見出し画像

遠藤健太郎vs木村文祐

2019年5月20日。
早朝に一本の電話が入った。

朝の5時。見知らぬ番号からだった。
迷惑電話だと思い無視したら、Cメールが届いた。
「起きていますか?」
起きていた。けれど返答はしなかった。

同じ番号から8時頃また電話がかかってきた。
また迷惑電話かと思い少しイラっときたが、もし知り合いや公共料金の支払いの催促だったらと思いその電話番号で検索をかけたが結局誰からの電話かはわからなかった。
電話に無視すると、またCメールが届いた。
「遠藤さんの電話ですか?」

この番号の主は自分のことを知っている。
少し怖くなった。
バレているなら無視するわけにもいかない、逆に聞き返してやる。
「どなたですか?」

相手から返信がきた。
「遠藤健太郎さんの電話ですか?」

相手方は名乗ることもせず、再度電話をかけた相手である自分に、自分であることを確認してきた。
名乗れよ。そう思い、相手の質問には答えずに再度聞き返した。
「どなたですか?」

***

返事が返ってきた。
「大橋です」

所属ジムの会長からだとわかって、僕は酷く慌てた。
「失礼しました! はい、遠藤です!」

電話がかかってきた。
「てめえ、なにがどなたですかだよ(笑)」
「すみません!」
「7月1日に試合できるか?」
「!? はい! ぜひやらせてください!」
「兵庫の日本ランカーの木村と。スーパーライト級でいいな?」
「はい! ありがとうございます!」
「よし。じゃあ聞いてみるよ。出来る相手がお前しかいないんだよ」
「お願いします! ありがとうございます!」

こうして唐突に試合の話がきた。

電話はイギリスからだった。
ジムの大スター井上尚弥君の試合(エマニュエル・ロドリゲス戦)で会長も開催地イギリスのグラスゴーに行っていたからだった。
木村選手と対戦する予定だったジムの選手に他の試合が決まり、急遽代役として僕に白羽の矢が立ったという訳だった。

早速ボクシングモバイルを開いて日本ランカーの木村とやらを探す。
日本6位、東洋11位の木村文祐という選手がいた。
(こいつか……)
すぐに名前で検索して試合の動画を探す。見つけた試合映像からだいたいの動きを頭に入れて、途中で飽きて見るのを辞めた。

(試合だ……)
興奮と喜びで、すぐにでもみんなに報告したかった。けどまだ正式決定じゃない。報告してから決まらずに、「やっぱり試合決まらなかったです」と後で言わなくちゃいけない恥ずかしさを、気が早い僕は過去に何度も経験している。
湧き立つ気持ちを胸に秘めて、そわそわしながら一日中過ごしていた。

試合の話を貰って気持ちが一気に高揚した。試合の話がくると、結局自分はボクシングが一番好きなんだといつも実感する。
夜、ジムでの練習を終えて帰るとLINEが来ていた。
会長からだった。イギリスから帰って自分の携帯を使えるようになったのだろう。

試合正式に決まりました
7月1日後楽園ホール
試合順未定
対戦相手 木村文祐

体温が一気に上がった。
心臓が高鳴り、血液が全身を巡るのがわかる。
(よし……!!)
いつも臆病で気弱な僕だが、それでも試合が決まると嬉しい気持ちが抑えられない。この緊張感が辞められない。
すぐに大勢の仲間に連絡を入れた。試合に誘うのもプロボクサーの仕事だ。

***

それからの1ヶ月。
練習は激しさを増していった。普段サボりがちだった朝のロードワークを早起きしてこなし、昼間の仕事を終えると夜はジムでスパーリングをする。
連日のハードワークで身体の節々が痛くなる時もあるが、プロテインやサプリメントも活用して最大限回復に努めた。

試合の日から逆算して、今なにをすべきか考えて練習をする。食事にも気をつかい、身体に悪そうな食品は一切口にしなかった。
日に日に身体が絞れていくのがわかる。神経が研ぎ澄まされていく感覚になる。好きなものを好きなだけ食べている時にはわからない食のありがたみを感じながら、質素な食事を口に運ぶ。
「いただきます」と手を合わせる作法は単なる食事のマナーではなく、飢餓に苦しんでいた先人たちがやっと食事にありつけた時の喜びから自然に生まれた祈りの所作なんじゃないか。
飽食の時代でもある現代の日本で目標もなしに自ら率先しては中々できないことだが、後から振り返ると食事に対するこの感覚は、人生においてもとても貴重な経験になっていると思う。

