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カナダで空を飛ぶ【完全版】

林業学校の寮から空港近くのアパートに引っ越したおかげで、事務所への出勤がとても楽になった。事務所は空港の敷地の端に位置し、家から徒歩五分ほどの距離にある。採用されてから数日間、学校の寮からタクシーや同僚に乗せてもらいながら通勤していたので、お金の心配や同僚に申し訳ないなという気持ちでいっぱいだった。今は、違う。鼻歌を歌うように気楽な気持ちで通勤している。僕が勤める会社では、LiDAR(Light Detection and Ranging、光での検出と測距)を使い、測量データを収集する。つまり、小型飛行機からレーザーを照射して、そのレーザーの跳ね返りを測定して収集されたデータを使って、森の樹高等の3Dマップを作成している。僕は、この会社では、オペレーター職で採用された。飛行機内でレーザーを操作し、データを集める仕事をしている。

事務所のドアはかみ合わせが悪いのか、力いっぱい押さないとなかなか開かない。ぐっと力を込めて開けて中に入ると、先日面接をしてくれたダニエルとグレッグが既に出勤していた。「おはよう」と二人に声をかけると、デスクの正面に座っていたダニエルが笑顔で挨拶を返してくれる。グレッグはこちらに背を向け、机の上のPCに集中している。今日からこのグレッグと一緒にノバスコシア州トルローまで出張予定である。だが、僕の心中は穏やかではない。昨日のことである。実際に小型飛行機に搭乗し、オペレーター業務の研修を受けたが、飛行機の揺れが想像以上にひどかった。飛行の途中からずっと吐き気を我慢し、何度「うっ」という声を漏らしたことか。狭い機内に逃げ場はなく、ただ下を向いて吐き気をこらえた。空の上での研修を終えて、事務所に戻る途中、同乗していたグレッグが僕を心配して声をかけてきた。「俺も飛行機に酔うから、搭乗する一時間前に耳の裏にパッチ貼るけどかなり効果あるよ」と、乗り物酔い防止のパッチについて教えてくれる。パイロットもジンジャエールと酔い止め用の飲み薬を両方飲むのが良いとアドバイスをもらったが、依然として不安を払拭できなかった。

事務所の外で待つ僕の胸の中では、「出張が中止にならないかな」という思いが膨らんでいた。そんな思いとは裏腹に、少しずつ晴れ間がのぞき始めた。視界の隅では、パイロットが小型機にガソリンを入れている。「荷物を積み始めてくれ」と事務所から出てきたダニエルがグレッグに指示を出す。グレッグと僕が飛行場の隅に停めてある小型飛行機に向かって歩き出す。飛行機は四人乗りだが、後ろに測量用のレーザー機材が積んであり、余分な物を置くスペースはない。三人の私物を入れたらパンパンになるだろう。場合によっては、トルローに数日滞在するかもしれないと思い、何着もの着替えを詰めた僕のバックパックはかなり大きくなっている。全部入るかな?パイロットが開けてくれた荷物用のハッチにぎゅうぎゅうと押し込む。それから、飲み物や手荷物を持ち、機内に乗り込む。百八十センチ弱の身体にとっては、機内は狭すぎる。「足は伸ばせなくてもいいから、せめてもう少しスペースがほしい」と心中でぼやきつつ、準備してきたメモ帳でレーザーの起動作業を復習する。ブツブツと呟きながら、手順を確認しているとパイロットが「出発するぞ」と声を張り上げた。いよいよか。飛行機がゆっくり動き始める。滑走路の方に向きを変え、少しずつ進んでいく。緊張からか、手に汗がにじむ。滑走路の隅まで移動し、進行方向にゆっくりと回転する。目の前に、一直線の滑走路が見える。グオオォォ。エンジンから湧き上がるように音がだんだんと大きくなり、機体のスピードも上がっていく。突然、ふわりと身体が浮遊する感覚。機体が地面を離れた。離陸のアナウンスなんてものはなく、機体は一気に空の向こうに駆け上がる。滑走路がだんだんと小さくなっていく。斜めになった機体の中で、ふうとため息を漏らす。小さな窓の外に雲が見える。レーザーを照射し始めるのは、地上千メートルだが、この分だとあっという間に到着するのではないだろうか。

