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ありふれた人になりたくない。誰かの記憶に焼きつくような特別な人になりたかった。




今まで、22年間生きてきてどれだけの人の記憶に
自分という存在を植え付ける事ができたんだろう。




どこにでもいる学生時代を普通に過ごして、
大学4年生になれば周りの大学生と同じように、
就職活動をして今年から新社会人として働いている。
これといって夢も無ければ目標も無い人間。


そんな僕には、”特別な人になりたい”という
抽象的な気持ちをずっと抱いていた。







“特別な何者かにならなくてはいけない”






たった一回きりの人生なんだから何か特別な
存在にならなきゃという自分に対しての
強迫観念のような、鎖で自分を縛り付けるような
気持ちをずっと抱えて生きてきた。

だから、
そんな特別な存在になるための
僕の夢はサッカー選手になることだった。


小学校、中学校の頃からいつかはサッカー選手に
なって特別な存在になれる。
周りの人とは違い、みんなの記憶に焼きつくような
人間になれると何の疑いもなく思っていた。


だってそれは他の人とは違うから。と、
心の片隅で思っていた。




僕は自分で言うのも何なんだけど、
“サッカーが上手い”と言われることが多く、

それこそ中学校に所属していたチームから
プロになった元プロサッカー選手に、

「プロになれる可能性は君が一番ある」と、
その褒め言葉を間に受けて勘違いしていた。


今思うと自惚れていた。
これまで自分は少し努力をすればいつか
特別な存在になれると大きな勘違いをしていた。

その勘違いに気づいたのは高校生になってから。
自分よりも遥かに上手い選手との出会いによって
その淡い考えを完全に折られた。


3年生になってからはレギュラーとして
出場することは叶わずベンチを温める日々。

この時、
あぁ、そっか。
自分は特別なんかじゃなかったんだ。
そのことにやっと気づいた。



それからは、
自主練に力を入れて上手くなるための
努力を懸命に行った。


でも、
結局一度もレギュラーになることは出来ず
自分のことをダメな人間なんだと本気で思った。

無難に周りの人と同じように大学に進学して、
サッカーはキッパリと完全に辞めてダラダラと
大学生活を過ごしてきた。


何の目標も夢も無いから惰性で日々を生きている。
この日々は生きているという実感が全く無くて、
何で自分はいるんだろう?
何で自分は生きているんだろう?


何で?という答えのない問いが頭の中にそんな感情が排水溝に流れるように
自分の脳内にグルグルと駆け巡っていた。
そんなくだらない悩みを抱えてしまう自分に
嫌気がさして全部がどうでもよくなった。



ただ僕はは特別な存在になりたかった。
自分が何をやりたいのか、
どんな大人になりたいのか、
何が好きなのかではなくて、
ただ、“特別な存在になりたい”という理由のない
思いに縛られて生きてきた僕は、
それがもう叶わないんだなぁと気づいた瞬間
この世の全てに絶望した。



特別な存在になる人は誰しもが『影』を経験していることは確かだ。








でも、
その影に飲まれる人が大半で、
結局のところ殆どの人が特別な人になることは
出来ずに生涯を終える。


その大半に僕は含まれていることは明らか。
自分の努力不足なんじゃない?
そう努力不足。


叶うまで続けなかった自分の責任。
そう言われれば間違いなくそう。

そんな暗闇にいた自分は、
大学時代にのめり込んだ趣味に出会った。


それは大学の友達と喧嘩をしてしまい、
元通りにはならないほどの距離感を
作ってしまうほどの喧嘩がキッカケで出来た趣味。
その喧嘩も些細なことと言ったら


それで終わりだけど、
その時の自分は、心に余裕が無かった。
一つ一つの言われた言葉を無視出来ずに
全て吸収してしまうぐらいに敏感になっていて、
思わずその言葉に激怒してしまった。


そこから、
一緒のグループには居るけど、
どこが気まずい雰囲気がその友達と話す時には
フワフワと僕の体の周りで漂っていた。
こんな風になるぐらいだったら無理して話す
必要は無いのかもしれない。



それ以降、
そう思った僕は、話しかけられないように、
ひたすらにのめり込むように本を読むようになった。
本を読んでいれば邪魔するのは
悪いと思ってもらえると予想した。


