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罪と罰と大人の悪意

こないだ書いたnoteでも少し触れたけど、子どもは成長過程において大人の悪意を受けたり競争に晒されたりする中で、社会は厳しくて冷たいのだと認識して社会で生き抜くための自立心が芽生えていくのだと思う。

この説を発展させると、競争や悪意が渦巻く社会に放り込まれる時期が早いほど、自立もまた早くなるのではないか? と思った。
偏見を持ってはいけないが、家庭環境が悪かった小学校の同級生が図々しく人の家に居座り込んだり人の物を盗んだりしていたのを見た経験は大なり小なり心当たりがある人もいるのではないだろうか。また、発展途上国のスラム街に住む子ども達が物乞いに出たりゴミ山を漁ったりする姿は、痛ましくあれど現代の日本人には到底真似できない逞しさも感じさせる。
社会的動物である人間は周囲の環境に適応していく。育った環境が過酷なほど、子どもは必要に迫られて社会で生き抜くための力を身につけていく。家庭環境の悪い子や治安の悪い国に住む子は自立が早くなる傾向にあるのはそのためだ。反対に、過保護に甘やかされて育った子が親離れできなくなると言われたり温室育ちと揶揄されるのも、説の裏返しとして一定の根拠になるのではないだろうか。

『獅子は我が子を千尋の谷に落とす』と諺にあるように、あるいは戸塚ヨットスクールや昭和のスパルタ教育や昔ながらの高校野球部みたいな、過酷で厳しい環境こそが子どもを強く逞しく育てるためには必要なのだろうか?

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僕が人生でもっとも影響を受けた小説はドストエフスキーの『罪と罰』だ。
奪った金を社会正義に役立てるためなら殺人は本質的な罪ではないと考えて、強欲な金貸しの老婆を殺害した主人公ラスコーリニコフの提唱する凡人非凡人論では、凡人は現代の支配者であり非凡人は未来の支配者であると言う。
曰く、非凡な人間は未来のために今ある価値を踏み越えて新しく書き換えていくのだから現代の価値観で評されることはなく、現行の法と秩序を行儀良く守ることに長けた凡人は現代社会の主体として生きていくことになる。そのどちらも社会に必要で、優劣ではないとも言う。
これはラスコーリニコフが非凡人の一人として老婆を殺す理由になる思想なのだけど、凡人か非凡人かはさておき、現代と未来の区分けは子どもの育ち方にも関連するなと思った。

成長期の早い段階で競争、悪意、賞罰、成果報酬といったシビアな社会に放り込まれた子どもは、世の中のルールを把握して与えられたタスクをこなすことで精一杯になり、現実的な思考ばかりが強化されるのではないだろうか。
ゴミ山を漁る逞しいスラム街の少年や、スパルタ教育の体育会系運動部や、あるいは熾烈なお受験戦争に駆り出される子ども達は、タスクをこなす実務能力ばかりが育ち、抽象的な思考を身につけられずに大人になるのではないか。
反対に、無条件に与えられた愛の中で成長期を健やかに育った子どもは、実務能力の発達では出遅れるものの社会的成果とは無関係に興味や関心の芽を伸ばしやすいと思う。処世術を身につけるよりも前に、文化や芸術などの自分が好きな世界に没頭できる生活の余裕があるからだ。
思えばラスコーリニコフは貧乏な苦学生の身であったとはいえ、家族愛に恵まれて育ち、一人暮らしをした後でも生活能力に乏しく、殺人はおろか暴力事件一つ起こしたことがなさそうな大人しい青年であり、毎日ベッドの上で自己の思想に没頭しているような抽象的な人間だ。おそらく、幼少期から読書に勤しむ習慣と時間がある家庭で育ったからだろう。

最終的にラスコーリニコフは殺人を犯してシベリア流刑になったから、結末を理由に、独りよがりな妄想ばかりしないで早いうちに社会で通用する能力を身につけて、仕事を覚えて出世を目指す方が人の生き方として正しいじゃないか、と考える人もいると思う。
たしかにラスコーリニコフは敗れた。現実に、自らの思想に、愛の尊さの前に敗れ去った。しかし僕はラスコーリニコフにはとても感情移入してしまう。感情のない機械のようにシステマチックに進行していく社会の中で歯車のように動くことができずに、抱えきれない理想の社会を夢に見て現実との乖離に押し潰されそうになりながらも、現実に抗い理想に殉じようとした孤独な青年の愚かな純真を、いったい誰が笑うことができるだろう。
ラスコーリニコフは罪を犯して罰を負った。それはボタンの掛け違いだったかもしれない。しかし人類が犯してきた数々の大罪を思えば、罰せられずに済んだ多くの残虐は常に時代の支配者である大勢の民衆が支持していたからに過ぎないし、秩序を乱して新しいエルサレムを夢に見る少数の異端者が罰を負うのは数の論理によるものだとも思える。

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さて、話を戻して教育方針や置かれた環境の差異について考えると、文化成熟度が高い現代日本においては、早期のスパルタ教育や競争原理との接触、冷たい悪意からの自衛などを修めていくことは出世においてはとても有効だと思う。
英才教育は今後ますます需要を伸ばしていき、分野ごとの専門的知見がより高度に解析されていけばいくほど成果は高くなる。社会に出る前にどれだけの技能を身につけたかが勝負の分かれ目になるような、後から巻き返すことが難しい社会が更に続くと予想される。そうなれば人の心からは余裕が失われていくだろう。

僕は言いたい。それが正しい世の中なんだろうかと。産業革命以降、目先の利益競争に夢中になった列強国の裏側でどれだけ多くの血が流れただろうか。金でしか価値を測れない人間が増えれば、有色人種が迫害されてきたように人間の生活に寄与せず在るがまま生きている熱帯雨林や野生動物は無価値だとされて排除され続けてしまう。
我々人間が真に人間らしく生きるには、社会的価値とは無関係なものに純粋な興味を示して浸る時間が、子どもはもちろん大人にも必要ではないだろうか。
早いうちから厳しい上下関係を学び、競争を煽られ、悪意や賞罰の存在を認識して育つことで、具体的なことばかり考える低次の現実主義に陥って未来に夢を描けなくはならないだろうか。いくら実務能力に優れて処世術に長けても、椅子取りゲームの勝者を目指すだけの人生になってしまわないだろうか。

凡人非凡人論が正しければ、自分を非凡人だと勘違いした凡人は最終的には社会人となり現代社会を構成する一員として生きていくことを選ぶから、犯罪者が溢れ返る心配はしなくていいようだ。
そうなると罪を犯さず、かと言ってまともな社会人にもなれない僕は凡人以下の落伍者でしかないんだけど、それでも抽象的な思考を巡らせたり未来を夢想したりする人がいなくなってしまえば自然はどんどん取り壊されていき、音楽や芸術や多くの文化は金になるならないだけが判断基準になっていき、世界は衰退してしまう。
みんな、そんな世の中には住みたくないよね?
未来を支える今の子ども達には、社会の手垢がついていない自然に触れながら、どうか純粋に自分が好きなことへ没頭する時間と余裕を与えてあげて欲しいなと思うのでした。

PS.そういえば昔、ラスコーリニコフみたいだって言われたことあるなぁ(笑)

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