「復興」とは
この20日間、震災・災害と復興についてnoteに毎日何かしら書いてきた。
このnoteを更新する機会に限らず、この10年、ふとした瞬間に「復興」って何だろうと考えてきた。
もちろん、被害の度合いや置かれた環境、境遇などによって尺度や解釈、あるいは複数ある復興の意味合いの中でも部分により重要度合いが異なるだろう。
私の恩師である“まちづくり家” 高野公男先生の言葉の中に、「復興とは」の問いに対する数多の意味合いが、答えとして整理されていたのでここでもご紹介したい。
これは、東北芸術工科大学デザイン工学部建築・環境デザイン学科の有志(OBや元教員含む)による「復興支援活動連絡会」の準備会時に先生より発表された資料の中の一部抜粋したものだ。
建築・都市計画の世界を歩いてこられた先生が、「心の復興」を最後に据えているところが興味深い。
(身近にいた人々はきっと「先生らしい」と言うだろうが)
さて、心の復興。
この10年でどうだろうか。
それぞれはかることなど難しい、しかし、一番重要なことだろう。
この整理でいうと、心が復興しないうちは復興したとは言えない、と言うことは確かだ。
これに関連して、先日、テレビの特集でハッとさせられる言葉があった。
「寄り道や暇つぶしをする場所がない街というのは、復興したとは言えない」
(柳美里/インタビューより)
柳美里さんの言葉。確かに、その通りだと思う。
街にも暮らしにも余白や余幅が大切なのだ。
この言葉の前段で、こう説明されている。
思い描いてみてください、ご自分が暮らしている街を。街は最低限必要なものだけで成り立っているわけではありませんよね。菓子屋、喫茶店、BAR、居酒屋、本屋、文房具屋、楽器屋、CDショップ、ブティック、レストラン、映画館、劇場、ライブハウスなど、ふらっと寄り道をしたり、暇つぶしをしたり、無駄遣いをしたりできる不要不急な場所ほど、人生に彩りを与え、豊かさを実感させてくれます。目的や必要があって行くのではなくて、嫌なことや悲しいことがあって心が揺らいだり落ち込んだりした時に、ふらっと立ち寄って気晴らしができる場所です。
最低限の「整備」が復興ではないのは明らかだろう。
インタビューの最後に、氏はこのように言っていた。
他者の痛みを悼むこと。
(柳美里/インタビューより)
心の復興。
それでは、心に寄り添う復興とは具体的に何か、できることは何か、ということを、この10年という時の流れとともに振り返り、あらためて考えている。
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