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優生思想の欠陥と崩壊

社会の行く末を案じて

現代は格差社会と言われて久しい。
長らく資本主義は隆盛を誇り、貧富の差は拡大するばかりで、平等は遠い幻想に過ぎないのだと日本に住む誰もが薄々気がついていることだろう。

イングランドの詩人パーシー・ビッシュ・シェリーの残した格言に『金持ちはより金持ちに、貧乏人はより貧乏に』とある。この格言は、自由市場・資本主義によって貧富の差が生み出されるという問題を端的に示した言葉だ。
今後ますますグローバル化していく社会の中で、加速する人口増と発展するネットワークがもたらすものは、社会共通の価値を作る者はより巨大な利益を享受し、搾取される者は更なる貧困が待ち受ける未来だと予測される。
この価値観は近年に生まれたものではなく、聖書のマタイによる福音書によれば、キリストは「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」と述べている。
この概念をマタイ福音書から、科学社会学ではマタイ効果と呼ぶ。曰く、著名な研究者は信用され功績を評価され続けてさらなる名声を得る。反対に無名の研究者であれば成果を上げても正当な評価を得ることが難しくなる。
教育では早期に英才教育を受けて多くの知識を修学した子どもはどんどん学力を伸ばして将来有望な人材になるのに対し、貧困家庭に生まれて満足な教育を受けられないまま大人になればますます将来は閉ざされて社会にポストがなくなってゆく。
文化の成熟度に比例して個々人の人生の環境依存度は高まり、生まれながらに運命が決められていく。この閉塞感に象徴される言葉が、親ガチャや環境ガチャなのだろう。
ヒトラーが予言した人類の二極化は始まっている。支配者と被支配者。果たして、人類の未来はいったいどこへ向かうのだろうか。

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優生思想の台頭

金持ちはより金持ちになると、次は子孫に莫大な遺産を残そうとするのは個の保存に基づく自然な感情だろう。富の集中、社会の分断が進んでいくうちに、出自の違いによって一世代では逆転不可能な大きな差が生まれてくる。格差の再生産が繰り返されていることは多くの人が実感しているんじゃないだろうか。
これは個人間のみならず、国家間の隔たりにおいては更に大きな格差があるだろう。先進国に生まれた人間と発展途上国に生まれた人間の間では完全な分断が起こっているのが今日の世界の現状だ。
地位、名誉、財産を築いた権力者が、その恩恵は贅を尽くす権利のみにあると考えることは稀だ。多くのステータスを得た能力にこそ自身の価値があると考えて、知性や容姿、人格、感性などにおいても突出した能力を持って生まれてきたと信じているのではないだろうか。
自分が生得的に優れた人間だと感じて、自分の遺伝子こそ優れていると思うところに優生思想は起こる。自分や所属する集団が他者や他属性よりも高い社会的地位にあるのは優れた気質を備えて生まれたからだとするならば、その遺伝子こそ種の保存のために繁栄させ、反対に立場の低い社会的弱者の劣等遺伝子を絶やすことが人類の進化に繋がるのだとして、悪質の遺伝形質を淘汰し、優良な遺伝形質を保存することを目的とする優生学が、19世紀末から20世紀半ばにかけて世界各地で発生した。
人為的に生殖管理をして人類を進化させるという発想の出現自体はプラトンにまで遡ることができるらしい。学問としての優生学は1883年、ダーウィンの『種の起源』に影響を受けた人類学者フランシス・ゴルトンが提唱したとされる。支持する知識人も数多く、グラハム・ベルやケインズ、バーナード・ショー、セオドア・ルーズベルトなどの歴史に名を連ねる人物達も含まれる。そして優生思想の最たる例として、20世紀にはナチス・ドイツによるホロコーストが行われたことは有名だ。