雲間から見える地上の景色は息をのむほど美しい。空の上から多くの森が見える。カナダは自然が溢れ、本当に美しい国だとあらためて思う。地上の森を眺めてもの思いにふけっていると、正面に座るグレッグがこちらに向けて手をパタパタと振り、レーザーを作動するタイミングを指示してくる。急いで傍らにあるヘッドフォンを耳につける。空の上ではゴォゴォという風の音が邪魔で、機内であってもヘッドフォンなしでは会話が成り立たない。研修で習った通りに作業を進める。レーザーを作動させ、グレッグの方をチラリと見ると、オーケイだと言うように頷く。数分すると、調査エリアを抜けたのでレーザーを切るように指示される。手元のタブレットを操作し、レーザーを止めた。この後、しばらく移動だけになるようだ。緊張の糸が少しだけ緩む。窓の外に目を移すと、見渡す限り分厚い雲に覆われている。雲にはふわふわとした牧歌的なイメージを持つかもしれないが、空を飛んでみるとそのイメージはすぐに崩れ去る。雲に入った瞬間、機体が上下に激しく揺れる。古びた洗濯機がガタガタと激しく揺れながら服をもみくちゃに洗うように。機体が雲にぶつかり、翻弄される。床が跳ね上がるようだ。びっくりして心臓が飛び出しそうだ。何かすがるものはないだろうか?手元の近くにあったペットボトルをぎゅっと握る。ゆらり、ふわり。また雲にぶつかった。機体はギシギシときしむ。自分の座席の横壁が不気味な音を立てる。機体は大丈夫なのだろうか?生きて飛行機を降りたい。勘弁してくれと思いながら、向かいに座るグレッグに目をやる。すると、彼も心配そうにこちらを見返してくる。空を飛ぶのが好きだと言う人たちの気が知れない。地上から千メートルの世界は、僕の想像を軽く超えていた。

三時間ほど飛行するとトルロー近くの空港に到着した。一般的な空港ではなく、僕らのようなプライベートの会社がビジネスで使用する小さな空港だ。エンジンを切った飛行機からまずはグレッグが降りる。「飛行機が発着すると、暇を持て余したこの町の人が車で見に来るのだよ」とパイロットが駐車場の方を指さす。何台かの車と人影が見える。僕はと言えば、フラフラになりながら飛行機から降りた。まだ空の上の揺れが続いているようだ。残っていたジンジャエールを飲み干す。「この間出張で来た時に行ったレストランのカラマリ(calamari、イカのフライ)がすげえ美味かったから、今日の夜に皆で食べにいこうぜ」とグレッグが笑顔で話しかけてくる。今、揚げ物について考えたくない。グレッグの後をふらつく足取りでついていく。一秒でも早くベッドに倒れこみたい。明日の天気はどうだろうか?いや、明日のことを考えてはいけない。とりあえず、今日はぐっすり寝よう。

