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県民には「元手」がない――笹井都和古


小学生の頃、エンジェルブルーやメゾピアノといったジュニアブランドが流行っていて、ほぼ毎日家族の共用パソコンからナルミヤインターナショナルのサイトにアクセスしていた。虹のモチーフにブランドキャラが散りばめられたページでキャラクター紹介やブランドコンセプトを繰り返し読んで、それから店舗一覧に並ぶ「原宿」とか「渋谷」といった文字に心をときめかせた。親に強請って、ときどきエンジェルブルーの服や文具を買い与えてもらったけれど、それらを買う場所は決まって地元のアルプラザ平和堂という滋賀のローカルデパートだった。

夏休みにそうめんをすすりながら見る「笑っていいとも」でしきりに繰り返される「新宿アルタ前」という未知のひびきを持った場所のことを、何だかとてつもなく遠く感じていた。タモさんがいる場所は私と完全に断絶されているんだ、と。けれど、エンジェルブルーを着てる私はわずかに新宿アルタ前と繋がれる、コネクト権がある、気がしていた。


両親はどちらも滋賀の南部出身で、滋賀で生まれ育った私は帰省を体験したことがなかった。テレビとネットで得る遠いところのイメージは東京が大半を占めていて、漠然と都民への憧れを募らせていった。

ようやく「府民」の存在に気付く頃には中学生になっていた。

滋賀の中高生は休日友達と買い物へ行くとなれば、京都まで出ることが多い。新京極に行けばやれスピンズだやれサンキューマートだといったこっちにはないカワイイ店がぜんぶ並んでいる。そういえばアニメイトもこの頃は京都まで出ないと無かった。

いちばんおしゃれな服を着て大量の紙袋を持って四条駅まで歩いていると、ときどき薄いグリーンのラインが入った白いセーラー服の女子とすれ違った。京都女子中学の制服だ。

あまりに洗練されて見えるセーラーのデザインを目にするたび、我々が一大イベントとしてやって来るこの場所は、彼女たちの通学路の延長でしかないのだと思い知った。スクールバッグ片手にぶらぶらと歩いてその場で見かけたクレープを買い食いしている彼女たちには、本当に買うものなんて無かったんだろう。

いいなあ、と思った。

府民に対する憧れは、都民に対するそれよりもっと生々しかった。東京と比べる滋賀は「日本の中心とその他」のその他でしかないのに、京都と比べたときの滋賀県は『今から滋賀くんのダメなところを発表しまーす!』と大声でアナウンスされてるような気分になる。もちろん滋賀にだって良いところは沢山ある。でも、京都の人が滋賀に対して「ちょうどいい」と思うことはあっても、「満ち足りている」と思うところってちょっと想像しがたい。やっぱり滋賀は圧倒的に足りていない側だ。元手がないから、私たちは外からたくさんの物を買って来なければならない。


けれど、私は、湖岸を走る父の車の後部座席に座って聞く、アルファステーション(エフエム京都だけど滋賀でも聞けるラジオ)のラジオジョッキー・キヨピーの声が心地よいのを知っている。ここでしか見られないものは、その「元手」になり得ないのだろうか。そもそも元手って何なんだ?それがあると人間的魅力が上がるような気がしてしまうもの、だろうか。

府民にはまずそんな発想が無いのかもしれない。縛られるものの無いその世界は、きっとすごく自由だ。


「県民には買うものがある」はそういった滋賀で見たもの感じたものを、せっかくだから元手にして書いてみた。

県民の方はもちろん、そうでない方にも読んでみてほしい。わたし都民だけど県民だわ、という人もきっといると思う。私たち「県民」が、すこしだけ自由になれることを祈って。

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