差別に繋がるとして倫理的に否定はされている優生思想であるが、現代日本でも優生思想は根強く残っている印象がある。
戦後最悪の大量殺人事件として衝撃を与えた相模原障害者施設殺傷事件の犯人である植松聖が、「意思疎通のできない重度の障害者は不幸かつ社会に不要な存在であるため、重度障害者を安楽死させれば世界平和につながる」と犯行動機を述べたことが報じられると、匿名のSNSでは賛同のコメントが多く上がった。誰もが表立って口にはしないが、裏では社会にとって要不要で自分の命の価値が判断されていることに心当たりがある人は決して少なくないはずだ。また、自分自身も加害者側の視点を抱いている場合もあるだろう。
SNSでは「ブスだから生きてる価値がない」とか「発達障害で生まれてきてごめんなさい」と、現代社会の閉塞感を象徴するような自己に向かう自虐的な優生思想の存在を数多く見かける。また容姿や性行動といったテーマは燃えやすく、整形している女性インフルエンサーのルッキズム発言や明るみに出た男性インフルエンサーの放埒な性行動に対しては「整形女と結婚したら子どもが可哀想」「遺伝子をばら撒くな」「性犯罪者はち○こをちょん切れよ」といった誹謗中傷が相次ぎ、人々の根底に優生思想があることを見て取れる。
陰ながら、しかし着実に日本社会の中で優生思想が広まっている気がする。

また、消極的優生思想と呼ばれる思想もある。これは「子孫を残すに相応しくないと見なされた者が子孫を残すことを防ぐ」というもので、表立って賛同する人は少ないだろうが本音では致し方ない面もあると思っている人は今の日本にもかなりいるんじゃないだろうか?
広義では出生前診断も消極的優生思想に含まれる。それは仕方ないことだと当たり前に受け入れている多くの人は、それが差別だとは露知らず差別は悪いことだと信じている。年々顕在化していく数多くの社会問題に触れると、思想なき善人は自覚なき加害者になるような難解で複雑な時代になったなとよく思う。

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メルエムとコムギから優生思想を読み解く

「冨樫仕事しろ」でお馴染み、ファンに連載再開を長いこと待ち望まれている冨樫義博先生の描く少年マンガ、HUNTER×HUNTER。
その中でも特に最高傑作と名高い(僕の声)キメラ=アント編で登場するメルエムとコムギについて触れたい。
キメラアント編は、第一級隔離指定種に認定されている危険な蟻、キメラアントが人類未開の世界(暗黒大陸)から、ミテネ連邦NGL自治国へと漂着したことによって幕を開ける。
主な内容は割愛するが、とにかくめちゃくちゃ面白いので読んだことがない人は是非読んでほしい。女王蟻から産まれた蟻の王メルエムを討伐するために駆り出された主人公ゴンを始めとするハンター達と、蟻の王メルエム率いる危険生物キメラ=アントとの壮絶な闘いを描いた物語だ。ここまではよくある少年マンガの王道ストーリーなのだが、冨樫義博先生はここからが一味も二味も違うのだ。

王メルエム率いるキメラアントは東ゴルトー共和国を支配して、全国民を戦闘能力の高い兵隊とそれ以外の食料に選別する国民大会を行うことにする。その選別の日までの退屈しのぎにメルエムはボードゲームに興じるも、戦闘能力のみならず知能にも優れている王は囲碁や将棋のチャンピオンとの対局を僅か数局で攻略してしまう。そして暇つぶしのラストに東ゴルトー共和国発祥のボードゲーム「軍儀」を行い、連れてこられた軍儀のチャンピオン、盲目の少女コムギと対局することとなった。
しかし今までの囲碁や将棋のチャンピオンとは違い、何局指しても一向に勝ち目が見えてこない。コムギの底知れない軍儀の強さを感じ、メルエムは強さの形が一つじゃないことを知って配下の護衛軍ネフェルピトーに選別について聞いてみる。

「もしもコムギを今回の… 明日やる方法で"選別"していたらどうなっていた?」
「死んでますね あくまで"選別"は兵士たり得る肉体と精神の持ち主を選ぶためのやり方ですから
生き残るのは戦闘能力が極めて高い者だけです」

HUNTER×HUNTER No.257 1-①

王もまた、自身の生きる意味を探して葛藤していた。
圧倒的強者として生まれ、世界征服こそが使命だと云われ続けて、生まれてきてから忠実な配下と共に世界を征服するためだけに行動してきたが、コムギと出会い別の形の価値に触れて思い悩む。

余は王だ
だが余は何者だ…?
余は一体 何の為に生まれてきた…?

