幕引きとなったが、あれ以来立場が逆転してしまったような気がした。友人や同僚にそう愚痴をこぼすと、『大人しく尻に敷かれてるのが一番いいんだって』と皆口を揃えて俊和をなだめた。
「お父さんはアイスコーヒーだよね」
 恋人時代の『俊くん』から、結婚後、いつの間にか『お父さん』へと呼び方が変わり、そのことに違和感すら感じないほど、二人の間に年月が経っていた。
 俊和はメニューを覗き込む妻を見つめた。四十を目前にして、さすがに皺やシミが増え、体もたるんできているが、十分に美しいと感じた。子供が朝から友達と遊びに出かけ、妻にせがまれて買い物に同伴したのだが、デパートですれ違う同年代や、もっと若い夫婦を見ても、やはり幸子の方が綺麗だと思えた。もちろん、気恥ずかしいので本人には伝えていないが。
 注文を終えると、幸子は窓の外の家族連れを目で追いながら、
「優斗も大きくなったわよねぇ」
「そうだなぁ、次で……六年生か。中学は公立でよかったよな」
 俊和はおしぼりで念入りに汗を拭きながら、改めて息子の進路を確認した。
「うん、子供のうちから勉強ばっかさせても逆に変な大人になりそうだし。私は優斗が立派な社会人になって独り立ちしてくれればそれでいいの」
 そう言いながら幸子は〝教育熱心〟だった母を脳裏に浮かべた。勉強ばかりさせられていた子供時代を大人になって思い返してみても、どうしても自分の将来を思ってそうしてくれていたとは考えられなかった。有名大学に現役合格したときのあの狂態や、親戚が集まるごとに我がことのように娘の大学生活を自慢する姿を見ると、明らかにそれは親の見得でしかなかった。
『こんな大人になりたくない』
 幸子は母を反面教師として、注意深く自分を律しながら子育てに臨んだ。勉強はもちろんさせる。が、遊ぶ時間もきちんと与える。大事なのは、そのバランスだ。今のところは上手くいっているという実感はある。成績も悪くはないし、友達もちゃんと作れて、誕生日会などにも呼ばれているようだ。問題は反抗期に入ってからだろうが、まだ猶予がある。


「お義母さん、また言ってきたよ、幸子が出ない時間帯狙って。まあ適当に聞き流しといたけど、正直、学費の援助は助かるんだよなぁ」
 俊和は苦笑いしながらアイスコーヒーにミルクを入れ、掻き混ぜた。義母が優斗の進路に口を出してきているのは幸子から聞いていたが、娘に頑として撥ねつけられると、今度は老後に溜めた資金をちらつかせて俊和を懐柔しにかかった。妻が受け付けないからとやんわり否定はしておいたが、学費の援助はかなり魅力的な話ではあった。
 幸子は俊和をじろりと睨むと、
「どうせ浮いたお金で車買いたいとか思ってるんでしょ? ダメよ、スポーツカーなんて買ったって仕方ないじゃん」
「違うよ! そういうわけじゃなくて、お義母さんの言ってたことも一理あるかなって。公立の中学だとどうしても不良とかろくでもないのも混ざってるから、そういうのにいじめられて登校拒否にでもなったら後々大変だろ。それなら私立に行かせた方がいいのかなって」
 幸子は深く溜息を吐くと、
「私立にだっていじめっ子はいるわよ。それに、私はいじめを心配してるんじゃなくて、勉強漬けで心がねじ曲がってしまうのを心配してるの。何度も話したでしょ? 私が学生時代どんなだったかって。もうほんと、ロボットみたいだったから。私は優斗にそんな風になってほしくないの」
「分かったよ、確かにいじめ問題はまた別だな。まあ、お義母さんも六年生の夏過ぎたら諦めるだろう――」
 そう言って苦笑いしながら妻の顔を見ると、視線がおかしいことに気づいた。
「ん?」
 幸子は俊和のかなり後ろを凝視しているらしい。振り返ってみると、若いカップルが向かい合って、それぞれがスマホを一心に見つめている。
「私……ああいうのホント怖い」
「え? どういうこと?」
 眉をしかめる幸子を俊和は訝った。
「あの二人、ずっとスマホでやりとりしてるのよ。面と向かってるのに。ああ、気持ち悪い。たぶん、同族嫌悪だと思う。私も高校のときとか携帯やスマホがあったらああいうことしてただろうなって思うともう鳥肌立ってきて……」
 俊和はもう一度振り返ってカップルを観察してみた。一方が何かを打つと、他方がすぐに笑ったり、ちらりと相手を見たりしてまたスマホをタップする。確かに、面と向かってスマホでやりとりをしているのは明らかだった。

