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再生 1話

部屋は酷く散乱していた。
殺人現場はこんなものなのだろうと、初めて人が死んでいる現場に訪れた新人警官の清川匠は妙に納得していた。

ドアに鍵はかかっていなかった。何度もインターホンを鳴らすが返事はなく、本来ならまず上司に確認すべきなのだろうが無意識にノブに手をかけドアを開けると、すぐに鼻をついてくる強烈な異臭に思わず顔を歪めた。
玄関に入ると、一目で全体を見渡せるワンルームの部屋の壁には大量の血痕があり、部屋全体が異臭を放ちコバエが大量に飛び回っていた。本棚の本は床に大量に放り出されており、ベッドの上から落ちたであろう枕や掛け布団は引き裂かれて綿が至る所に舞い落ちていた。
そのベッドの上には、目を覆いたくなる姿で被害者が横たわっていた。

ここで我に返り後退りして部屋を出て、異臭を嫌がって少し離れた場所で待機していた上司に報告をしにアパートから離れた。
列島が各地で猛暑の影響を受けていたこの夏、異臭騒ぎで通報を受けてアパートの一室に警官がやってきた時のことだった。

***

通っている高校にかかってきた警察関係者からの電話で、職員室に呼び出され父の突然の訃報を聞いた時、高校生だった国枝良子は驚きののちに胸中に解放感を感じた。

重苦しく静まり返った職員室の雰囲気や、その場にいる全教員のただならぬ自体を察して息を飲む表情とは裏腹に、落ち着きを取り戻した国枝良子は意外すぎるほど穏やかな胸の内を隠そうとして、“哀しみに襲われた沈痛な表情”とはこういうものかなと考えた表情を作ることに成功していた。
その正解に近い表情に呼応して、担任の先生は“同情してもしきれない”というようなこの場での正解の悲痛な顔で、「連絡しておいたから今日はまず親戚の家に帰りなさい。国枝の鞄の用意をしてから先生も一緒に行くから、な」と言った。
長時間の表情の演技をやりきる自信がなかった良子は、「先生大丈夫です。一人にさせて欲しいんです。本当に一人で帰れますから、安心してください。家に着いたら先生に電話しますから」とハッキリとした口調で言い切って、帰り支度をしに教室に行ってそのまま帰りますと伝えた。
今はこの生徒の希望通りにするのが一番だと思ったのか、先生は沈黙して頷いた。

職員室を出るときにその場の教員たちの顔を見渡すと、誰もが私に同情しながら事態に驚きを隠せない様子で、深刻そうな沈痛な面持ちをしている。中には泣き出しそうな女性教員もいる。これは多分この場での正解の顔なんだろうと教室に向かう廊下を歩きながら良子は考えた。
この人たちはきっと正しい。けれどもし、今の私と同じように正解の顔を作る演技をしながら全く別のことを考えている人がいたら面白いなと思った。
いつも真面目で少し怖い、ユーモアの足りないところがたまにキズな体育の先生が、もし学校帰りにいつも寄る風俗店のお気に入りの女の子のことを考えながらこんな顔をしてたら傑作だ。
優しくて美人な、男子たちから人気で女子たちとは仲良く恋バナなんかもしてる保険の先生が、私の父親だったものと長年の愛人関係にあって痴情の縺れから殺してしまった犯人だったら最高だ。そしたら私は彼女に花束をプレゼントしに刑務所まで面会に行ってあげたい。心からの感謝を込めて。
でもきっとこんなことを考えているのは私だけなんだろうと良子は思った。誰もが正解を選ぼうとしかしていない。生徒も、先生も、私も、与えられた役割を演じて、時間が来たら舞台を降りる。
選ばない日々を選ぶことが利口なことをみんな知っている。考えない方が利口なことはわかっているのに考えるだけ無駄なことを考えては、結局何もできない愚か者が私なのだろう。
そんな私たち演者と比べて、大っ嫌いだった父親は倫理もモラルも獣ほどにも持ち合わせていなくて、挙句最期は誰かに殺されたのだ。
なんの役割も持ち合わせていないクズだった父親が少しだけ羨ましい。勝ち逃げじゃないか。薄汚い血を残して好き勝手に死にやがって。でも残念だけど、この血だけは絶対絶やしてやるからな。
良子は表情を曇らせて暗い決意をした。

***

誰も事件のことを知らないであろう教室はいつも通りの空気で、女子生徒たちから「おじいちゃん」と呼ばれる柔和で穏やかな定年間近の日本史の先生が静かに黒板に向かい教科書の内容を書いていた。
前の扉から入った良子は、先生に耳打ちして早退する旨を伝えた。「うん。それじゃあお大事にね」と、「おじいちゃん」が言う声が微かに藤井草介の耳にも聞こえた。
その台詞やいつもと変わらない表情から想像するに、良子はおそらく風邪とでも理由を言って早退したのだろうと、良子と同じクラスの藤井草介は思った。
良子はロッカーに自分の荷物を取りに行き、鞄だけ手に取るとすみやかに後ろの扉から教室を出て行こうとした。
草介は良子の表情を注意深く観察した。良子が鞄を取って扉の方へ振り向いたときに見せた、演技を忘れた一瞬の緩やかな顔を見逃さなかった。良子が思わず見せた緩やかな顔を見て草介は、胸がじんわりと熱くなり段々と高揚感に包まれた。
扉から出た良子の足音が聞こえなくなるまで草介は良子の足音だけに耳を傾けていた。足音がしなくなり、教室では先生の授業の声よりも大きな生徒の談笑の声が授業を妨げている、いつもの光景が続いていた。
「おじいちゃん」はマイペースなのか日和見主義なのか、自分の声よりも大きな生徒の話し声を注意するわけでもなく自分が声を張り上げることもなく、淡々と授業を続けていた。
「おじいちゃん」のしゃがれた小さな声は聞き取りにくく、普段から真面目に勉強をする方であった草介はそのことをいつも不愉快に思っていたが、今日は全く気にしていなかった。
授業どころではない重大な理由を抱えていた。

***

清川匠は昼間見た光景を思い出していた。
鑑識が到着すると状況報告をして署に戻ったが、あの光景はきっと一生忘れることはできないだろうと、署内の喫煙所で煙草を吸いながら考えていた。
無断で中に入ってしまったことにお咎めがあるのだろうかと考えて少し憂鬱な気持ちになったが、そんな自分のちっぽけな立場の問題なんかどうでもよくなるくらい、あの光景は強い衝撃だった。
あれはどう見ても殺人だった。被害者は中年の男性。特に顔や首の損傷が激しかったことから想像するに怨恨による犯行だろうか。駐在の新人警官の自分がこの事件と今後仕事で関わることはないだろうが、俄然この事件に興味が湧いてきた。

廊下の窓が開いているのだろう。遠くで鳴く蝉の声が、喫煙所まで聞こえてくる。


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