HUNTER×HUNTER No.260 1-④

余は何者だ…?
名もなき王 借り物の城 眼下に集うは意志持たぬ人形
これが余に与えられた天命ならば
退屈と断ずるに些かの躊躇も持たぬ‼︎

HUNTER×HUNTER No.261 突入①

キメラ=アント編のラストはメルエムとコムギの最期で終わる。王メルエムはハンター協会会長ネテロとの闘いに勝利したものの、毒に侵されて自らの死期が近いことを悟り、コムギを探し奔走して遂に見つける。

余は 毒に侵され 長くない
最期を…… コムギ お主と打って過ごしたかった

HUNTER×HUNTER No.317 返答

俯きながらこの毒が伝染することを伝えるメルエムに、「不束者ですがお供させてください」と返すコムギ。その言葉に感動したメルエムは、ようやく自分がこの世に生まれてきた意味を悟るのだった。

…そうか余は この瞬間のために生まれてきたのだ…‼︎

HUNTER×HUNTER No.317 返答

このシーンは、何度涙したかわからない。キメラ=アント編はこのラストを描くために描いたんじゃないかと思うほどの傑作だ。

さて、この話の考察なんだけど、戦闘能力のみで選別するなら如何に軍儀が強くてもコムギは弾かれて死んでいた。現代社会に置き換えれば、戦闘能力は金銭的価値や社会的評価だと言えないだろうか?
優生思想は画一化された基準で人間の優劣を決める。キメラアントが取り組んだ選別のように、単一の価値で判断されれば他の価値を持っている人も無価値なものとされてしまう。これは生命史における進化の歴史が複雑化と多様性を生んだことと逆行することにならないだろうか?
優生思想の欠陥は、人間の優劣が全て、判断する個人や国家の価値基準に依存することである。そして社会が定める優劣は、個人の生き方や運命さえもあらかじめ決めてしまう。強者として生きることを定められたメルエムが、自らの運命に飽き飽きして思い悩むのも無理はない。

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生命史から見る進化への道

生命36億年の歴史は自然淘汰の連続だった。
生き残りを賭けた闘いは日夜行われて、環境に適応できない種は滅んでいった。全ての命がその生を全うできるように神は世界を設計しておらず、ほぼ全ての生命は天寿を全うできずに命を落としているだろう。過酷な生存競争は自然界の掟だ。
だから自然界や動物たちを想えば、命を危険に脅かされずに過ごしているくせに現代社会の厳しさばかりを取り上げて泣き言を言うつもりはないし、競争や優劣の存在を否定する気も僕はない。ただ、過酷な生存競争である生命の歴史において、もう一つの大きな特徴があることも忘れないでおきたい。

自然淘汰による生物の進化は、生命のデザインに複雑化と多様性をもたらした。単細胞生物から始まった生命史は、自然淘汰の長い時の洗礼を経て適者生存の理に基づき、様々な形に姿を変えて様々なライフスタイルを作った。現在地球上の生態系は既知の総種数だけで約175万種にまでなり、それらが絶妙な均衡の上に成り立って生物多様性は保たれている。
今から約20万年前に現れたホモ・サピエンスも多様性が生んだ一つの種であったが、情報伝達手段を発達させた文明化によって僅か数世紀で瞬く間に数を増やして、生物多様性を脅かす一強状態になっている。これも弱肉強食といえばそれまでだろう。しかし我々人類の存続をも脅かす自体に発展しているのもまた事実だ。

自然淘汰による生存競争が生物の複雑化と多様性を育んだのに対し、人類の繁栄は生物多様性を脅かしているのが現状だ。人類という一つの種が大繁殖したことで人類に益する生物や人類と共生した生物と、人類に適応できなかった生物とで、生存競争の難易度は桁外れに変化した。その結果として、生物多様性は失われ生態系が単純化していくのも頷ける。
自然淘汰による生存競争と人為的な優生思想との決定的な違いは複雑化と多様性にある。生存競争がなければ進化は生まれず、魚は陸に上がらず鳥は羽を生やさず、身を守るための固い甲羅や屈強な皮膚も、獲物を捕らえるための鋭利な爪や牙も、人類が脳の発達や道具の使用を会得することも無かっただろう。
過酷な競争が進化を生んだ。楽園を追い出されたアダムとイヴは、原罪を抱えながらも下界で生き抜くための知恵を手にした。安全と幸福の楽園で過ごすようには、良くも悪くも人の体は作られていない。

進化だけなら優生思想によっても実現するだろう。しかし自由度の低い画一化した定義によって優劣が決められる選別では、複雑で多様な人間の在り方は消失していくだろう。
自然淘汰に抗い生き残るための手段にはルールはないからこそ、あらゆる進化の形が存在している。生存競争に制約があれば、約175万種にまで上る多種多様な生物が地球上に現れることはなかったはずだ。