(試し読み終了)

小さな命


 ――やだな。
 妹尾愛加(せのおあいか)はこの道を通るとき、必ず負の感情を覚える。その原因ははっきりしていた。去年の夏、右手にある公園とも呼べないような草むらで、女性が乱暴されたらしいのだ。確かに、両隣は小さな工場で夜になると人気が消えるし、恐らくその工場の廃品であろう鉄の塊やタイヤなどがあちこちに積まれていて、死角になる場所がたくさんある。あんな場所に無理矢理引っ張り込まれたら誰も助けになんか来ないだろう……
 ならこの道を通らなければいいのだが、迂回するとマンションまでさらに二十分もかかってしまう。元気なときはダイエットも兼ねてそうしているが、今日はバイトでくたくたに疲れていた。一秒でも早く部屋にたどり着き、ゆっくりと風呂に入り疲れを落として、いよいよ明日に控えたA社の最終面接に挑みたかった。「顔合わせ程度」とは聞いていたが、疲れた顔をしていればやはり印象はよくないだろう。
(よし!)
 愛加は小さく気合いを入れると、一度後ろを振り返り、誰もいないことを確かめて、早足で薄暗い道を歩んでいった。草むらの手前で一瞬心臓がぎゅっと縮こまるような気がしたが、もう後戻りする気はない。さらに足を速めて小走りに駆け抜けようとすると、どこかから耳をくすぐるような愛くるしい鳴き声がした。
「え?」
 子猫の鳴き声だった。それも複数。足が止まり、一瞬で心にぽわんとした暖かい火が灯ると、それが胸を痛いほどに焦がしてゆく。
 ――捨て猫? ダメ! 放っておいたらカラスに食べられちゃう!
 愛加はまるで猫を捨てた主に対してそうするかのように真っ暗な草むらを睨みつけると、母性本能よりも強い何かに焚き付けられ、鳴き声がする方向へ全力で駆けた。
「ん!」
 いた。小さな段ボールの中に三匹。まだ捨てられたばかりなのか、全員無事らしい。愛加は破顔すると、指先でそれぞれを優しく撫でた。心からは、恐怖心がすっぽりと消えていた。
 子猫たちは、ある程度体ができているから、生後一、二ヶ月ぐらいだろうか? とにかく、このままではいけない。猫たちに「ごめんね」と言ってから段ボールのふたを優しく閉めると、それを持ち上げ、早足で草むらから去って行った。



