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再生 7話

草介は静かに家を出ると、人目につかないように気をつかいながら音を立てぬよう小走りで外を駆けていった。
小走りならここから十五分くらいで何もなければ着くだろう。
雲一つない夜空を見上げると、月が微笑んでいるかのように妖しく光っていた。
今日が人生最大の勝負になる。恐怖で心臓が張り裂けそうに高鳴っている。けれどもう、自分が退けないことはわかっていた。

***

なんのためにやるのか。
恨みはない。人助けでもない。自分の筋を通すためだろうか。自分の思想に、自分自身を殉じてみたいのだろうか。
後から冷静に振り返れば、なんて愚かなことに命を賭けたのだろうと、きっとバカバカしく思うだろう。けれどそんな愚かさを抱えて、正しくあろうとする自分が好きなんだと思う。
国枝敏弘なんてどうでもいい。そんな男はどうでもいい。国枝良子もどうでもよかった。自分は自分の思想に殉じるために、国枝敏弘のアパートに向かっているんだ。
(夢に愚かであれ)
藤井草介は自分にそう言い聞かせて、恐怖心を抑え込んだ。

走馬灯のように、小学生の頃の話を不意に思い出した。
担任の四十代の女性の先生が叱っている。
「ゴミはちゃんと持ち帰りましょうね!」
どうやらみんなで遠足に来てる時のことだった。あれは確か、小学一年の頃だ。
近くを通り過ぎたサラリーマン風の男が、通りがかったベンチに飲み終えた缶コーヒーの空き缶を置いてその場を離れた。
見ていたはずの先生はすぐに目を逸らし、見ていないかのように振る舞った。
ベンチのほうを指差して先生に言った。
「あの人今、ゴミ捨てたよ!」
先生はバツが悪そうに、言われて今知ったかのように再度ベンチに目をやると、過ぎ去って行くサラリーマン風の男は目に入らないかのように、ベンチの空き缶を一目見て苦笑しながら答えた。
「え? 先生気づかなかった。みんなはちゃんと持ち帰りましょうね」
先生は絶対見てたとわかっていた。
「見てたじゃん!」
「うん? どの人のこと言ってるの?」
もうサラリーマン風の男は過ぎ去ってここからは見えなくなっていた。
目をキョトンとさせて口をすぼめて、不思議なことを言う子だなぁというような表情をして先生は自分を見つめた。
その頃好きだったクラスで一番可愛い堀口さんがクスクスと笑っていた。「藤井くんってたまに変なこと言うよね」と隣の女子に話しているのが聞こえてきた。
悔しさが滲む心で立ち尽くした。涙を流してたまるもんかと意地になって我慢した。きっと泣いても先生は誤魔化したことを認めようとせずに、より一層哀れな道化に映るだろう。
草介は、あの日初めてこの世界の理不尽を体験したんだと思い出していた。

そうか。俺は先生のような大人になりたくなかったんだ。
小さなことかもしれない。どうでもいいことかもしれない。けれどどんな小さなことにでも、筋を通せる人間になりたかったんだ。
自分の小さな声が無視されたのが辛かったんだ。排除される側の弱い人間を救える人になってみたかったんだ。

これは俺のイデオロギーのための戦争なんだ。
胸がだんだんと熱くなってきた。恐怖心を上回る情熱が湧いてきた。
この角を曲がればアパートに着く。
フッと一度息を吐き、決意を固めた。

***

草介は国枝敏弘が住むアパートの前に立っていた。
二〇七号室。外から回って二階の一室を見ると、部屋からは明かりが漏れていた。
時刻は深夜一時を回った頃。まだ起きている可能性は十分に考えられた。
心臓が急速に鼓動を打った。
(怖い…… また今度にしようか……)
弱気になる心が生んだ代案が不意に頭をよぎる。
怖い。辞めよう。所詮、俺に人を殺す勇気なんてなかったんだ。
立ち尽くす時間はないのだと頭ではわかっていたが、体はその場から動こうとはしなかった。

