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思春期の海外生活はもどかしかった-History to the future②

前回の投稿はこちらからご覧ください。


ネガティブ人間ができたきっかけ

chap2:自由のなかった海外生活


 中学時代、僕は海外にいました。

 父親の転勤に家族でついていくことになったからです。

 向かった先はインドネシアにある首都・ジャカルタでした。

 羽田から直行便で7時間ほど。長いようで短い空の旅を終え、一家は空港に降り立ちました。

 空港のビルを出たときのもわっとした熱気と、タクシーの客引きのしつこさと、そしてやけに空が綺麗だったことが、今でも記憶に残っています。

 ここで人生初の海外生活をスタートさせたのです。

 現地の生活に慣れる間もなくジャカルタ日本人学校の入学手続きを済ませ、埼玉のどこにでもいそうなサッカー少年であった自分が、今までとは全く違う学校生活をスタートさせました。

 学校がある日の朝は早く、5時半過ぎに起きて身支度を始めます。スクールバスは6時に出発するからです。
 ジャカルタは渋滞が激しく、まともにラッシュアワーに車を走らせると、学校にたどり着くには数時間はかかります。車の身動きがとれなくなってしまうのです。

 そして、7時半くらいに授業開始。
 授業自体は日本の文科省のカリキュラムに則っていて先生も日本から派遣されてくるので大きな違いはありません。
 しかし、施設だけはやけに立派でした。小中学校が一体になった吹き抜け三階建ての立派な校舎が広い敷地の中に立派に佇んでいました。

ジャカルタ日本人学校の校舎、南国仕様で風通しよく作られている。大林組による設計

 さらにこの学校、部活というものがろくにありませんでした。
 活動場所がないわけではありません。グラウンドは天然芝、庭師の方が整備してくれている立派なものがありました。
 しかし、学校への通学手段はスクールバスかあるいは自家用車(ドライバー付き!)です。バスはアパートメントごとに運行されているため、終わる時間のそれぞれ異なる部活動でバスを出すことが難しいのです。
 そういうわけで、部活は週2回、その帰りは車でドライバーさんに学校に迎えに来てもらうという形になっていました。
 勿論僕はサッカー部に入りましたが、日本にいたときは週5でやっていて、しかも周囲のレベルも格段に落ちてしまい、自分も次第にモチベーションを保てなくなってしまいました。

 放課後部活がない日には大抵塾に通っていました。ジャカルタにも日本人向けの塾が幾つかあるのです。

 僕はこの時間が日々の中で一番憂鬱でした。

 なんせ日本の中学生のように部活で忙しくしていない上に、向こうの親の教育熱の高さが凄まじかったので、それに応えるようにえげつない量の宿題が毎週のように出されていたのです。

 やっていかなったらめちゃくちゃな剣幕で怒鳴られる。そこは日本ではないので、制裁の仕方が多少度を超えていても、特に問題にはなりませんでした。


 ここまで読んでもらって分かるかもしれませんが、その当時の生活にはとにかく自由がなかったのです。
 例えば移動一つとっても家族で共有している自家用車で動かないといけない関係で、お気軽に日本みたいに友達と遊園地行ったりとかがほとんどできなかったのです。

 このようなことをいうと、電車とかバスとか乗ればいいじゃないかという声もあるでしょう。

 下の写真が、かつてのジャカルタの通勤列車の様子です。

一昔前までのジャカルタの通勤風景、日本の中古車輛が多いらしい。

 これにお金持ってそうな日本人の子供が乗ったとき、何かしらの犯罪に巻き込まれる可能性が高いことは想像に堅くないでしょう。

 今の自分がジャカルタにいたら、現地の人と一緒に屋台で数百円の飯を食ったり、バイクタクシー乗ったりだとは面白がってするような気もします。
 しかし、当時の僕は中学生。治安の良くない海外で、自分たちにはそういう冒険は極力させないで、病気や怪我することなく日本に帰ってきてほしいと思うのが親心だったのではないでしょうか。

