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『論語と算盤』考察24 「常識」は従うもの?破るもの?

  おばんです(朝読んでいる方は、おはようござりす)。
 次の一万円札、渋沢栄一の著書『論語と算盤』で、僕が気になったところを考察していきます。現代語訳が出てくる場合は、参考文献を参照しつつ、独自の解釈で訳しています。

 「常識」という言葉には、プラスの面とマイナスの面両方あると思いますが、最近は「常識を疑え」的なアプローチが多く、どちらかと言うとマイナスの表現で使うことが多いような気がします。

 僕自身、「常識を疑う」や「常識を破る」的な発想は、共感しているどころか、行動原理の一つにもなっています。
 一方で、当然ですが、社会に迷惑をかけたり、正義に反するレベルでの「常識を破る」はうまくないと思っていて、その線引はどこにあるのだろうと考えることがあります。

 そこで出てきたのが、今回考察する一節です。渋沢栄一自身、誰よりも常識人でありながら、誰よりも常識を破ってきた人だと言えます。
 今回から複数回、疑い、破りながらも、持ち続けるべき「常識」について考えていきます。

常識とは

 すなわち、事に当たりて奇矯に馳せず、頑固に陥らず、是非善悪を見別け、利害得失を識別し、言語挙動すべて中庸に適うものがそれである。
(『論語と算盤』 常識と習慣 常識とはいかなるものか より)

 常識的な行動の一例をまとめると、以下のような感じです。

・エキセントリックでないこと
・頑固になりすぎないこと
・良いこと悪いことを見分けられること
・利益と損失を認識していること
・言動が度を越していないこと

一言でまとめれば、「度を越していないこと」、つまり「中庸」であることと言えそうです。

中庸とは

 改めて「中庸」とは、
・度を越していない
・偏っていない
・過不足がない
 といった感じの概念です。
 ※朱子は、「中」を過不足のないこと、「庸」は平常の意味、と解しているようです。

 「中庸」の概念は、本家本元の孔子も大絶賛しています。

 子曰く、中庸の徳たるや、其れ至れるかな。民すくなきこと久し。
 現代語訳 中庸の考え方は最高だね。でも、これができる人は少なくなってしばらく経っている。
(『論語』 雍也第六 二九 より)

 約2,500年前ですら、中庸の大切さに気づいていながら、できる人が少ない、と嘆いています(ちなみに『論語』は、この手の、現代の問題にも通じる嘆きがいくつも出てきます)。
 約130年くらい前の渋沢栄一も、同じ問題意識を抱えていたと思われます。

智・情・意

 中庸、常識をもう少し細かく考えると、
・智(知識)
・情(思いやり)
・意(意思)
 のバランスによって、常識は完成する、とあります。

「智、情、意」の三者が権衡を保ち、平等に発達したものが完全の常識だろうと考える。
(『論語と算盤』 常識と習慣 常識とはいかなるものか より)

 ちなみに、ここに出てくる「智・情・意」の元ネタは、哲学者のカントのようです。

 知情意のバランスが取れている=度が過ぎない=常識がある
 という感じのまとめになるでしょうか。

 ただ、度が過ぎる、常識を破ることで、他人と全く違う発想で成功する人がいることも事実です。「常識を破る」と「常識的にふるまう」。どこで線引きすればいいのか、よけいわからなくなってきました。
 
 今日はこれくらいにしておいて、次回、「知情意」について詳しく考えていきながら、この問題に決着をつけていきたいと思います(つかないと思うけど)。

参考文献

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『論語と算盤』考察第1回目は↓

自己紹介記事は↓

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