翌日、朝の六時にホテルの食堂に集まったグレッグと僕らに気象情報のチェックを終えたパイロットが「今日は飛べそうだな」と言う。そうか、飛べそうか…。「飛行機に乗りたくない」と言うのが偽らざる本心だ。淹れたてのコーヒーを口に含む。ちょっと薄い気がする。ティムホートンズのコーヒーが飲めたら気分があがるだろうに。食堂は、ホテルの受付横の狭いスペースに設置されており、トーストやシリアル、コーヒー等の簡単な食事が用意されている。ジャムやハチミツの甘ったるい匂いが変に気分を苛立たせる。わかっている。飛行機にこれから乗らなくてはいけないから、不安で苛ついているだけなのだ。目の前に座るグレッグは、そんな僕の気持ちを知らずにシリアルを口に運んでいる。つけっぱなしのテレビからアナウンサーの早口な英語が流れてくるが、いつも以上に聞き取れない。カップの中の温くなってしまったコーヒーを一気に飲み干し、勢いよく立ち上がる。グレッグに「一度部屋に戻る」と伝えた。
部屋に戻り、ベッドに横になった。チェックアウトまで三十分ぐらいはあるだろう。オーケイ、まずは少し落ち着こう。ゆっくりと深呼吸をする。空気が身体の中に入ってくるが、ちょっと埃っぽい臭いに辟易とする。昨日はトルローの町で大きなイベントがあったみたいで、開いている部屋を見つけるのに苦労した。ホリデイインみたいなチェーンのホテルは全部断られた。結局、今まで聞いたことのないローカルのモーテルのようなこのホテルに泊まることになった。部屋はこぢんまりとして汚くはないが、だいぶ使いこまれていた。この部屋に三百ドル支払うなんて言ったら、マネージャーは何て言うだろう。気分がなかなか落ち着かない。時間だけがただ過ぎてゆく。数十分力なくベッドに寝転がっていたが、思いきって身を起こす。洗面所に駆け込む。こういう時は勢いが大事である。蛇口を目一杯まで回し、ザバザバと冷たい水で顔を洗う。少しだが、気分がすっきりした。よし、身支度を整えよう。ベッドの上に脱ぎっぱなしにしていたTシャツとハーフパンツをバックパックに詰め込む。テレビ台の上に散乱していたスマホの充電器、昨日買ったビーフジャーキーの残りも持って帰る。最後に部屋を見渡し、ドアの方に向かう。

ホテルをチェックアウトし、タクシーで空港に向かった。見渡す限り、雲一つない。七月だと、日本ではまだ梅雨明けしていないのではないだろうか。カナダでは、梅雨はなく、今の時期の天候は比較的安定している。タクシーに十五分ぐらい揺られていると、空港に着いた。それぞれに荷物を担ぎ、飛行機に向かう。ハロー、アゲイン。パイロットが飛行機のタイヤをチェックし、僕とグレッグはその間に自分たちの荷物を詰め込む。僕は、後部座席のレーザー機材にデータ記録のディスクを入れて準備を進める。これからトルローを離れ、地元に戻る。事務所のある空港に戻る前に、地元の調査エリアでデータを取る予定だ。
準備ができたら、すぐに出発だ。この空港に僕たちの飛行機以外は停まっていない。機体はのろのろと滑走路の端を目指す。そして、ゆっくりと向きを変えて、飛行のための助走を始める。ガタガタと小刻みに機体を揺らし、まっすぐに走る。昨日感じたばかりの浮遊感。全然慣れることができない。窓から後ろを振り返ると、滑走路がどんどん小さくなる。小型機はゆらゆらと飛び、窓の外の景色もゆらゆらと揺れる。今日は、雲が少ない。気持ちがほんの少しだけ楽になる。座席にどさっと座り、地元まで揺れることなく無事に着くことを願う。

気が付いたら、三時間はあっという間で既に地元の町の上空に到着していた。見下ろすと僕が住んでいる町が小さく見えた。町は森に囲まれている。この町で森林学を勉強したが、卒業後に仕事に就けるのか不安しかなかった。僕は今、空の上で働いているが、こうなるとは想像していなかった。これから、空の上で仕事をしていけるだろうか?グレッグの声が急にヘッドフォン越しに聞こえる。あっという間に、現実に引き戻される。「悪い、少しぼっとしていた」と謝り、タブレットでレーザーを作動させた。

