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再生 5話

食卓で一緒に朝食を食べながら、良子は疎外感をひしひしと感じていた。
叔母の旦那にあたる叔父さんは、血縁関係にないこともあり良子の存在への不満の色を隠そうともしなかった。早く高校を卒業したら出て行ってくれと直接言われているような態度だった。良子に話しかけることはまずなく、居心地がいいと思っていつまでも居座られたらたまらないと、意識的に居心地の悪い空気を作っているようだった。
中学生になる叔母の息子は、こちらに一切目をくれず母親に醤油取ってと頼んでいた。良子は自分の目の前にある醤油を取ろうとして手を伸ばしたけれど、叔母さんは良子のすぐ近くにある醤油を先に取ると、息子に手渡した。

「テスト前だから今日から部活ないんだよね」
「帰ってテスト勉強しなさいってことだからね。ちゃんとやりなよあんた」
「はぁい。理科が今回むずいわー。全然意味わかんねえもん」
「あら、この前も理科が難しいって言ってたじゃない。ちゃんと先生の言うこと聞かないからよ」
「だってさー、理科のヤマセンうざいんだもん。ヤマセンこの前さー、学校に漫画持ってきてる奴がいるって聞いたとか言って勝手に授業前に持ち物検査してともちゃんの漫画没収したんだぜ」
「こら。先生にうざいなんて言うもんじゃないでしょ。それに学校に漫画持ってくるともあき君がいけないじゃない」
「でもいきなり没収はひでえじゃん。担任でもないくせに」

今までと変わらないような家庭での会話が聞こえた。
つまらない、くだらない、バカでガサツな人間がするセンスのない会話だと、刺々しい気持ちで良子は思った。
お互いに主張が噛み合わないことはわかりきっているのに、なぜわざわざ話すのだろう。
それはきっと、それでも会話をしたくなるのが家族の姿だからなんだという風に考えたら、良子は切なくなってきた。

良子にはこんな会話をできる家族はいなかった。
母親は良子が三歳の頃に死んだ。交通事故だった。母の記憶はほとんどない。
けど飲酒運転が原因の自業自得だというニュアンスで、親戚の集まりの場で父方の親戚が話しているのを聞いた時には無性に腹が立った。
母だけが私の本当の家族だった。母だけは永遠に穢れることのない私の親であり愛の対象だという気持ちを良子はいつも抱いていた。

(お母さん……)
父に暴力を振るわれている時、真冬の夜に起こされてコンビニまで一人でおつかいに行かされた時、辛い時にはいつも良子は、どこかで見守ってくれているはずの母親を想った。
写真でしか顔を知らない母親は、いつも同じ顔をして笑っていた。
(お母さん。なんであんな奴を選んだの?)
父親が違えば自分は存在しないのだという知識を持ってからも、良子は幾度となく心の中にいる母親に問いかけた。
(きっとなにか弱みを握られたんだ。可哀想なお母さん。あいつが死ねばよかったのに……)
理由があって母親は仕方なく父親を選んだんだと思い込んだ。そして何度も死を願った。
その父親は死んだ。けれどそれで心が晴れたのも束の間で、心はまた曇り空へと変わっていった。

***

警察署に呼ばれ、叔母さんや親族数人と一緒に遺体となった父親と面会を果たした。

全身ブルーシートで包まれた父親だったものは、シートの隙間からなにかのサナギのように顔だけを覗かせていた。その顔はどことなく安らかで、菩薩のような柔和な表情に見えた。
損傷が激しいと聞いていた首元までブルーシートで隠され、血を拭き取られた顔には至る所に切り傷があったのに、なんだか綺麗な顔に見えた。定まらない視線で宙を見上げる父の瞳は、なにも罪を犯していない穢れのない綺麗な生き物の瞳をしているようだった。

