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「カッコいい」について無駄に深掘りしてみた

私の自己紹介やブランド紹介は↓を見てほしい。
https://note.com/kensuke_/n/n9893b675995d

今回は、社内で行っている月に1回の
読書プレゼンのために何度も読み返した
「カッコいい」とは何かをもとに
カッコいいについてまとめていく。

私自身、「かっこいい大人になる。」
そのことに対して人一倍熱量が高い分
長々とした内容にはなるが
勉強になる内容だと思うので
是非、最後まで見てほしい。

まず前提として、「カッコいい」と思うか
その判断には個人のアイデンティティ
深く結びついた意味がある。

人から自分にとって
「カッコいい」と思うものを
馬鹿にされると、
頭にくるし傷つきもする。

しかも、それは私が「かっこ悪い」と
侮辱されたわけでもなく、
私が「カッコいい」と思う人が
「かっこ悪い」と言われたに過ぎない場合でもだ。

このことからわかるように
実は誰を「カッコいい」と思うか
という告白には単なる好き嫌いの表明以上に
個人のアイデンティティの本質を問うような
繊細で無視できない何かが含まれている。


以上のことを踏まえて「カッコいい」
についていろんな角度から深掘りしていく。

①カッコいいと時代性

古いものは「カッコいい」と言えないのですか?

このように問われたときに
皆さんならどう答えますか。

レトロアンティークやアナログ盤のレコードを
「カッコいい」とする感覚は違和感もあるだろうが
そうした風潮自体が現代風だと言われれば
一応納得できるのではないだろうか。

その文脈から漏れてしまう流行遅れの
ファッションやブームが去った後のギャグは
確かにかっこ悪い。
別の言葉で言い換えるならばダサイ。

重要な事は「カッコいい」は
時間にも左右され去年は「カッコよかった」
はずのものが、今年は「カッコ悪い」とされてしまうような
相対的な価値観だという点である。

②カッコいいの分類と条件

〈分類〉
1.見た目がかっこいい(表面的)
2.一見すると平凡、滑稽だが、本質的に秀でている。 
 両者のギャップが「カッコいい」
3. 優れた本質が、矛盾なく外観に現れ、存在全体が「カッコいい」

〈条件〉
・魅力的(自然と心惹かれる)
・生理的興奮(しびれるような体感)
・多様性(1つの価値観に縛られない)
・他者性(自分にはない美点を持っている)
・非日常性(現実生活から解放してくれる)
・ 理想像(比類なく優れている)
・ 同化、模倣願望(自分もそうなりたいと自発的に感じさせる)
・ 再現可能性(実際に、憧れていた存在の「カッコよさ」を分有できる)

③趣味と流行の区別

少し話がそれるが、
趣味についても少しだけ深掘りする。
趣味を深掘りする上では
流行(mode)との対比がわかりやすい。

流行は、「みんながそうしてるから」という
規範以外には何の規範も持たないが特徴である。
いわば中身が空っぽの同調圧力とも言える。

そして、それは
社会的依存関係を作り出すものであり、
その依存関係から逃れるのは難しいとも言える。

しかし、趣味は、
その渦中にあって適切に社会との距離を取り
(線路を保ち、移り変わる流行の言いなりにならず)
自分の判断を働かせることである。

僕の解釈した言葉で言うと趣味は
「社会から独立した判断基準である」
というところが特徴かと思う。

だからこそ、最初の自己紹介で趣味を聞くだけで
その人の人となりが少し見えるのは納得がいく。

④生理的興奮としての「しびれ」

ここからはこの本の中で
最も重要なテーマとして挙げられいた
「しびれる」と言う体感について
議論を深めていく。

「カッコいい」にあって「格好がいい」に
ないものの1つは「しびれる」ような
強烈な生理的興奮である。

これは非日常的な快感であり
一種の麻薬のように人に作用し、虜にする。

オタク気質の方はこの「しびれる」体験は
何度も味わっているのではないだろうか。
(私は何かにハマったらどっぷりタイプです笑)

