会社が倒産した

学生の頃、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読むことが課題に出され、それをもとに講義をする授業があった。プロテスタンティズムが経済活動に及ぼした背景は何か、という大きな問いに、担当教授は僕たちにこう問いかけた。「人が動く一番の原動力はなんだと思う?」。欲、恐怖、、色々な答えがあった。そのどれもが間違っていないように思われた。「不安です」。教授はただ一言、そう言った。カルヴァン派が唱えた「予定説」では、人が死後に救済されるか否かは神によってあらかじめ決まっているとされた。自分は救済される対象なのかという「不安」に対して、神から与えられた天職を全うすることが、神への絶対的な信仰を誓い、その不安を解消する手段だった。「不安」。確かにそれは正鵠を射ていた。「例えば受験なんかもそうでしょ。不安があるから必死に受験勉強するわけでしょ」。確かに、受験も就職も、いわんや結婚も、それだけでないにしろ、人間の行動の中心には不安という心情がつきまとっていることは否定できなかった。そう伝えた教授自身も、その一言を発するその瞬間、己の人生のなかで何度もそうした経験をしてきたことを思わせる厳しさを纏っていたように思えた。

会社が倒産した。30年近くなんとか維持してきた会社は、ここにきて売り上げが激減。力尽きた。無数にあるテレビ制作会社は、2008年のリーマンショックや、ここ最近のテレビからネット配信への移行によって局の制作費が減っている煽りを受けて、どこも資金的に厳しい状況にある。2年半前に、図らずもこの業界で仕事をするようになり、たくさんの人に会うなかで、多くの人が口にしていたのは、「テレビには未来がない」という言葉だった。僕にとってその言葉は、今の社会のあり様とシンクロしているように思えてならなかった。日本でテレビ放送が始まったのは1953年。ときは高度経済成長に向かうただ中。そこから、テレビは、高度経済成長やバブルといった時代背景とともに、社会にとって欠かすことのできない媒体へと変化していった。当時は今と違い潤沢な制作費とともに、今では自主規制してしまうようなテーマや内容で番組を制作していたという“古き良き時代”とでもいう昔話はよく聞く。実際のところどうなのかはわからないけど、現在と比べればまだ“自由”だったのではないかと思う。そして、放送から66年目の2019年。ネットの興隆や経済不況によってテレビ局の広告収入が激減するなかで、「テレビには未来がない」と言われている。わずか半世紀ほどの出来事であることに驚く。そうした中で、テレビはどんどん保守的になっている。皆、不安なのだ。不安から脱却するために、良しとされているものにすがっているように思える。それは例えば権力であったり、視聴率がとれるとされているネタであったりする。1つ、たまたま何かがうまくいくと、皆、それを模倣して同じような番組を作る。そうしているうちに、テレビから多様性が失われ、画一的で当たり障りのないニュースや番組が量産されている。

いま、不安が社会を渦巻いている。進路、就職、結婚、老後、自然災害、、、。そしてまさに、自分自身が不安のさなかにいる。これからどうしていくかと、改めて自分自身に問うてみる。色々な選択肢が浮かんでくるものの、どれもこれもどこか空虚に感じられるのはなぜなのだろうと思う。不安から逃れるために、ひとまず良しとされている、安心できる場所に行けるように人は動く。ああならないように、こうならないように。しかし、と思う。不安から逃れるために動いた先にある安心とはなんなのか。もうこれで大丈夫、これだけやっていれば大丈夫。そんな安心とは、つまるところ変化しない、保守的な幻想とも言える。そして、一番大きな理由は、誰のために何のために働くのかということが自分自身のなかでぼやけているからだろう。結局行き着くのは、幸せとは何かという問いだ。









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