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デス・ゾーン、を読んだ。

角幡唯介さんの「書くことの不純」でも栗城氏の一連の活動について相応の紙幅を充てられていた。誰かに見せる(栗城氏は共感と表現していた)ための行動は内面から湧き出るものではないから、あらゆる外圧に対して非常に脆く、壊れてしまう。実際に栗城氏は壊れて(亡くなって)しまった。

神々の山嶺で羽生丈二は言った。「それは、ここに俺がいるからだ」と。何かをやり遂げるにあたり、これ以上に強くブレない理由はないだろう。栗城氏は同作品を読み感化されたと聞く。ただ、南西壁という極めて難易度の高いルートにだけ意識を奪われてしまい、己の内面(動機)を再確認する機会とはならなかったようだ。前回の読後の評は以下の通り。

先行きが怪しくなった途端、手のひらを返すように彼を酷評し誹謗中傷したのは、自分ではない第三者に過剰な期待や希望を託し投影する、無責任な連中だった。

大衆やコマーシャリズムに担ぎ上げられ、最終的に彼が下山できなくなったのは、エベレストという山ではなく「栗城史多」という自分自身の中にある虚像だったのかもしれない。

前回読後の評が「スポンサードとは、冒険という行為における人工甘味料」とあったが、我ながら的確な指摘だったと思う。毎度思うのは、苦難を乗り越え成功や栄光を掴むというプロセスのメタファとして登山を用いるというのは、もはや短絡的で擦り倒されたネタなのではないか。


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