試合の日が迫ってきた。

***

プロボクシングの試合は前日に計量がある。
今回の試合の契約体重は63.5キロだ。計量時に契約体重以下に落とすことができないと失格になる。

計量前日の朝に体重を測ると67.1キロだった。63.5キロまで、あと3.6キロ落とさなければいけなかった。

落とせる脂肪は既にほとんどない状態になっているから、水抜きと呼ばれる一時的な脱水をして体重を落とす。
少しだけ飲み食いしながら夜まで家でゴロゴロして体重計に乗ったら66.9キロになっていた。ここからあと3キロ以上、汗をかいて落とすことになる。

6月29日18時20分66.9キロ。
鏡が汚いのはご愛嬌。

気怠い体で自転車を漕ぎ、銭湯まで行って風呂とサウナに入って汗を流した。汗が出てきてキツくなってきたら体重計に乗り、その度に(まだこれしか落ちてねえのかよ)とがっかりしながらサウナに引き返して、また体重を落としていった。
サウナ室に流れるテレビは全く目に入らずに、試合のことや自分自身のことだけが頭を巡り続けていた。10分以上入っているとようやく、水分の少ない身体からじんわりと汗が吹き出してくるのを肌を眺めて感じていた。
幾度となくサウナに入り体重を計り続けて、ようやく64.1キロ。あと600グラム。寝て朝になれば落ちている分もあるから、もう十分だろうと思って切り上げた。
フラフラしながら家に帰ると、もう一度体重計で体重を確認する。体重計に誤差がないかの確認のためでもある。

6月29日23時14分64.1キロ。
目が落ち窪んで顔付きが変わっているのがわかる。

明日の計量後に飲むために各種栄養を調合した特製ドリンクを用意してから布団に潜った。

***

6月30日。計量日。
目が覚めるとまず体重計に乗る。63.7キロ。
これなら何もしなくても計量時間には落ちている。ここで僕は初めて安堵した。

6月30日9時28分63.7キロ。
前日夜の落ち窪んだ顔付きが戻っているように見える。

計量のある昼までやることもなく、ベッドに寝転がりスマホで音楽を聴きながらゴロゴロしていた。
スピッツの『つぐみ』にこんな歌詞がある。

「愛してる」この命 明日には 尽きるかも
言わなくちゃ 言わなくちゃ できるだけまじめに

スピッツ『つぐみ』

プロボクシングは命懸けの世界だ。
もしかしたら明日死ぬかもしれない。好きな人へ伝えたい想いが山ほどある。言わずに死ねるか。勝とう、勝って愛の言葉を言わなくちゃ。
この時僕はそう思っていた。

***

後楽園ホールの上にはプロボクシングの事務局があり、計量は通常その一室で行われる。
少しでも早く計量を終わらせて飲食をしたい選手たちは、計量が予定時間より早くなる可能性を見越して早めに到着していた。僕も予定時間よりは早く着いて、並べられたパイプ椅子に座って呼ばれるまで待っていた。

この時間が嫌だった。
社交的な選手は付き添いや他の試合の選手たちと会話をしたり、僕みたいな人見知りの選手は時間がくるまで一人でスマホを弄ったりしている。ただ誰の頭の中にも明日の試合のことがあり、淡々と時間だけが過ぎる中でも隠し切れない、ピリピリとした緊張感だけが部屋中に漂っていた。
強さというのは雰囲気に表れてしまうものなのか、それとも周囲が抱く固定観念がそう思わせるのか、メインを務めるような強い選手が部屋に入ってくると空気が変わる。佇まいがどこか堂々として自信に満ち溢れてるように見えて、比べて視線を誤魔化しながら周りの様子をチラチラ伺う僕は自分に自信のない人間だと嫌でも痛感させられる。
そんな中、遅れてやってきた対戦相手は飄々とした顔をしてキョロキョロと辺りを見回していた。

