見出し画像

写真と持続可能性について。

今日は、僕が今まで漠然と大切にしたいと思っていた「写真」「祈り」「ふつう」「持続可能性」が、ようやくつながった気がしたので、ここに書き記しておくことにします。

読んで共感していただけたら幸いですし、共感していただかなくても当然だと僕は思っています。今回は、僕と僕を取り巻く社会の未来の話をするので、前回の記事「はじめまして。」と合わせて読んでいただけると嬉しいです。

持続可能な開発目標(SDGs)とは何か

画像1


SDGsは、Sustainable Development Goalsの略です。ここ50年くらいの話ですね。これをめっちゃくちゃざっくり説明すると、

『地球があって(環境)、その上に人が何人もいて(社会)、その人々が作った物事=価値を交換する(経済)という、環境、経済、社会があって、それぞれにGive & Giveが成り立っているのが我々の世界ですよー。そのままでもある程度発展はしていくけれども、これらに革新的なエッセンスを加えることで、より効率よく、より良い方向に進んで行きますよー。』


という感じです。このエッセンスは、全然大したことじゃないかも知れません。大体は、科学とか教育とか社会システムなんかでしょうか。カレーに蜂蜜入れてみるみたいなものです。

よく「SDGsというのは、環境問題の話じゃないの?」と思われる方も多いと思いますが、なぜこれがそう思われるのかには理由があります。

先ほどGive & Giveと言いましたが、実はこの相互関係が成り立っていない、もしくは成り立ちにくいものがあります。それが環境⇔社会環境⇔経済です。そもそも人間が環境に対してGiveできることがあまりないんだから、「じゃあ削る一方の環境に対して歯止めをかけないと」「せめて今の状態よりも悪い方向に持っていかないようにしないと」というのが昨今の環境問題に対する運動や取り組みで、それがメディアで発信されたりしているからではないでしょうか。

さて、本題に戻ります。実はこれ、見てもらえればわかるように、Development つまり「開発」という側面を含んでいます。“より効率よく、より良い方向に進む”ということが肝心なところなんですね。

今回は、この開発目標に対して「これで本当に良いのだろうか」という疑問を投げかけてみよう思います。

今の時点は0ではない。

画像2

そもそもSDGsにおいては、「将来世代の可能性を損なうことなく現在世代のニーズに応えていく。」ということが大前提です。しかし、この将来世代のニーズはわからないのです。当たり前ですが。

じゃあせめて「今の私たちが”幸せ”と感じるこの状態は最低限未来に残したい。」と、思いませんか?

今の私たちが幸せと感じる最低限の状態というのは言い換えれば「日常」です。つまり「ふつう」なんですね。

でも、実は”幸せ”という観点から見ると現時点を0とは言えないんです。人間というのはそんな単純なものではありません。歴史を遡って考えたときに、「昔よりも今の方が幸せなのか」と言われると、そうとは言えませんよね。皆さんも、毎日「昨日よりも今日が幸せだ!」とは必ずしも言えないと思います。

「もしかして、幸せのヒントが過去にあったりしないかな。」と思った僕は、歴史と地理を学び始めました。これを色々学んでみた結果わかったことは、そもそも今の状態をずっと維持することって案外難しいことだということです。

そこで、最初のところに立ち返ったときにふと思いました。「今の状態を維持するのも難しいのに、”より効率的により良い方向に”というのは、ちょっと難しくない?」と。

焦る人類

画像3


僕は、昨今の科学進歩やグローバル化の進み具合は少しばかり速すぎると思っています。それは歴史を見ると一目瞭然です。

人間の寿命はたったの100年ほどだし、自分が健康で活発に動ける時間も限られているので、焦る気持ちはあると思います。

しかし、「もう少しゆっくりいきませんか」と。

自然環境を破壊したり生態系が崩れるスピードというのは、人間の焦り具合のスピードとおおよそ比例していると思います。おそらく生物のなかで、“焦る”という概念があるのは人間くらいです。その焦りは果たしてどこからくるのか。それは、同じ人同士が競い合っているからですね。