そこで改めて「カッコいい」を
次のように定義する。

「カッコいい」の存在とは、
私たちに「しびれ」を体感させてくれる人や物である。

なぜそのように定義するかというと
それは作為的なことではなく
体が自然と反応しているからである。

私たちは誰も
演技で鳥肌を起たせることは
できない。

つまりは、ほんとに「カッコいい」
といった表現には刺激的な体感が伴っている
ということだ。

冷静に理屈や知識で判断しているだけではない。
この体感が絶対に疑い得ない根拠を持つこととなる。

このことを、体感主義と定義する。

この擁護者となったのは
19世紀最大の詩人にして
美術批評家をだったボートレールである。

ボートレールは、
この作品は、美しい。なぜなら、鳥肌が立つから。
と言う言葉を放っていた。

簡単に言うと
理屈ではなく実際に体が反応するかどうか
という考え方を大切にしている。
※1850代頃の話です。

美術作品などを見たときに
何かわからないものを
わからないながらに評価する。
これは体感主義の代表とも言える。

このボートレールの体感主義の一番凄いところは、
原則的に誰にでも適用可能な方法だったことだ。

これ以降、私たちは、新しい多様な文化に対して
誰もが、これは美しい、これは美しくないと
主張する権利が与えられた。

生理的興奮は、
階級が生まれ育ちを問わず、
才能問わず、
人間の基礎的な身体的条件として備わっている。

言ってしまえばそれは、
芸術への参入障壁を事実上、撤廃した。
これこそが20世紀のモダニズム運動の大前提だった。

⑤心理学から見た体感主義

1884年から85年にアメリカの心理学者
ウィリアム・ジェームズと
デンマークの心理学者カール・ランゲは
「 怖いから震えるのではなく、震えるから怖いのだ」
という説を説いた。

「まずは体の方が先に反応し
後から感情がついていく」
というわけである。

この考え方は一般的に
ジェームズ=ランゲ説と言われている。

その体の反応は時間が経つと変化する。
かつては「カッコいい」と思っていたのに
今ではそう思わない人や車は
体で感じるものがなくなったと言う意味である。

「こんまりメソッド」でアメリカで大ブレイクした
片付けコンサルタントの近藤さんは
自宅に溢れかえっているものを捨てるかどうか
迷ったときにはそれを手にして
ときめくかどうかを重視しているという。

これはまさに体感主義に他ならない。

小難しい理屈ばかりの現代アートに
「これの何処が芸術なのか」と腹を立てるのは
それを前にしても全くしびれない時である。

また、理屈だけで語る批評家に
イライラさせられるのは
彼らの芸術体験の根本にこうした
生理的興奮が欠如していて
新しい表現を全く受け止められてない時である。

⑥カッコ悪いとは何か

私たちは自分がカッコ悪いと意識した時
まず感じるのは羞恥心だろう。
ズボンのお尻が破れていた時には赤面し
心臓の鼓動が大きくなるのを感じる。

これは強い体感を伴うが
はっきりとした負の体感であることは明白だ。

「カッコいい」存在は尊敬され、愛される。

しかし、
「カッコ悪い」存在は、同情され、馬鹿にされる。

「カッコいい」もある意味では普通からの逸脱だが
当然かっこいいが普通以上であるのに対して
「カッコ悪い」は普通以下である。

この微妙な関係に着目した福岡県は
暴走族のことを「珍走団」と呼ぶ
奇妙なキャンペーンを行った。

結果として彼らを
社会的に恥ずかしい存在であることを印象づけた。

これを「カッコ悪い化」(ダサイ化)呼ぶ。

⑦デザインと芸術の違い

両者の1番の違いは
使用が前提とされているか否かである。
機能の有無と言っても良い。

プロダクトは基本的に目的がある。
椅子にせよ、ノートブックにせよ
使用用途が明確でその存在と意味とが
1対1で対応している。

一方で芸術の目的は、美なのか、崇高なのか
ともかく私たちが感じ取る何かであり
鑑賞者によってその受け止めが異なる。

しばしば、役立たずと批判されるように
特に用途は無いことが特徴だ。

しかし、これだけだとあまり説得力のない
二分法である。

プロダクトデザイナーのマーティン・バース
一度、燃やして灰になったフレームを
樹脂で固めて、それにクッションを設置した
ユニークな椅子を発表している。

今にも壊れそうなボロボロの真っ黒なフレームが
なんともいえずかっこいいが
これはプロダクトとも芸術とも言えそうな作品である。

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そもそもプロダクトは掃除機や椅子など
1日の中でも機能してない時間が長く
その間は彫刻的に美的な喜びを
もたらしてくれたほうがいいだろう。