「遠藤選手、計量お願いします」
関係者に呼ばれて服を脱ぐ。
この日のために仕上げた身体には、無駄な脂肪は一切ついてない。その身体を対戦相手に誇示するように全力で腹筋に力を入れながら、自然な顔をして計量の測りに乗った。
「63.5キロ。リミットだね」
一発でパスして安堵する。もし自分の家の体重計が壊れていたら、最後にチビチビ飲んだ水分で思った以上に増えていたら、そんな疑心暗鬼に駆られていた気持ちがこの瞬間に全部晴れた。
「次、木村選手お願いします」
脱いで待機していた対戦相手とすれ違う。
チラッと相手の身体を見ては、(俺の方がいい身体だ)と思った。木村選手は何も意識してないような間の抜けた顔で通り過ぎて、測りに乗った。

計量が終わると二人で向き合って写真を撮ることが多い。言われることを予想してズボンだけ履き、関係者の様子を伺った。
「遠藤選手、木村選手、そこ並んで構えて」
相手の計量が終わると案の定写真を撮られた。
まずカメラ向きで、終わると次は見合って撮った。緊張と気合いから険しい顔をしてる僕とは対照的に相手は柔らかい表情をしていた。


写真を撮り終えるとすぐに水分補給をして、ドクターの検診を受ける。異常はない。対戦相手も問題はないようだった。

***

検診計量が終わると同じジムのトレーナーや選手たち全員で食事に行った。ジムと懇意にしている飲食店が特別に食事を用意してくれていた。
お粥や雑炊やフルーツといった消化にいいメニューが並ぶ。各々が好きなものを選んで食べるが、僕はというと計量が終わってからチビチビと飲み続けていた特製の高糖質ドリンクの影響もあって、あまり食が進まなかった。

1時間ほど経ち、解散となった。
お店から家までトレーナーの車で送ってもらえた。
「明日は気合い入れていけよ」
「はい!やります」
この時ばかりは周囲の人の応援と助けに心から感謝した。
あとは自分がやるしかない。ここで奮起しなければ男ではない、そう自分に言い聞かせた。

家に着き、ご飯を用意してまた食べた。
食事中でも、なにをしていても、頭の中には常に試合のことが浮かぶ。この緊張感、生きている実感が癖になるのだろう、これがボクシングの中毒性なんだと思う。
食後に摂った消化酵素が効いているのか、食べてもすぐにお腹が空く。またご飯の用意をしてはこまめに食べ続けていた。

気を紛らわせようとテレビをつけると、『君の名は。』が放送していた。
僕は好きな人を思い出しながら、三葉をその人に、自分を瀧君に重ねて見入っていた。
(僕と彼女にも特別な運命がある)
そう願わずにはいられなかった。

マッチメイカーの方から送られてきた対戦相手と並んで写る写真を見ながら、好きな人に送りたい衝動に駆られた。
「明日は頑張ります」とか「絶対勝ちます」とか言って送ろうかとも思ったが、恋に浮かれて士気を削がれる気がして辞めた。
代わりにではないけれど、友達に写真を送って明日の意気込みを吐き出した。

あと24時間後には結果が出ている。
明日の自分は笑っているのか泣いているのか。
(決めるのはこの拳だ、死んでも勝つ)
湧き立つ闘志を静かに内に秘めながら眠りについた。

***

試合当日。朝早く目が覚めた。
今日が試合なのか、とぼんやりした頭で考えていた。少しずつ頭が起きてきて、それと同じく少しずつ緊張してくる。
あと12時間。10時間。8時間。試合の時間が近づくにつれて徐々に緊張感が高まっていく。あまり早く着きすぎて無駄に緊張しても意味がないと思い、時間に余裕を持たせ過ぎずに支度をして家を出た。

後楽園ホールまで向かう電車の中で中東系の女性を見かけた。
とても綺麗な人だった。普段なら気にも留めないのだろうけど、この日はなぜだか気になって悟られないように眺めていた。
今の僕の心境と違いリラックスした雰囲気が羨ましくもあり、所作の一つ一つが日本人と違う気がして、それが今はとても美しく感じた。美人は癒しだ、これで今日は勝てるな、と無関係な理由をつけて勝つ自信にしようとした。