ジャカルタの渋滞を抜けるにはバイクが一番スムーズ。ただし、交通量の多さから事故のリスクは高い。

 勿論、日本ではできないような体験ができるという点ではジャカルタ生活、楽しめる人は楽しめると思います。特に、物価という点では日本と比べると大幅に安いし、日本では簡単には住めないような大きいプール付きの高層マンションに住めたりします。またインドネシアは親日国なので多くの人は親切にしてくれます。さらに現地に住んでいる日本人が多いこともあって、日本食に困ることもありません。

 ただ僕にはジャカルタでの生活はあまり向いていなかったように思います。

 最初の3か月はずっとホームシックになっていました。日本を出るときには仲良くしてきた友達に別れを告げ、名前もほとんど聞いたことのないような海外の国にいきなり連れてこられたら、それはよっぽどの適応能力がないとやっていけません。

 まず人間関係のストレスがありました。埼玉の何の代わり映えのない平凡なベッドタウンから、日本全国(そしてインドネシアで生まれ育った子も)さまざまな家庭から来た子がいる環境に身を置くこととなったわけです。特にその中には、親がメガバンクや有名商社に勤めていたりして何もかもが恵まれている人もいました。そういう人たちは大抵、レクサスとかアルファードで学校に迎えに来てもらったりしてました。今思えばとゾッとするほど、社会の生々しさを感じさせられる世界だったと思います。
 ジャカルタでは渋滞の信号待ちになると、自分たちと同じくらいの年齢の子たちが、乗ってる車の窓をトントンと叩いて、新聞を売りに来たりすることも日常茶飯事でした。そうやって日本とはくらべものにもならない格差社会にいると、本質的に好奇心旺盛な僕にとっては逆に社会の理不尽さを悟る部分もあり、少しずつさまざまなことに関して斜に構えるようになってしまいました。

 そして塾でも厳しい現実を突きつけられました。
 日本にいた頃勉強だけはわりかし得意だったので、ジャカルタの塾では受験勉強に特化した上級のクラスに入りました。しかしそこには超えられない才能の壁が横たわっていました。国語、英語は勉強すればなんとかなったのですが、数学だけはクラスの上位層には全く歯が立ちませんでした。先ほど述べたようにスパルタ式のきつい塾だったので、皆宿題に忙殺される毎日を送っていました。そうなるとどんな地頭の良い人でもミニマムの勉強量はこなしているので、勉強量で僕が太刀打ちすることはほとんど不可能ともいえるものでした。

 中学生にして自由が制限されるこの環境で、僕が高校受験するために本帰国するまで3年近く過ごした結果、気づいたときにはかなりストレスをため込んでいました。

 大人になると、何か問題が発生しても(それが自分の外部的なこと、あるいは内部的なことに起因するものであっても)、なんとかして解決策を考えて実行に移せるようになるでしょう。しかし、子供だった僕にその能力はまだ持ち合わせていませんでした。

 周りの大人に全てをコントロールされた僕の世界に、今苦しくても人生なんとかなるだなんて、思う隙すらなかったのです。そして努力してもどうにもならないことでただくよくよ悩んでいたのです。
 海外に行って視野が広がったと思っていたのに、気づいたら本当の意味で視野が狭くなっていたんですね。

 人の成長のために挫折は必要不可欠なものです。その状況を打開するために万策を尽くすべきでしょう。しかし、その感情が「絶望」に変わった瞬間、人は生きていく気力を途端に失ってしまいます。僕はそういうときは逃げてもいいんだと今では思っています。問題を遠くから眺めることも時には必要なのです。
 だけどその時にはそのようなことを考える心の余裕すら失っていました。
 僕が本来の自分らしさを取り戻したのは、高校受験に向けて日本に本帰国したときでした。


 次回は、日本に帰って高校受験するときのこと、そして高校に入学してからの事を書きたいと思います。

 良い巡り合わせから、今の自分の人生観の基礎を築くことができたのが受験期でした。
 そして高校時代もまた大きく挫折をすることがありましたが、3年間長い時間をかけながら自分を大きく成長させてくれた、必要不可欠な期間でした。
 だからこそ、自分と関わってくれた人達への感謝も込めて、次回執筆していきたいと思います。

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