とりあえず、
手始めに高校の現代文の授業で勉強した
夏目漱石の「こころ」を読んでみた。
読み進める内に懐かしさを感じた。
ここの文章覚えているな。


何で「K」はこんなに自分に厳しんだろう。
「先生」てっズルい人間だな。とか。
色々な感情がポツポツ雨が降るように
頭の中に降ってくる感覚を感じた。


それ以降も何冊も何冊も読み漁っていって、
気付けば1年間で60冊ぐらい読むことができた。
読書てっ良いな。心にゆとりを生むし、
自分の知らない世界に自由に行き来できて、
自分の心の中に無かった考えや
価値観をインプットできる。


それは自由で居心地の良い世界だった。
本を書く人はどんな価値観で、
どんな生き方をしてきたんだろう?



そんな想像をしていると、
もしかしたら自分でもあの人たちのように
文章を用いて、

心の中に溜まっている普段曝け出さないような
気持ちを表現することが出来るのかもしれないという
期待というよりも一筋の光のような希望とも
言えるようなモノを抱くようになっていた。


言葉にできないことを文章にして表現することは、
誰にだって出来ることでは無いと思う。


自分の”傷”や”恥ずかしい部分”を丸裸にされたような
気持ちになることはもちろん文章を書く上では
あるだろう。


ましてや、
わざわざ自分の考えを曝け出すなんて、
殆どの人は怖くて出来ることなんかじゃないと思う。

怖さや恥ずかしさの両方を心の中に飼い慣らしながらも言葉を紡いでいる人を心から尊敬しているし、
羨ましい。






文字で表現する事ってっなんか自由だ。
人前で何か発表する事とか、自分の考えている事や
感情を相手に伝えることが学生時代からずっと苦手
だった。


自分が話している姿を後から振り返ってみると、
周りの見ている人の目線の矛先が痛くて堪らなくて、とにかく変なことを言っていないかどうかばかりを
気にしていた。

当たり障りのないことを言ってその場を何とかやり
過ごすことで精一杯だったんだ。


だから、
よく周りの人を見て、 
その人が今欲しているような
言葉を相手に伝えるようにしていた。


「ケンスケってなんか全体というかよく周りを見て相手に合わしてあげて話しているように見えるね」
そう褒められたことがあった。それはその通り。


でも、
全体を見て話しているのもその人に合わしているだけであって、その褒め言葉は嬉しくもあったけど、
靴の中のどこかに石が挟まって取れないような
煩わしい違和感もあった。


でも、
その違和感が自分の心の中に巣食っていることを
受け入れることは、人に合わして話すことと
同じぐらい簡単だった。


どうせ自分が本当に考えていることや本当に伝えたいことを正直に話せるとは全く思っていない。


それに自分の中にある『本当』を結局話したところで、別に何も変わらないと諦めたような気持ちを抱えている。

本当のことを伝えようが伝えまいが相手の受け取り方次第では良い・悪いがハッキリと判断されてしまう。それは要るモノと要らないゴミを分別するように分けられてしまう風に感じた。 

ゴミのようにパッと投げ捨てられるぐらいだったら
本当のことを伝えない方がマシなんじゃないのかな。
無駄に傷つかないし、自分のことを守ってあげる  ことができる最善策でもある。

元々根が悪い方向に考えてしまう 
僕はいつもそうやってきた。

でも、
このnoteという自由な世界だったら自由に
本当に言いたいことを伝えられると思う。

僕は、
最近やっと目標みたいな夢みたいなモノが
うっすらと自分の中でできていることに
気がついた。

それは書くことだった。
書くことが自分のことを認められるような気がする。
僕の目に映る景色が、文字へと昇華されそれを
読んでくれる人がいる。

人生紆余曲折があって、
進もうと思っていた道に進めなくて、遠回りをせざるを得ない時が誰しもがある。自分自身もそうだ。

今は書くことが目標であるけど、
いつの日かその書くことがイヤになったりすることも
あるかもしれない。

だけど、
今だけはその気持ちに素直になって、
書き続けたいと思う。

僕の特別な人になりたかった
過去は変えられない。

でも、
辛い過去を背負いながらも
この”今”という瞬間は変えることができる。

今日は風が強く、肌を冷たくする夜。
子供が雲に乗れると信じるように、
『書き続けたい』と純粋な願いを込めて、
歩いて行こう。







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