データ収集のため、調査エリアの上空をグルグルと旋回する。一回、二回、三回。まだ旋回は続く。五回、六回。この時、自分の身体が何か変だということに気がついた。手が小刻みに震えている。足はブルブルと震え、指先が少しずつ冷たくなり始めていた。あれ?手足が痺れているみたいでうまく動かない。力をぎゅっと入れて、何とか元に戻れと念じる。しかし、全然力が入らない。恥ずかしい思いを捨てて、「体調がどうも変だ。手足が震えて動かない。手足も冷たくなってきているみたいだ」とグレッグに必死に話かける。「まだ調査の途中だ。あと一時間ぐらい我慢できるか?」と返される。そうだよな。これは仕事なのだ。調査のために一回飛ぶのにいくらかかると思う?飛行機から降ろしてほしいと言ったら、後で会社から何を言われるかわかったものではない。これは、単なる気のせいに違いない。数分もしたら、元気になる。そうだ、もし飛行機から降ろしてくれと言ったら、いろんな人に迷惑がかかる。その通りだ。わかってはいる。わかってはいるが、今は自分の身体の感覚を信じたほうがよいのかもしれない。ヘッドフォンに向かって、グレッグに身振りと大声で状態を伝える。「無理みたいだ。本当に申し訳ないが、空港に戻らせてほしい」と僕が叫ぶと、グレッグが頷いてくれた。急いで前の操縦席に座るパイロットに話しかける。パイロットはこちらを一瞥すると、「空港にはまだ戻れない。調査は続行しなくてはならない」と言う。唖然となるが、すぐにどくどくと怒りがこみ上げてきた。後ろの席で人が大変な目にあっているのだ。この野郎。その顔を全力でぶん殴ってやりたい。いや、頭では理解している。彼はプロフェッショナルとして、自分の仕事をしているだけだ。それでも、ここで「はいそうですか」と引けない。手足が今もブルブル震えているのだ。恥ずかしいと言っていられるほど、悠長な状況ではない。仕事の後先を今考えている場合ではない。知ったことか。ヘッドフォン越しに、できる限り大声を出し、パイロットに自分の現状を伝える。大げさな身振りも加えて、何度も「降ろさせてくれ」と懇願する。もうだめかもしれないと思ったその時、飛行機が調査エリアを離れ、飛行場のある方に向かい始めた。

飛行場に着陸してすぐに、機体の扉を開け、外に飛び出す。地面に立ってはいるが、身体に力が入らない。後から降りてきたグレッグが横から身体を支えてくれた。「トイレに行くか?」と言う。支えてもらいながら、事務所まで一緒に歩いた。トイレまで連れて行ってもらうと床に倒れ込み、便器のふちを掴んで、盛大に吐いた。何も考えない。頭は真っ白だ。出すものを出しきった。数分間だろうか呆然とトイレの床に座り込んでいたが、フラフラと立ち上がり、事務所の外に出る。持っていたバックパックの中に手を入れ、ペットボトルを探す。あった。まだ水が残っていた。水で口を拭い、手を洗う。ごくりと喉を鳴らし、水を飲む。こんなにも水がおいしいだなんて。ふうと息を吐き、大きく空気を吸う。事務所にはあまり人はいないようが、邪魔にならないように事務所の脇に座り込む。手足はまだ痺れている。何とか地上に戻ってこられた。少しずつだが、頭が回り始め、状況を把握しようとする。そう言えば、グレッグはどこに行った?お礼を言わなければ。事務所に報告に行っているのだろうか?お尻の下のアスファルトが熱い。空を見上げると、日差しが強い。夏の日差しだ。目をそらして、下を向く。折角、苦労して手に入れた仕事だったというのに。何通もレジュメを送り、ようやく掴んだチャンス。まだ二週間もたっていないのに、僕は何をやっているのだ。誰かがこちらに向かってくる足音が聞こえたので、はっと顔を上げた。あのパイロットが事務所の横を通り抜けて、自分の車へ向かって歩いていく。目が合わないように下を向く。

「ヘイ、キミ。もう大丈夫か?」と言いながら、グレッグがこちらに向かってきた。「マネージャーが今から少し話できるか?ってさ。」と聞いてくる。コクリと頷き、後で事務所に行く旨を伝える。手足の痺れはまだ残っていた。頭もまだふらつく。そして、明日どうなるかわからない状況だ。それでも、無事に地上に戻ってこられたのだ。もう少し休んだら、事務所に向かおう。

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