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牙の生えない象

アフリカ南東部に位置する国モザンビークでは1977年から1992年の15年、政権闘争によるモザンビーク内戦が続いた。その間、国内では象牙目当ての密猟が横行して約9割に上る数のアフリカ象が殺された。
その結果、同国の国立公園では生まれつき牙が生えない個体が増えていることが最近の調査でわかった。通常、牙が生えてこない個体は希少な遺伝形質であるためメスのアフリカ象のうち2〜4%しか生まれないのに対して、国立公園内のアフリカ象では32%にもなる。内戦の生き残りである25歳以上の雌のアフリカ象は全体の半数を超える51%が牙を持たず、牙が生えないという遺伝形質には象牙目当ての密猟による人為淘汰を免れる生存的優位があることでモザンビーク共和国内では牙が生えてこないアフリカ象の割合が急増した。

牙が生えないという遺伝形質は、アフリカ象における優れた形質なのだろうか。人間のエゴによってアフリカ象が大量虐殺の目に遭ったことに遺憾を抱く。
象牙の主な用途の一つに、日本で使われる印鑑がある。ハンコ文化が根づく日本の印鑑でも象牙を使用した印鑑は最高級品で高い値がつく。日本では古くから、絶滅危惧種にも登録されるアフリカ象を狩猟して得た象牙を輸入し、印鑑にしてきた。ワシントン条約により象牙の国際取引が原則禁止とされるも、絶滅の恐れが低い南部アフリカ地域のアフリカ象の輸入を解禁させている。
「日本の文化を失わせないために」との大義名分で絶滅危惧種の輸入を続けるクソみたいなハンコ文化は滅びればいいと僕は思う。絶滅の恐れが低いって、絶対数が少ないから絶滅危惧種なんやろボケ。そもそもデジタル時代にわざわざハンコなんか面倒くさいだけだし。
……まあそれはそれとして。牙の生えない象が増えた例は、人間から逃れるための生存競争では種の進化と結びつかないことを示している。

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競馬はブラッド・スポーツだ

農林水産省の公表によると2015年の馬の屠畜数は12466頭、うち食肉輸入馬は4277頭、よって国内馬が約8000頭を占める。
国内生産馬の8割は競走馬のサラブレッドで、毎年約7000頭が産まれてくる。
つまりあまり公にされずにいる話だが、ほとんどの競走馬は天寿を全うすることなく食肉にされているということだ。引退後の競走馬についてセカンドキャリアまでは追って知ることができるが、サードキャリアについては問い合わせても知ることができないらしい。ほぼ全ての競走馬は、30〜40年とされる寿命の最期を迎えることはできないのだ。
産まれてきたサラブレッドは買い手が現れなければ処分され、レース前の調教で弾かれて処分され、レースに出ても勝てなければ処分され、いくらか勝っても乗馬クラブなどで数年のセカンドキャリアを過ごした後に処分される。
……こんなのあんまりじゃないか。熱心に競馬を見てる奴らの気が知れない。いい金を貰ってニコニコとCMに出る芸能人も憎くて仕方がない。バカが。
しかしJRAが主催する中央競馬は年間3兆円の売上を誇る超巨大産業だ。動物園の設備への寄付もしているし、イメージ戦略もあって動物愛護に関する取り組みはしているのだろう。
金に物を言わせれば倫理も買える世の中なのだろうか。「やらない善よりやる偽善」と言うけれど、僕はそうは思わない。偽善はどこまでいっても偽善なのよ。

話を戻して、競馬といえば血統のスポーツだ。
ブラッド・スポーツとは本来、闘犬や闘鶏のような動物同士を闘わせる見せ物のような血が流れる競技を指す。ただ和製英語としては血統がものをいうスポーツという意味で使われ、競馬のことを指すことが多い。
しかし、どちらの意味でもやはり競馬はブラッドスポーツだ。毎年沢山の血が流れ、大量に消費されていく競走馬のことを想うと、競馬は残酷な動物虐待でしかないと思う。