***

水道橋駅で降りて後楽園ホールまで向かう。
胸を張って普段より姿勢を良くして、精悍な顔つきをして歩く。
(俺は勇者なんだ)
自分に言い聞かせるようにして戦地に赴いた。

控え室について準備をする。
誰も観客のいない会場のリングに上がりキャンバスの硬さやロープの張りをチェックする。準備運動をして軽くシャドーをする。調子は悪くない、体も重くない。
時間だけが刻一刻と近づいてきた。

トイレを済ませると、トレーナーにバンデージを巻いてもらう。緊張で手に汗が滲んでいるのがわかる。
バンデージを巻き終えると中に異物を仕込んでいないかコミッションのチェックを受け、問題ないことを確認されるとマジックでサインをされ。これでもう、試合を終えるまでバンデージを解くことは許されない。
(もう逃げられない)
結末の見えない勝負が始まることを覚悟した。
グローブをはめてパンチの感触を確かめる。時計を見るとそろそろ第一試合が始まる時間だった。

ふぅ……
大きく深呼吸して気持ちを落ち着かせる。
「好きな子が見に来るんだろ?」
「はい」
トレーナーに言われ、片思いしていた彼女の顔を思い出した。
(カッコいいところ見せなきゃな)

控え室から会場の歓声が聞こえる。
第一試合が始まった。一試合が中止になり、僕は第二試合に出場することになった。
控え室を出て会場の通路から試合を見る。客席には多分僕の好きな子がいる。いよいよ次は自分の出番だ、そう思うと緊張はピークに達した。

ゴリラのように通路を行ったり来たりとウロウロしながら時折シャドーをして自分の動きと感覚を確かめる。
「やるぞ」
「死んでも勝つ」
「絶対負けねえ」
「俺の方が強え」
強い言葉を小さく口に出しながら自分に言い聞かせていた。

前の試合が、終わった。

***

「それでは、第2試合スーパーライト級8回戦を行います」
会場の拍手と歓声が通路にも聞こえてきた。
いよいよ、始まる。
「まず青コーナーより木村文祐選手の入場です」
相手選手の入場曲がかかる。
通路で深呼吸を繰り返して自分が呼ばれるのを待つ。相手がリングに入場するまでの数分、それは永遠のように長く、また刹那のようにすぐに終わった。

「続きまして赤コーナーより遠藤健太郎選手の入場です」
デレレデッデデー♪
ギターの低い音が会場に大音量で流れる。

人が溢れた交差点をどこへ行く(押し流され)
似たような服を着て 似たような表情で
群れの中に紛れるように 歩いてる(疑わずに)
誰かと違うことに なにを躊躇うのだろう

僕の入場曲は4年前から使い続けている欅坂46の『サイレントマジョリティー』だ。
人と合わせることができない僕の孤独な意地を救い上げてくれる気がして大好きな曲だ。
「っしゃ!」
気合いを吐き出した。行こう。

君は君らしく 生きていく自由があるんだ
大人たちに支配されるな
初めからそう諦めてしまったら
僕らは何のために生まれたのか

サビと共に歩き出した。
リングの下でもう一度深呼吸をしてからうがいをして、照明に照らされた眩しいリングを見上げた。リングの上ではトレーナーが潜りやすいようにロープを開けて待っていてくれた。

夢を見ることは時には孤独にもなるよ
誰もいない道を進むんだ
この世界は群れていても始まらない
Yesでいいのか
サイレントマジョリティー

眩しく照らされたリングの中に上がった。僕は大勢の観客の声を肌で感じるかのように、リングをぐるっと一周した。

いよいよ濃密な一瞬、勝負の時がきた。僕は覚悟を決めた。

格闘技が裸で戦うのは、何も武器を持っていないことの証明だ。地位も名誉も金銭も持ち込めない、逃げも隠れもできない男と男の真剣勝負。この美学にどうしようもなく憧れて、怖がりな心を奮い立たせてこの世界に飛び込んだ。今がその瞬間だった。

リングアナが選手紹介をする。
「赤コーナー、戦績は7勝9敗1引き分け〜、7勝のうち6勝がノックアウト〜、公式計量は140パウンドぉ、大橋ジム所属! エンドォォォケンタロオォォォ!!」