ダイソンが人気なのは
インテリアとして飾っておいても
「カッコ悪くない」からである。

プロダクトには機能だけでなく
さらにそれを突き抜けて
「カッコいい」と「しびれさせる」
何かが必要である。

そうしたデザインと芸術との
相互乗り入れはグラフィックに関しても
服飾に関してもある程度当てはまる。

そこで1つ考えられる違いは、表現の対象が
内発的なものかそれとも外部から与えられるものか
という点である。

芸術 =主題が内発的に芽生え、表現はそれと一体的に生じる。
デザイン=表現対象は基本的に依頼によって他者から与えられる。

デザインは課題を美的に解決することが望ましい。
しかし、服飾のように美的に見せることが目的の場合もある。

服飾の場合たとえその人物が美しくなくても
あるいは極悪人であっても
服飾は意図としてその人を
より美しくさせようとする。

⑧「プラダを着た悪魔」から見るモード

さて、デザインの表面と実質との乖離を考える上で
今度はモード(mode)に注目してみる。

僕が大、大、大、大好きな映画で
アメリカの有名モード誌の内幕を描いて
大ヒットした「プラダを着た悪魔」の冒頭に
こんなシーンがある。

※見習い編集者のアンドレアが
 編集長ミランダに言われたセリフ。

「 あんたには関係ないことよね。
家のクローゼットからその冴えない
”ブルー”のセーターを選んだ。
 
「私は着るものなんか気にしない真面目な人間」
と言うことよね。
 でも、その色は”ブルー”じゃない。
 ターコイズでもラピスでもない。セルリアンよ。

知らないでしょうけど2002年に
オスカー・デ・ラ・レンタがその色のソワレを、
サン=ローランがミリタリージャケット発表。
セルリアンは8つのコレクションに登場。

たちまちブームになり、全米のデパートで
安いカジュアル服の店でも販売され、
あなたがセールで購入した。

その”ブルー”は、巨大な市場と無数の労働の象徴よ。
でも、とても皮肉よね。
ファッションと無関係と思ったセーターは
そもそもここにいる私たちが選んだのよ。

この言葉からファッションは
その服を選択する人間の趣味の表れと言う側面と
趣味自体を社会の側から作り直されると言う側面の
相互作用で成り立っていると言える。

単に自分の趣味を押し付けるだけでなく
それによって着る人の社会的な意味が変わることを
意識されている。

僕の表現で言うと、社会から独立した自分の趣味でさえ
社会の側から構築されている側面もあると言うこと。

特にSDGsの観点からも
社会性も合わせた世界観自体がファッション化する
ような雰囲気も個人的にひしひしと感じる。

ただ、その社会性の共有が
ネットの発達により難しくなった側面はあると思う。
※皆んなが同じものに憧れない時代。

少し話は脱線したがファッションに話を戻す。

モードは直線的。スタイルは円環的。
※円環とは、循環する。みたいな意味です。

「カッコいい」には
新鮮さという要素が不可欠である。
時間性という性質が「カッコいい」には
含まれていることがわかる。

ランバンのデザイナーとして
カリスマ的な人気を誇った
アルベール・エルバスは
ファッションはフルーツのようなものだと言っている。

イブ・サン=ローランは
「モードは過ぎ去る。しかし、スタイルは残る。」
と言う有名な言葉を残している。

プラダを着た悪魔の”ブルー”に関するセリフは
感覚的であり文脈依存的であるが
「ダサイ化」の波にのまれたことは明白だ。

しかし、現代ではこれまでのような
「カッコいい」トレンドの形成と
「ダサイ化」というサイクルが
機能不全に至っている構造的な問題がある。

私は元アパレル店員だったので、
60年代から80年代までにかけては
各時代の流行イメージできる。

しかし、90年代のファッションとは何だったか
と言う問いにはなかなか答えれない気がします笑

※60年代は、ヒッピーブームや
 アイビーブームで紺ブレなど流行りました。
   70年代は、ジーンズが
 おしゃれアイテムの定番でした。

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他にも、歴史的背景とファッションは繋がっているので
たまに調べてみると面白いかもです!(誰目線やねん笑)

少し脱線しましたが、
「リアルクローズ」という言葉は
「カッコいい」の決定権を持っていた
デザイナーたちがあまりにも自己満足的に
アーティスティックになりすぎたことへの
反動として一般の人たちが着られる服を目指す
という業界用語として発生した。

この流れを作ったのはアメリカ版「ヴォーグ」
のアナ・ウィンターと言われている。

簡単に言うとスタジオ撮影からストリート撮影に。
モデルはカットソーにデニム。
ほとんどノーメイクで笑顔の写真。
という今では普通の表紙が当時は革新的だったようだ。

⑨ファッションは今もまだ大切なのか

結論からお伝えすると、SNSの出現で
個人のアイデンティティを評価する上での
服飾の比重が劇的に低下した。

消費社会論的な”誇示消費”はダサイと
感じ取られるようになっている。

スティーブ・ジョブズの黒いタートルネックや
マーク・ザッカーバーグのパーカーなど
「カッコ悪くなければ十分」などの価値観が広がっている。

このことから、
ファストファッションは結局のところ
カッコいい服ではなく
「カッコ悪くない服」を扱っている。

それは別に憧れられない服であり
そこにはカリスマ的なデザイナーによって
生み出されたトレンドという
モードの神話が決定的に欠落している。

それでも、ダサイと言う羞恥心から
私たちを解放してくれるのは事実である。

これらのことからファッションは大切にあるが
ファッション自体の役割が
大きく変化しているのが今の時代だといえる。

この後の章では"hip"や"cool"から見る
「カッコいい」や戦争などに悪用された
「カッコいい」などの内容などがあるが
その辺が気になる方はじっくり本読んで欲しい。