その競走馬である品種サラブレッドは、自然界には一頭も存在しない。17世紀にヨーロッパでより速く走る馬を作るために人為的に改良して誕生したレース専用の馬である。それから現在に至るまで、レースに優秀な血統の馬同士を交配させ続けていることは誰もがご存知だろう。
ただ、サラブレッドは馬として本当に優れているのだろうか? 人為淘汰の繰り返しによって出来たサラブレッドという種は、馬として、生命としても優れているのだろうか?
馬の品種は200を超える。荷物や馬車を引いたり農耕馬として最も古くから人間と関わってきた重種や、サラブレッドよりも気候の変化に強い種や粗食に耐えうる種、山脈に棲む種など、色々な個性がある動物が馬だ。それが今では人間の都合で、競馬というビジネスのためだけの理由でサラブレッドばかりが生産され、限定された馬場と距離の範囲内での速さだけが馬の価値とされ、使い物にならなければゴミを掃き捨てるかのように処分されている。
そんな優生思想が人類の未来や種の進化にとって価値があるとは、僕は決して思えない。

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優生思想は人間の家畜化か?

主な人為淘汰といえばペットと家畜だろう。
犬は、現在登録されている400種余りの全てがわずか数世紀の間に生まれている。自然淘汰と比べて急速な変化をもたらす人為淘汰によって誕生した犬種のうちいくつかは気性の荒さが人間に害を及ぼすとして国によっては繁殖が禁止されるようになった。ある時は闘犬として人々の娯楽のために闘わされ、今度はそれが野蛮だ危険だと言い出す始末。
犬は時代によって、代わる代わる都合の良い姿かたちに変わり使役させられてきた。これからも需要のなくなった犬種は地上から姿を消し、流行りの人気犬種のみが数を増やしていくのだろう。
家畜も同様に、必要とされる種は狭い畜舎の中でぎゅうぎゅうに繁殖させられて、用途に応じて命までも利用されるだけの運命にある。
肉用鶏であるブロイラーは一日も早く太るように品種改良させられて、50年前に比べて成長率は4~6倍も引き上げられた。その結果ほとんどのブロイラーは心臓に疾患を持ち、歩行障害があり、死亡率は従来の数倍になった。ある研究者によれば食肉として出荷される生後一ヶ月半を2週間過ぎても生存可能なブロイラーはいないとされる。野生じゃ生きていけないどころか、健康に過ごす力すら奪われて死ぬまで苦しむ羽目にある。
あんまりじゃないか。そこまでして鶏肉が食べたいと僕は到底思えない。採卵鶏も牛も豚も同様だ。利益追求の果てに命は効率化され続け、工業型畜産と呼ばれるあまりに酷い飼育環境で最後の時を待つ。
果たしてこれが、人類の望んだ世界なのか。

優生思想も同じではないだろうか?
人間社会にとって都合の良い能力だけが持て囃されて、世の中の役に立たなければ無価値なものにされてしまう。そこでは従順な家畜のように社会に牙を向けない性格だけが人徳とされ、求められた正解を導き出せる能力だけが知能とされ、本能の薄そうな中性的で人気の顔立ちだけがイケメンとされる。
時代が違えば美人とされていたはずの容姿にコンプレックスを抱いて他人の評価に振り回されて整形を繰り返す女性も、背の低さにコンプレックスを抱いてシークレットシューズを履いて誤魔化す男性も、学歴詐称も年収自慢もハイブランドも、自ら進んで家畜化しているに過ぎない。社会が設定した優秀に当てはまる自分を目指して自己家畜化への道をひた走る。
……そんな人生つまんねえじゃんか。自分だけの信念を貫いて、クソな社会には中指突き立てて闘っていこうよ。

おそらく優生思想の自己家畜化はもう始まっているのだろう。世界人口は年々増加傾向にあるが、先進国ほど少子化が顕著だという。
金だ知能だ教養だと先進国が勝手に人間の社会的価値を定めたくせに子どもは産まず、それらを持たない(失礼)ような発展途上国の人ばかりが子どもを産みまくっているとは皮肉な話じゃないか。
これはつまり、人間の本能はちゃんと何が正しいかを知ってるってことじゃないだろうか。自然淘汰が正常になされている危険で必死な人生の渦中にいる人こそ、苛烈な生存競争にあって血筋を絶やすまいと子育てをするんだ。
人為淘汰の先にあるのは進化じゃない。定められた価値を放棄して、自由に自分らしく、必死に懸命に、自然から学んで日々を生き抜くことが、人類と地球の遠い未来のための一歩になるのではないだろうか。

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