次に青コーナーがコールされた。
対戦相手の木村選手が持つ日本第6位、東洋太平洋第11位の肩書きが耳に残った。ここで勝てば道が開ける。

リング中央に向かい合い、レフェリーが注意事項やルール説明を簡易にする。聞いちゃいないが一応頷く。
最後に、「お互い正々堂々と悔いのないよう全力のパフォーマンスをするように」と言った。
うん。その一言だけ心から頷いて、グローブを合わせた。

両コーナーに戻り、試合開始のゴングが鳴った。

***

序盤、動きは少し固かったが身長とリーチで勝る僕が先手で左ジャブを飛ばしていきリードしていった。
1ラウンド、2ラウンドまでの主導権を制した。相手は様子を見てるのか、僕のパンチを警戒してるのか、あまり飛ばさずにいた。

相手が後半戦に強いことを知っていたのでこのまま簡単にはいかないと思った。
「よーし、いいぞ。ここまで完全に取ってるぞ。顔ばかりになってるから、あとは上下にパンチを散らしていけ」
僕に深呼吸を促しながらセコンドがアドバイスをする。耳を傾けながら息を整えることに専念した。

3ラウンド、少し動きが緩慢になってきた自分と、リズムに慣れてきた相手の手数に差が少なくなる。このラウンドは微妙に取っていたか。雲行きが怪しくなってきた。

セコンドの声が聞こえる。実行できていないからだろう。少しずつパンチを貰い出した。
インターバル中に深呼吸を繰り返す。大きく息を吸おうとしても呼吸が荒くなり途切れてしまう。
(疲れた……)
弱気の虫が顔を出す。

4ラウンド、5ラウンド、相手がペースを上げて攻めてくる。背が低くずんぐりした体型で頭を下げてボディにパンチを打ってくる相手にカウンターを取れず手を焼きながら、後手に回ることが増えてきた。ボディから顔面への返しのパンチを顔にも貰い出した。

顔が熱い。左フックだろう、右目の周りが腫れているのを肌で感じた。
セコンドからの叱咤が飛ぶ。あとは気持ちだ。一発、強い一発をぶち当ててやる。パンチ力なら俺のがある、そう思い次のラウンドに向かった。
6ラウンド、力んで強く打とうとするも当たらない。相手は力む様子がなく、ヌルヌルと淀みなく動き続けて軽いパンチを繰り出し続けた。打たれ慣れて貰うことを気にしなくなってきた。効かねえよ、一発当ててやる、そんな気合いが空回りしてこのラウンドを取られた。
ポイントは微妙か。ここから二つ、なんとしても取らないと。均衡を破り抜け出さなくては勝つことはできない。

7ラウンド、先手先手で手数を出す。疲労とダメージから今まで避けていた相手のパンチを貰うようになってきたが手数で盛り返してこのラウンドは取れたか。鼻血を流しながら手を広げてアピールする相手も、本当はキツいのだと感じた。

疲れた。顔もパンパンに腫れている。ボディも自覚はないが効いているのだろう。お互い様だ。
最終ラウンド前のインターバル中にセコンドの声が聞こえた。必死になって自分に声をかける。
「最後取れよ。手数だ、手数を出せ。勝ちたいんだろ?」
満身創痍の身体を精一杯休めつつ、俯きながら無言で深く頷いた。そうだ、勝ちたいんだ。
最終第8ラウンドのゴングが鳴った。
身体が思うように動かない。重い。それでも休まずに打っていかなきゃいけない。序盤とは比べるべくもない遅い動きながら、懸命に手を出し続けた。きっと相手も同じだったことだろう。試合は消耗戦だった。

一進一退、どっちつかずのまま最終ラウンド終了のゴングが鳴った。
疲れた。終わった。なにも考えられない頭でぼんやりと悔やむ。もっとできたはずだ、と。

ボクシングをやるまで、試合が終わると急に親しげに抱き合い健闘を称え合うボクサーの姿が好きじゃなかった。綺麗事のスポーツマンシップのような、血生臭い男の格闘技の世界に似つかわしくないような気がしていた。
けれど試合が終わったこの瞬間は、なんだか不思議と、たった今まで殴り合ってきた相手に長年来の戦友のような感情を抱いてしまう。
傷だらけの顔をしながら、自分を今こんな目に遭わせた、目の前の相手と思わず抱き合った。