⑩カッコいいとは何か

非常に遠回りしました。
「カッコいいとは何か」の整理をする。

改めて、「カッコいい」という言葉が
爆発的に流行したのは1960年代以降である。

戦後に多くの流行語が生まれてきて無くなったが
「カッコいい」は今日に至るまで
1度も廃れることなく日常会話に馴染んでいる。

「格好が良い」があるジャンル内の評価
であるのに対して
「カッコいい」はジャンルを前提とせずに
ジャンルを横断して評価できる。

それは体感できればすべての人間が
体験できると言うことの証拠でもある。

そして、「しびれ」は1つの自己発見である。

今日のマーケティングでも
ファンコミュニティーの重要さは強調されているが
その場所がないとこのしびれるような体感は
孤立したまま放置されてしまうからである。

かっこいい人や物を求めるのは
いわば自分探しでもある。

だからこそ私たちは
自分がかっこいいと信じている人が
誰かから「カッコ悪い」と笑われると
まるで自分自身を侮辱されたかのように腹が立つ。

またかっこいいは時間性を要するため
オリジナリティーがなくなり
あまりに一般化するとカッコ悪くなる。

「カッコいい」について考える事は
自らの生き方を考えることである。

しかし、だからこそ
他者との分断の引き金にもなる。
政治利用や悪用される懸念もある。

2019年の日清食品CMアニメが
テニスプレイヤーの大坂なおみ選手を
白人のような肌の色に描いて
ホワイトウォッシュ」ではないかと炎上する事件があった。

安易にかっこよくするために
デザインを悪用してしまうケースも少なからずある。

昨今では経産省が謳っている
クールジャパン然り日本文化のかっこよさは
日本人自身によって過剰なまでに意識されている。

コンテンツの企画会議でも
その体験と物語のどこに体感があるのかといった
より焦点化した議論が必要となってくる気がする。

最後に、テクノロジーとかっこいいについて。

今日のテクノロジーは「めんどくささ」
焦点を当てそれを生活の中から
いかに排除するかに躍起になっている。

アップルの機能主義的なミニマムなデザイン。
リアルクローズとノームコアなど
機能が重視されるファッション。

これらはめんどくさい。
という負の体感を排除している。

私たちがスポーツカーに乗っているのを見て
あまりかっこいいと感じないとすれば
なんとなく、めんどくさそうな感じがするからだろう。

しかし、昔のレコードにしびれる体験をするのは
手に入れるためにじらされていたからでもあった。

結果的に、私たちは以前よりも
音楽そのものに痺れにくくなっているのかもしれない。

しかし、そんな世の中でも
カッコいいと向き合っていくことは大切だ。

一旦、こんな感じの着地だが
「もっと分かり易い答えが欲しい」
そう思った方も多いのではないか。

私自身も、まだ見えていない部分もあるが
実生活に活かしやすいように
ポイントをまとめて見た。

①体験でも物語でもなく
 体感に着目してすること。

 いわゆる、しびれる体験を提供できれば
 コミュニティ形成もうまく生きやすく
 独自性も出せると言うこと。

 本能的に求める状態を作れる。
 この考え方は、ブランド運営する方や
 個人で影響力をつける上でも大切かと。

②日々、「カッコいい」と思うものを
 スルーせずに深掘りしてみること。

 そうすることで
 新しい自己の発見が可能になる。
 意外に、この「カッコいい」に
  敏感な人ほど人生に対して真面目な気がする。


③様々な事柄に関して
 スタイルとモードを見分けること。

 変化するものと変化しないもの。
 そこを長い目で見分けることが
 とても大切だと感じた。


④真に「カッコいい存在」になるには
 一旦、ダサい道を通る可能性がある。

 革新的なものは一度は
「ダサい」など世の中の反発を喰らう。

 それでも前衛的でいることで
 それがスタイルになることや
 モードになることもある。

以上!笑
(急に雑)

平野啓一郎さんの本は大好きなので
皆さんにおすすめです!
私とは何か――「個人」から「分人」へ
激おすすめです!笑

また、来月!お会いしましょう!
その前に、もしかしたら
noteを動かすかも!?笑


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