「よい、しょ……」
 愛加は段ボールを洗面所の床にそっと置き、静かにふたを開けた。愛らしい六つの瞳が真っ直ぐこちらを見つめている。たまらず口角がこれ以上ないほど上がり、頬が痛いほど張った。フェイスタオルをお湯で濡らし、猫たちをひとまず綺麗にすることにした。
 このマンションはペット禁止となっている。それは重々承知している。だから愛加はこの子たちを飼って育てるつもりはなく、一時的な避難所として預かるつもりだった。とはいえ、後ろめたさがないわけではない。段ボールに入った猫を運んでいるところを同じマンションの住民に見られたらどうしよう? そう思ってびくびくしながら自分の部屋まで運んだのだが、夜十時を回っているということもあり、誰にも見られることはなかった。それに猫たちも安心したのか、草むらにいたときみたいにやたらと鳴かなくなっている。
 ――きっと心が通じたんだ。
 愛加は、子猫を丁寧に拭きながら、まるで小さな命そのものだと感じた。こんな愛くるしい命を無造作に捨てるなんて信じられない。私が責任を持って里親を探し、幸せにしてあげる! そう心に決意した。
 三匹を拭き終えると、寝室に招き入れた。不思議そうに部屋を見渡す子、トコトコと歩き回る子、毛繕いをする子、……そうだ、名前を付けてあげよう? いや、そうすると里親に出すときに寂しくなってしまうかもしれない、それよりも当面のご飯と、トイレを用意しないと……。
 愛加は、いつものコンビニにキャットフードやペット用のグッズが置いてあったことを思い出すと、バッグから財布を取り出し、猫たちをちらりと確認して外に出た。疲れや、またあの道を通る恐怖感は不思議と感じなかった。『誰かのために生きる』という、噴き出してしまいそうなクサい歌詞も、今なら理解できそうな気がした。動物とはいえ、守るべき対象ができただけで、こんなにも活力が漲ってくるなんて!
 コンビニでキャットフードと猫砂、簡易ベッドにするためのタオルを買い、急いでマンションへと戻った。早くあの子たちに会いたい、ご飯を食べる姿が見たい、すやすや眠っているところをスマホで撮りたい!
 鍵を開け、小走りで寝室に入ると、
「ちょっ、ちょっと!」
 子猫たちは、ソファにかけてあった明日の最終面接に着ていくリクルートスーツを引きずり下ろし、楽しげに引っ掻いていた。
「ダメッ!」
 スーツを取り上げると、胸やお腹のあたりに思いっきりひっかき傷ができている。声も出せずに震えながら立ち尽くす愛加の足に、一匹の子猫が頬を擦りつけた。その瞬間、愛加の胸にドス黒い戦慄が走った。窓から猫を投げ捨てている自分の姿が脳裏に浮かび、遅れてその意味に気がつくと、何とか心は落ち着いた。拾ってきた段ボールにさっきコンビニで買ったタオルを敷き、とりあえず三匹をまたその中に入れた。
 スーツについたひっかき傷は、どうしてもごまかせそうになかった。替えは持っていない。スマホで購入した店を検索してみたが、開店時間が面接の三十分前だった。開店と同時に同じものを購入しても、たぶん面接には遅刻してしまうだろう。それに、同じものが店頭にあるとは限らない。それならば正直に理由を話した方が好印象なのではないか? そうだ、私は捨てられていた命を拾ったんだ。それが嘘じゃないことはこの傷が証明している。そのことを面接官に話せばきっと印象もよくなるに違いない。向こうからスーツの傷について訊いてきたら、今夜の出来事を最初から話そう。それに、訊かれない可能性だってある。そのときはそのときで大丈夫。そんな小さなことはどうでもいいってことだろうし、それなら確実に内定は出るだろう。
 そう考えると、猫たちがまた急に愛おしくなってきた。スーツをハンガーにかけ、段ボールの中を覗いてみると、三匹が綺麗に並んですやすやと眠っていた。まとめスレで何度も見、その度に保存してきた画像と同じ光景が、今自分の部屋の中で起きている! 愛加はそのことに感動し、また口角を上げて頬をパンパンに張らせた。
 フラッシュをたかずに何枚か写真を撮ると、シャワーを浴びに静かに部屋を出た。



「スーツはどうされたんですか? 傷のようなものがついてますけど」
 ――来た!
 愛加は太ももの中央で揃えた手を一瞬ぎゅっと握り、何度も練習した面接スマイル――同期の学生たちとそう呼んでいた――を作り、はきはきと答え始めた。
「はい、お見苦しくて申し訳ありません。少し昨晩の出来事をご説明させていただいてもよろしいでしょうか?」
 進行役の人事部長は、うっすらと表情を曇らせながら、「どうぞ」と告げた。
(試し読み終了)

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