そして勝敗は判定に委ねられた。

***

両コーナーに戻り、椅子に座ってセコンドに体を拭いてもらった。
アナウンスが流れる。
「採点の結果をお知らせします」
場内が静まり返る。
どっちだ……
勝ちにしてくれ。

「ジャッジ○○、77対75」
……。
採点は僅差だ。
こいこい……
「赤、遠藤」
っしゃ!
けれど、この流れはもしかして……

「ジャッジ○○、77対75」
また僅差だ……
「青、木村」
ワッ!
相手の応援団から歓声が聞こえる。
あと一人……
赤!
赤!
赤こい!

心の中で何度も勝利を願う。
「ジャッジ○○……」
場内が一層静かになる。
こい、こい……

「76対76、ドロー」
ドロー……
ドローか。

77-75 75-77 76-76
三者三様のドローという結末だった。
ああ。終わった。

レフェリーに促されリング中央で再度相手と挨拶をする。相手は納得いってないような複雑な顔をしていた。
四方に向かってお辞儀をした。拍手が聴こえてくる。ああ、勝ちたかった。
足に力が入ってないのがわかった。腕を支えてもらいながらリングを下りた。
通路を歩いて控え室に戻る途中、客席から労いの言葉と拍手が聞こえてきた。

***

あと一つ。あと1ラウンドだけでも根性を出して攻め込んでいれば勝てた試合だった。途中で疲れて弱気になった自分を責める。戦略に欠いて終始同じ展開で戦っていたことも悔やむ。
あと何か一つ、自分を変えることができていたら……
医務室に行き、横になって検診を受ける。ドクターに検診されながら体調を聞かれる。
「大丈夫です」しんどくてもそう言うしかない。
控え室に戻ってグローブやバンデージ、リングシューズの紐を外す。
(ああ、目が痛え……)
痛みで目が開かなくなっていた。痛くて涙が溢れ出る。

控え室ではこれから試合をする選手たちがウォーミングアップやバンデージ巻きをしていて、勝てなかった自分は肩身が狭かった。部屋の隅で腫れた目を押さえて静かに休んでいた。
20分ほど目を瞑ったまま座っていただろうか。トレーナーが痺れを切らして声をかける。
「おい、早くシャワー浴びてこいよ」
「あ、はい。ちょっと」
「そんな落ち込むんだったらもっと頑張れよ」
「はい……」
違う目が痛いんだ、とは言えずに我慢して目を細めて開けて、微かに見える視界を頼りにシャワー室に向かいシャワーを浴びた。

シャワーが顔中に滲みて痛い。
どうせこんなにボロボロになるまで戦うのなら、あと一歩踏ん張ればよかった。また命を懸けきれなかった。根性なしめ。
シャワーを浴びながら、ボロボロと後悔の念がこぼれ落ちた。
(クソ、クソ、クソ……)

シャワーを浴び終えてさっぱりとしたら、少し目の痛みが引いてきた。血と共に後悔を洗い流したみたいに、気持ちが少し晴れてきた。
着替えて身支度をして、客席に挨拶に向かうために控え室を出た。応援に来てくれた人たちに合わせる顔がない気もしたが、お礼を言おう。
お金を払って自分を観に来てくれた人たちには感謝しかない。職場からも大勢が観に来てくれた。そういう人たちがいるから、僕は働き続けることができているのだろう。いい人ばかりだ。
僕は会場に上がって客席を見渡した。

応援に来てくれた人たちを見つけ出すと挨拶して回った。

誰やねん……

一通りの挨拶を終えると、また痛み出した目を抑えながら観に来てくれた両親の車に一緒に乗って実家に帰った。
勝てなかった。それでもまだ生きていた。数日休んで、また人生は続く。

凝縮された1日が、終わりを告げようとしていた。


※試合写真はボクシングモバイル様、フェニックスプロモーション様よりお借りしました

この記事が参加している募集

自己紹介

私のスポーツ遍歴

サポートしていただくと泣いて喜びます! そしてたくさん書き続けることができますので何卒ご支援をよろしくお願い致します。