見出し画像

祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#2

 出掛けていた夫が帰って来て“召集”と聞くと「薫を早く連れて帰れ帰ってくれ」と子供の様に駄々をこねて泣き出した。

 四才になる長男の薫は、お産が済むまでと母が里へ連れて帰ったのだ。
召集を受けた今、最愛の一人息子は家に居ない。このまま、出征する事にでもなればいつ今度逢えるか分からない、いや会えないかも知れない。
その様な感情が先ばしり駄々をこね泣き出したのかも知れない。そんな息子の辛い思いを感じられたのか「薫も会いたがっておるだろう」そう云って義父は、その夜遅い汽車で薫を連れに行かれた。
床の中の私しはその様な義父の思遣りに心の内で「本当にすみません」と感謝していた。

その夜、夫や義母は隣の義兄の家に行き内には、幸枝が右側に赤子を両側にして私が中で四人川の字になって寝ていた。乳春児を二人に四才と八才の子供、ましてこんな産後の体でどうしょう、不安が先立ち寝れない、寝返りをするのも苦しく感じる目が冴えて寝むれない、そんな心の隅に一思いに赤子の息を止めたらと赤子の口に手を掛けようと目を向けると、泣きもせず見えない目を大きく開き無心に辺りを見ている。そんな赤子を見たら涙が出てポトリ赤子の頬を濡らした。

 二十九日午前十時すぎに義父は、私しへ配慮してか母に薫をたくし自分は家に帰られたと云って、きれいに散髪した薫を連れて来てくれた。
その息子の姿を見た夫の顔は何故か私しには歪んで見えた。腕の中から放したくないと願う親の気持、しかし、放れなければならない親と子、人間の運命か又は神の配剤であるのか、昨夜来の苦しみも忘れたかのようにそんな夫の顔を見つめていた。
それからの夫は十月四日の出征する日まで僅かな時間も惜しむように、薫、薫で片時も傍から離さず食事の時も膝に上げて食べたり、髭で薫が痛がるのを楽しそうに頬ずりしたりで過した。

 出征する朝が来た。午前六時の汽車で旅に立つ。戦争兵士として出征する時は、人々に励まされ日の丸の手旗を振り出征される人に露営の歌などうたって、華々しくお見送りしていたが、夫が出征する頃はスパイがいるとかで奉公袋は隠し持ち見送る人もなく、又、そんな時局なので身内の者も手控え只、義母と里の母それに長女の幸枝と薫の四人が駅まで見送って行った。
私しはといえば動けぬ体を蒲団からズルズルと引摺り窓に手を掛け、薫の手を引いて出て行く夫を涙ながらに見送った。夫も見えなくなるまで振り返り出掛けたが心痛はいかばかりであったろうか、後髪を引かれる、まさにそうであったろうと思う。入隊すれば何時会えるか分からない、家族がどんなであろうと手をかしてやることは出来ないが、子供達のことはしっかりたのむ、そんな祈りにもにた思いが何度も、何度も振り返る態度となって現れたように思う。

 ずっと後で薫が小学校に入学の時「今日から一年生、良い子にならなければいけないよ」どこの親でも云って聞かせる事を云った。
「父チャンは嘘云いだ、薫が一年生になる頃には父チャンも帰って来るで、その時は服も買ってやる鞄も買ってやると約束した」などと云って泣くしまつ、出征する夫が子供にしてやれる事はその様な約束で安心さすしか無かったのか、子供は幼な心にその約束を守り父親の帰りを待っている。

ついたまらなくなり泣けて来た、側で幸枝も連れ泣きをした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?