「フィードバック」はだいたい「ブーメラン」
「人って、人にフィードバックしているようで、実は自分自身へのフィードバックをしているんだよね」。
会社の朝会で、とある先輩が以前そんなふうに言っていて、当時は「ふーん、そういうものかなあ」くらいに捉えていたけど、いまになって、ようやくその意味を少し実感し始めてきた。
「ブーメラン」って言葉、議論の場面においては「お前いま墓穴を掘りやがったな!」みたいな、揚げ足を取るような使われ方をすることが多いけど、最初の言葉の意味を踏まえるなら、人はみな、常にブーメランを投げ続けているのかもしれない。
先日、初対面の人と接する機会があった。
ここではその人を「Aさん」と呼ぼう。
結論から言うと、ぼくはAさんに対して、仲良くなれるかなれないかで言うと、たぶん「仲良くはなれないな」と感じた。
分からない、もう少し回数や時間を重ねればAさんのまた違った側面も見えて、印象が変わるかもしれないし、初対面の当時も、話がめちゃくちゃ弾むタイミングは何回もあった。
(あくまでも全部ぼく目線からの主観ですけどね。逆にAさんがぼくのことをどんなふうに感じたのかは、知る由もない)
「仲良くなれないかも」と感じた理由を一言で言うと、「ぼくに似ていた」からだ。
もう少し厳密に言うと、「数年前の」ぼくに似ていた。
そこからさらに厳密に言うと、Aさんは、「いまの」ぼくの次くらいにあり得たかもしれない、「別の」ぼくだった。
「数年前の」ぼくは、その「別の」ぼくではなく、「いまの」ぼくになることを選んだ。
言い換えると、ぼくはその「別の」ぼくにはなりたくなかった。
でもその日、目の前にいたAさんは、数年前のぼくが「こうなりたくはないな」と感じた人物像に、ものすごく近い(と感じた)人だった。
だからぼくは、「あ、Aさんとは仲良くなることは難しいかもしれない」と感じてしまった。
Aさんと話していてむず痒かったのは、「いま」のぼくにも「数年前」や「別の」ぼくの要素は少なからずあって、というか根っこの根っこのところは人ってそんなに変わらないから、「別の」ぼくに近いAさんの振る舞いや思考に関して、めっちゃ理解できてしまうところだった。
(しつこいようですけど、これは全部ぼく目線での主観の話です)
「ああ、Aさんがいまこういう発言をするのは、こういう背景があるからだろうな」とか、「こういう思考なのは、たぶんあんな欲求があるからだなー」とかが、手に取るように分かってしまう。
ただ単に、「自分と思考や価値観が合わない」だけだったらいいのだけど、それだけじゃなくて「自分のなかに少なからずそういう思考や価値観があるけど、その思考や価値観を自分は直したいと思っている」ようなものだからこそ、余計に相手のなかにあるその思考や価値観に対して、解像度の高い状態で感じてしまう。
解像度が高いからこそ、別の話題やテーマに関してはめちゃくちゃテンポ良く話が弾んで、「お、めっちゃ話が会うな」と感じる瞬間もある。
当たり前だけど、ある思考や価値観に完全な善悪があるわけではなくて、それらは常に一長一短みたいなものだから、プラスに働く場面もあれば、マイナスに働く場面もある。
だから「いま」のぼくは、「数年前の」ぼくの思考や価値観の、「プラスに働く」箇所だけをできる限り残すようにして、少しずつ「理想の」自分に向け、日々研鑽を積んでいる。
根っこのところはなかなか変わらないし、「いま」のぼくの中に「数年前」や「別の」ぼくと共通するところも少なくないから、その部分の会話をするときは、Aさんともめちゃくちゃ話が弾む。
その話が合うところも含めて、ぼくはすごくむず痒く感じてしまった。
俗に言う、「同族嫌悪」ってやつなのかもしれない。
ここで冒頭の「人って、人にフィードバックしているようで、実は自分自身へのフィードバックをしているんだよね」という先輩の言葉を思い出す。
これって要は、自分がその言動や思考に対して課題を感じているからこそ、他人の同じような言動や思考に対しても、目が行ってしまうということなのかもしれないなと思った。
その言動や思考に対して、アンテナがビンビンに立っている状態。
この「自分自身のその言動を課題だと感じて修正しようとしている最中だからこそ、他人のそういった言動に目が行ってしまう」事象って、もう少し幅広い場面でも起こっているのかなと思う。
例えば、カップル2人組(BさんとCさん)で同棲していて、BさんがCさんの掃除っぷりに納得がいってないときって、Bさんが根っからの潔癖症というよりも、元々はそんなに綺麗好きじゃないけど、気持ちよく暮らすために後天的に片付け術を学んだり駆使したりしているときじゃないかな、など。
掃除を面倒くさがる気持ちや、うまい具合にサボってもバレないようにするその場しのぎの小手先テクニックを理解できるからこそ、「もう、(自分はその誘惑に打ち勝とうと努力しているのに、どうしてあなたは改善する気持ちがないの?)ちゃんと掃除して!」となってしまうのかもしれない。
あとは逆に、フィードバックを受けた側のときも、自分がそれを課題だと感じていて、且つ「まだ一定改善しきったと言える状態ではないな」とか「ひとまず蓋をしておくか」とかってことを言われる方が、全く新しい観点からのフィードバックをもらうときよりも、「心理的にえぐられる度合い」という意味では大きい気がする。
「うっ、図星だ。。。」って感じで。
個人的に、全く新しい観点で、且つ理にかなっているものだと、「おお、そういう観点もあるのか」と少し嬉しくなってしまう。
逆に、新しいと言えば新しいけど、なんか的からズレているなというものとか、あとは、自分でわかったうえで意図的にそういう選択肢をとっているものとかを指摘されたときは、「ほお。。。」という以上でも以下でもない感想しか、出てこないこともある。
まとめると、人って、他人にフィードバックすることが多いのも、されたときにグサッとなることが多いのも、「自分自身でいま課題だと感じていて、改善しようと思っている」ところなのだ。
でも今日ここまでも繰り返し書いているように、人って、そう簡単には変われない。
例えば「プライドが高い」ってところを直したいなと思っていて、「よし、今日からはプライドを捨てて生きていこう!」と決心したとしても、そんな人の根っこのところ、一朝一夕ではどうにもならない。
自分で意識して行動し続けていくのは大前提として、1回言われたくらいじゃそう簡単には完璧には変わらないから、何回も何人もの人から同じ類のフィードバックをもらって、その度に「ああ、俺まだまだ変われてなかったんだな」と痛感して、少しずつ直していく。
その直す過程はきれいな一直線じゃなくて、時には後退したり、折れ線グラフで例えるなら上がったり下がったりを繰り返しながら、中長期の時間の長さで捉えて改善していく。
しかも思考や価値観って際限のあるものではないから、どこかで終わりっていうものではなくて、一生向き合い続けていくものなのだ。
そしてこのnoteも、いま読んでくれているあなたに向けているようで、実は一番の読者はぼく自身なのである。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございます!!!すこしでも面白いなと思っていただければ「スキ」を押していただけると、よりうれしいです・・・!