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『論語と算盤』考察29 悪人は悪人のままで終わるか?

 おばんでがすー(朝読んでいる方は、おはようござりすー)。


 次の一万円札、渋沢栄一の著書『論語と算盤』で、僕が気になったところを考察していきます。現代語訳が出てくる場合は、参考文献を参照しつつ、独自の解釈で訳しています。

 今日は、「常識と習慣」から、「にくんでその美を知れ」あたりを。

清濁併せ呑む主義

 渋沢栄一は、さまざまな事業を立ち上げるにあたり、さまざまな人材を登用していきました。
 その登用する人材の中には、自分とは考え方が違う人を選ぶこともよくあったそうです。

 それに対する渋沢栄一の考えは、「自分の好みや地位より、より社会のためになるかどうか」でした。 

 およそ世事に処するにあたっては、一身を立つると同時に社会のことに勤め、能う限り善事を殖やし、世の進歩を図りたいとの念意を抱持している。したがって、単に自己の富とか、地位とか、子孫の繁栄とかいうものは第二に置き、専ら国家社会のために尽くさんことを主意とするものである。 

『論語と算盤』 常識と習慣 悪んでその美を知れ より

 各々長ずる所によりて事業を精励すれば、たとえその人自身は、自己の利益のみを図るの目的に出づるとしても、従事する業務が正しくありさえすれば、その結果は国家社会のためになるから、余は常にこれに同上し、その目的を達しさせてやりたいと思っている。

同上

 このスタイルから、渋沢栄一は「清濁併せ呑む」人だと思われていたようです。しかし、渋沢自身は、そんなことは無いと言います。

 余もある時は惑わされることはあるが、清濁併せ呑むことはせぬ。元来世の中は清のみ行われなければならぬはずのもので、濁の存することは根本より間違っておる。(中略)余の門下生と称する者、余に私淑せる者の中にも、その行動が余と反対なものもあるであろうが、それまでは余の力の及ぶところでないから、それを捉えて余に罪を問い、清濁併せ呑む者としても、そは見る人の誤解と弁ずるよりほか道は無いと考える。

『青淵百話』 清濁併せ呑まざるの弁 より

 考え方、行動が正しい人であれば、結果は良くなるはずなので、渋沢自身と反対の考えであっても、あまり感知しない、ということのようです。


悪人は悪人のままで終わるか?

 日本経済の父である渋沢栄一でさえ、当然、人選に失敗したり、あとになって「この人のことを見誤っていた」と思うことがしばしばあったそうです。

 そのときの心構えは。

 つまり道理のある所には、自らすすんで世話をしてやる気にもなるのであるが、そういうことも後日になってみると、あの人は善くなかった、あの事柄は見違たということがないではない。しかし、悪人必ずしも悪に終わるものでなく、善人必ずしも善を遂げるものとも限らぬから、悪人を悪人として憎まず、できるものならその人を善に導いてやりたいと考え、最初より悪人たることを知りつつ、世話してやることもある。

『論語と算盤』 常識と習慣 悪んでその美を知れ より

 渋沢栄一自身も、善悪とは別に、攘夷志士から幕臣、官僚、実業家と、さまざまな経路をたどっていて、人生がどう転ぶかわからないことを知っていたからこそ、一時的な善悪は抜きにして人と接していた、ということが言えそうです。

 

 んでまず。おみょうぬづ(それでは、また明日)。

 

参考文献

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『論語と算盤』考察第1回目は↓

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