良子は国枝敏弘の両目をじーっと見つめていた。
(あんたのことは、大っ嫌いだったよ)
そう心の中で話しかけた。
けれど目の前で初めてまじまじと死者の姿を見ていると、恨みはどこかに消えてしまっていた。
なんだか可哀想に思えた。
(でも、きっとあんたも悲しかったんだよね。男手一つで育ててくれてありがとうね)
目の前で動かない父の姿を見ていると、同情こそ湧いてきた。
(私も、可愛くない娘でごめんね。育てがいがなかったでしょう)
涙が溢れるのだけはぐっとこらえて我慢した。
この父親なんかのために涙を流すのは悔しかった。
遺体となった父親を見て、初めてこの人と向き合ったように感じた。そしてこの時間が邂逅のように感じた。
「犯人、捕まるといいね」
父親を見て口に出して呟いた。
親戚の前で国枝敏弘のいい娘を演じる気持ちもあって口に出したが、その言葉が本音でもあったことに口に出した後から気がついて、良子は自分で自分の気持ちに驚いた。

その後、署では調書を取られてどんな父親であったかなど聞かれたことを淡々と答えて、署での用件を済ませた。
今までの事実はありのままに話したが、心情としてはあまり悪く言う気にはなれなかった。

葬儀の手配は叔母さんが中心となって進めてくれた。私はただ、葬儀の場では不幸な娘を演じることだけが残された仕事だ。
家に帰ると、酷く疲れたからかその日はぐっすりと眠れた。明日からはまた学校が始まると思うと気が滅入ったが、布団に入るとすぐに意識は消えていった。

***

今日からまた学校に行くことになった。
「なにか困ったことがあったらすぐに相談してね。じゃあ、気をつけていってらっしゃい」
「いってきまーす。大丈夫、私は少しずつ落ち着いてきてるから」
そう言って家を出た。
相談してとは言うけど無理に学校に行かなくていいとは言わないんだ、と良子は思った。
そりゃそうか、私は実の娘じゃないしこの家で引きこもりになられたら困っちゃうよね。
私も私だ、少しずつ落ち着いてきてるとか言っちゃって。本当は私も叔母さんもあいつには迷惑してたんだから、お互い死んでスッキリしてるでしょう。けどそれは言わないのがこの人形劇のお約束らしいから、二人して律儀に守っている。悲痛な表情も、辛いのを堪えて無理して作ったような笑顔の振りも、だいぶ慣れてきた。

学校に着いて教室に入ると、クラスメイト全員からの視線を感じた。ジロジロと見ずに周辺視野を使ってチラチラと観察するような様子だった。
あらかじめ言われているのだろう、事件のことで声をかけてくる生徒はいなかったが溢れ出る好奇心を隠し切れてない卑しい空気が漏れ出ていた。
(あんたらも死ねばいいのに……)
良子は嫌悪感を精一杯隠しながら、何食わぬ顔で席に着いた。
良子は藤井草介が休んでいることなんて、この時はなにも気にしていなかった。

ホームルームの時間が始まり、担任の先生が教室に入ってきた。
特に事件の話はなにもなく、先生は良子を見つけると穏やかな眼差しをして軽く微笑んだ。
(なにも言わないパターンね……)
良子は仄暗い感情を押し殺して、軽く会釈をした。
朝礼でも特に触れることはなかった。ただ最後に、「みんなは同じクラスの仲間だから、今辛い人がいたら、思いやりを持とうね」と一言だけ言った。
良子にとっては何もかもが演技臭く見えて苛立ちを覚えた。
(けどまあ、卒業までの辛抱だ……)
卒業したら私はやっと自由になれるんだ。親戚の家を出て行き、もう二度と会わない。私は私の思う通りの人生を送るの。
たくさん稼いで贅沢して、女を磨いていい男を捕まえてやるわ。
未来への期待に胸を膨らませることで良子は今の状況を耐える決意をすることができた。
今は心を殺してお人形になってればいい。
私、幸せになる。自由になるの。


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