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「挑戦的」という言葉に逃げない
自戒の念も込めて。という言葉を最初に書いておこう。
今日のnoteは、最後にそんなことを言いたくなる内容だ。どうせ言うのがわかってるなら、最初に宣言しておくスタイル。
マスメディアも全盛期を過ぎて、みんながそれぞれ自分の好きなものを楽しむ世界ができあがりつつある。
昔からそうだったかもしれないけど、いまの時代は特に「おおくの人にウケるもの」よりも、「少数の人に深くウケる」ことがカッコいいみたいな風潮を感じる。
それ自体にいい悪いはないし、むしろぼくも「少数の人に深くウケる」ものを標榜しているタチだ。
問題なのは、「少数に人に深くウケる」ことと、「自分勝手」を履き違えてしまったときだ。
最近は、SNSやインターネットのおかげで、たくさんの人に受け入れられなくても、少数の人に深く刺されば、それでビジネスは成り立つと言われている。
この時代の変遷自体は事実だと思うけど、ときにそれを都合のいいように解釈して、「自分勝手にやっていいんだ」と勘違いしてしまうことがある。
そしてそれを、「挑戦的だ」とか「攻めてる」などと形容してしまうのである。
ぼくのなかでまだうまく言語化できてないけど、「少数の人に深くウケる」と、「自分勝手」には、一見同じなように見えて、とてもつもなく大きな隔たりがある気がする。
「挑戦的だ」や「攻めてる」と言うなら、それは成功するときもなきゃダメなわけで、「広がり」か「深さ」、どちらかのベクトルを取ってはじめて、その言葉を使っていい権利が発生する。
広がりを狙うなら、インプレッションがあること。深さを狙うなら、めちゃくちゃエンゲージメントの高いもの。
そのどちらもないのに「挑戦的」という言葉を使うのは、ただの逃げでしかないよなあと感じる今日このごろ。
だれにも届かないし、届いたひとの心になにも刺さってないなら、それはただの「自分勝手」だ。
ピースの又吉さんが書いた小説『火花』のなかに、天才的なお笑いセンスを持ちながら、イマイチ売れない先輩芸人に対して、そこそこ売れた後輩芸人が、こう諭す場面がある。
世間を無視することは、人に優しくないことなんです。それは、ほとんど面白くないことと同義なんです。
自分のなかにある「なにか」を、思う存分発露させることは大事だ。けども、それを生身のままむき出し垂れ流しするのは、全然優しくない。挑戦的でも、攻めてるわけでもない。ただの怠慢であり、自分勝手だ。
核は自分のなかにある「なにか」だけでも、それを世に出すなら、少なくとも誰かに届けたいなら、しっかりとパッケージングすることが大切だ。これはもう、必要条件。
「挑戦的」という言葉に逃げない。
自戒のn..........おっと、今日は最初に言ってたんだった。
★当時のツイート掘り出してきた
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