永遠に感じられるこの時は、時間にして五分程度だっただろう。草介は人気のない場所に身を移し、自問自答を繰り返していた。
しかし、今日やるべきだと思っていた。今日を逃したら、一生次の機会は訪れないとわかっていた。この瞬間を超えなければ、俺は一生臆病者のつまらない笑顔を浮かべた家畜に成り下がる。あの先生と同じ人間になる。
「やろう! やろう! やるんだ、草介」
声に出して自分に言い聞かせた。
何度も何度も殺す場面を想像してきた。
国枝敏弘は抵抗して、揉み合いになり、俺は国枝敏弘の口を塞ぎ、必死の抵抗を押さえ込んで心臓に刃を突き刺すのだった。
寝てるところを刺して終わり、なんて想像はしてこなかった。いつだって想像の中で抵抗に合い、戦って勝つところまでを想像していた。
一番リアルに生と死と殺しを感じれる瞬間を、心のどこかでは望んでいたんじゃないか。
人の命を奪う人生最大の勝負が拍子抜けするほど呆気ないものであっては、どこか残念な気持ちがきっとあった。
(……よし)
草介はアパートに向かって歩き出した。

***

ここまできっと誰にも見られていない。
恐る恐る、アパートの階段を登っていった。緊張と恐怖で足が震える。音が響かないように、鉄製の階段を一段一段静かに登った。
二〇七号室の前に立った。
ドアの隣の窓は鍵が空いていた。国枝敏弘が不用心な人間であることは今日までの張り込みでわかっていた。
草介はまずドアに手をかけた。
ゆっくりとドアノブを回して、回しきると慎重に引いてみた。
ドアは静かに、草介の加えた力に応えて動き出した。
(開く……)
数センチ開けては、また静かに閉めた。
フゥーーッと大きく息を吐いた。
このドアを開けたら、もう元には戻れない。
今までの全てとさよならだ。人形の自分から意思を持った自分に生まれ変わるためには、自分が自分であるためには、このドアを開けて進まなくてはならない。
(どうにでもなれ)
草介は静かにドアを開けた。

***

ドアを開けて外から静かに中の様子を伺うと、ワンルームの部屋ではベッドに国枝敏弘が座っていた。
国枝敏弘はテレビを見ていて、テーブルの上には缶ビールの空き缶が数本置いてあった。
国枝敏弘の姿を見た瞬間に、急激に恐怖心が膨れ上がった。中に入りすぐさま玄関の隅に身を隠し、今にも吐き出しそうなほどの緊張と静かに戦っていた。
(やばい…… やばい……)
見つかってはいけない。
見つかる前にすぐに目の前まで躍り出て、胸か首を一突きにして息の根を止めるしかない。

草介は飛び出すタイミングを見計らっていた。長く待っていては刻々と状況が不利になることはわかっていた。
国枝敏弘が何かに気を取られた隙に、こちらに背を向けた瞬間に行く。

そしてその時は訪れた。

国枝敏弘はベッドに倒れ込み、横を向いてテレビを眺め始めた。
もうなにも考える暇はなかった。草介は懐に忍ばせていた包丁を取り出して震える手で握りしめた。そして勢いよく玄関から飛び出した。
近づくやいなや横を向いて寝そべっいる国枝敏弘に、背後から胸元めがけて全力で包丁を突き刺した。

刃ははじめ柔らかく沈んでいき、途中で筋肉に抵抗されて押し返されそうになるのを、さらに強い力で貫いた。
包丁は、国枝敏弘の胸に突き刺さった。
「あっ…」
か細い声を上げて国枝敏弘は振り返った。
背後に立つ草介は、国枝敏弘と目が合った気がした。見上げるようにしてこちらを見ている国枝敏弘の、切なそうな表情に耐えかねて思わず目を逸らした。
胸元に刺さった包丁を、引き裂くようにして引っ張り出してまた懐にしまった。
その刹那、国枝敏弘は胸を押さえてうつ伏せに倒れ込んだ。
(殺した! 殺した! 殺した!)
(殺しちゃったよ……!)
草介は自分のしたことが恐ろしくなり、一目散にその場を後にした。
アパートから全速力で駆け抜けて、十分足らずで自宅まで着いた。
鍵を開けたまま出た自宅に着くと、家に入り静かに鍵をかけて自室に戻った。
(殺した! 人を殺した……!)
「やっちゃったよ」
そう呟くと、もう考えても仕方がないと思い始めた。体は疲労困憊だった。
衣類と刃物をひとまとめにして用意していたゴミ袋にしまい込み机の引き出しの奥にしまい込んだ。
無意識のように普段の寝巻きに着替え終えると、(寝るしかない)そう思って布団に潜り込んだ。
異常な興奮の中にも、ある種の達成感があったことに草介は気づいた。

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