人の競争が激化したのは、グローバル化が飛躍的に進んだ大航海時代以降。一気に世界が繋がってしまったことによって、摩擦が起きまくったのが19世紀・20世紀ですよね。それでも人類は資本主義経済という仕組みを武器に地球を置き去りにして、ペースをどんどん速めて今も絶賛加速中です。でもこの加速は誰にも止められなくなっているわけですね。人同士の小競り合いなので、地球は置いてきぼりです。でも人間は半分地球の一部(身体)なので(半分は精神世界・フィクション)、どうしても地球環境にも影響が及んでしまうわけです。

じゃあ精神世界やフィクションを使って、これを解決していけばいいのですが、それはどうするかというと僕は「祈り続けること」だと思っています。

つまり、僕にとっては「写真を撮り続け、それを残すこと」でしょうか。

日常を残したくなる理由

画像4


「祈り、残す」ということは、将来世代に全幅の信頼を置くこと。それは、まだ見ぬ遠い日の記憶に「こうであって欲しい」と語りかけることです。祈るだけではなく残すことが大切なのは、より祈りの寿命を伸ばすことができるからです。

先ほど「日常」や「ふつう」という言葉を出しましたが、これは昨今のSNSや写真家さんを見ているとよくわかります。特にアマチュアの写真家さんを見ていると、「日常」を切り取ったものが多いです。これは、本人たちも無意識に「この日常が愛しい」、「この日々が続いてほしい」という気持ちの現れなのではないでしょうか。それは意思表示ともとれます。

この祈りや意思は、はからずしも持続可能なものです。そしてそれは個人のミクロレベルでの取捨選択を経て、ほんの少しだけ良い未来の形を紡ぎ出しています。取捨選択とは例えば、「スカイツリーの先まで入れる/入れない」、「あんまり盛り付け上手くない料理を撮る/撮らない」、「端の木を入れる/入れない」などなど。自分にとってこっちの方がいいなというものだけを写真の中に入れて、もう一度見る頃には端っこに木があったかどうかなんて忘れています。

僕がフィルムで写真を撮る理由としては、ここが一番大きいと思います。これは、長くなるので別の記事で。

写真を通して、“誰が”語るのか。

画像5


あなたは、写真が語りかけてくるという体験をしたことはありますか?

いつから人はカメラを向けられるとピースや笑顔をするようになったのでしょうか。ひと昔前までは、「貧困国の子どもたちがカメラを向けても笑わない」なんて言われていました。でもそれは本当に貧しくて幸せじゃないからでしょうか?

私たちが写真に写る時、”いい顔をしていたい”とか、”笑顔でいたい”とか、いろんな写り方があると思いますが、そのすべてに共通する認識は、「その写真が将来誰かに見られるということを知っているから」です。その未来の誰かに対して、「笑ってほしい」と思ったら変顔をしたり、「安心してほしい」と思ったら笑顔で返したりします。

写真を撮られると魂が抜かれるとか、あんまり写真に写るのが好きじゃないとかも、全部この「写真を通して、誰かに見られることを知っている」という共通認識があるからですね。

今多くのメディアに上がっている写真というのは、いろんな種類があって、もはや人が撮っていない写真も世の中にはたくさん出回っています。

あなたが今見ているのは、ただの画像ですか?それとも祈りですか?

隣人を愛するだけではいけない。幸せとは何かを問う。

画像6

SDGsの目標設定は、もしかすると地球のペースに合わないかも知れません。地球は思ったよりもマイペースです。人間が「速いなぁ」と感じたら、地球も同じように思っています。

結局僕は今の段階では、この目標設定が正しいのか正しくないのかはまだ判断できません。でも「自分にできることはある」と思います。僕にとっては「写真を撮って、それをできるだけ残すこと」です。明日の誰かが自分の祈りをつないでくれると信じることができれば、きっと焦りはなくなります。そうして今と向き合うことができれば、最低限の今を焦らずに一歩ずつより良い方向に変えていくことができる。

地球のペースに体を委ねて、より良い未来を思い描く。それだけで良い気がしています。

「汝、隣人を愛せよ」という言葉がありますが、僕はそこにもう少し付け足したい。まずは、最低限の幸せを知ること。自分の幸せがわかったら、隣の人の幸せとは何かを聞くことから始めればいいと思います。

皆さんも、今や立派なカメラを持っています。ただ写真を撮って、残してみませんか?

(210521)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?