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「自分の機嫌は自分でとる」方法

最近、人に指摘されて気づいたこと。

私は常に悩んでいる。
いや、常に悩んでいるフリをしている。
いやいや、悩んでいると思い込んでる?

会話の途中、話題がなくなると
「そういえば最近こんなことがあって〜」
から始まって、お悩み相談に発展する。

自分的には世間話の延長のつもりだったので
指摘されて衝撃なのと少しショックだった。

なぜショックだったかと言うと、
自分が言われたことと全く同じ内容を
数日前に友人に指摘していたから。

数日の間に指摘する側と指摘される側のどちらも味わうことになった。

自分の中で”悩み認定”こそされていないが、
いつも頭の中で何か考えている。

頭の中が暇になると不安になる節がある。
暇だから悩むのかもしれない。

どちらにしろ、ずっと昔からこのスタイルでやってきたので、これが自分のデフォルトだった。

「なんでこんなに悩んじゃう?」

私の中にいる小さい私に問いかけてみる。
インナーチャイルドってやつ。(スピリチュアルには疎いけど好き)

ふと浮かんできた言葉。

「幸せになることを許してもらえない」

ハッとした。
誰に許してもらえてないかというと from 私 to 私。

悩むことをストップしたら私は幸せになってしまうのだ。

え?幸せになったらあかんの?

念のために言っておくと、私は自分で幸せ者だと自覚している。
でもその自覚してる「幸せ」はかなりフワッとしていて、「何がどうだから幸せ」と説明はできない。

病気もせず、好きな旦那さんと暮らして、好きを仕事にして、裕福かは別として、特に何不自由なく暮らしている。

でもこの幸せって一般的というか、可もなく不可もなくというか、何というか。

上記の条件だけ揃えば幸せなのかと問われると、少し考えてしまう。

じゃあ私の思う幸せってなんだろう?と
もう一段階掘り下げてみる。

①日常を大切にする穏やかな暮らし

②何にも縛られない刺激的な暮らし


そう。私の思う幸せは相反してる

①には憧れる。

でも正直それだけだとつまらない。

私は、幸せになる=つまらないと思っていたのだ。
だから幸せになる許可を出し渋っていた。
つまらない人生は嫌だから。

かと言って、②にベクトルが向きすぎると地に足ついてない感じで不安になる。
そこまで突き抜ける勇気もないし、日々の暮らしを蔑ろにして”体調不良な自分”に戻るのが怖い。

そうやってこっちに行けばあっち、あっちに行けばこっちでずっと悩んでたんだと思う。

ここでまた思うのは陰陽のバランス。

どちらかじゃなくていい。どっちも必要。

望むならばどっちも手に入れれば良い。

でもひねくれ者の私はそんな素直に
「はい。では、両方手に入れて幸せになります!」
とはならない。

こちとら伊達に30年以上悩み続けていない。
どんなネタでも悩めるいわばプロ。

もう少し理論的に(面倒臭く)考えてみる。


2021年の私的ヒットBOOK「3つの幸福」によると、

幸せを感じるコツは、大きく分けて3タイプの幸せをピラミッド状に積み重ねること。と書かれている。

下から順にまずはセロトニン(健康・リラックス)
その次にオキシトシン(愛情・繋がり)
1番上にドーパミン(成功・達成・刺激)
を順番に積み重ねることで幸福度が増す。

簡単に言うと、
しっかり土台を安定させて順番に積み上げて、
三段全部揃って最高に幸せ!って感じ。

それぞれの幸せがどのくらいで満たされるかは人によって差はあれど、全部必要。全部大事。

今思えば、私はずっと土台がグラグラで安定していないのに、

刺激ばかりを求めては何をやっても満たされない日々を送ってきた。

そして、その頃の思考や行動の癖がなかなか抜けない。


私の思う幸せを、3タイプに当てはめると①の穏やかな幸せはセロトニン・オキシトシン的幸福、

②の刺激的な幸せはドーパミン的幸福になるだろう。

私が幸せと感じる要素には①も②もどちらも欠かせないのに、昔の満たされない自分に戻りたくない気持ちが②を求めることを抑えつけてたように思う。

かと言って①はつまらない!と言う始末。

しかし、先ほどもお伝えした通り、
三段積み重ねて最高に幸せ!なのだ。

刺激的な幸せを味わうには、健康や愛情の土台がしっかり固められている必要があるし、土台だけ作ってもその上に何も重ねなければ、やっぱり少し物足りない。

マイホームを建てるのに、
土台だけで家無し or 家だけで土台無し 
だと、せっかくの幸せ家族計画も台無しになる。

だから①か②、どちらかを選ぶ必要はない。何回も言うが両方必要なのだ。


少し気をつけたいのは、ドーパミン的幸福は行き過ぎると”もっと欲しい!”が抑えられなくて依存に繋がる。
ギャンブルとかお酒とかドラッグとか。

かと言って、刺激的なものだけかと言うと、そうでもない。

私は分かりやすい依存はないものの、
休みの日に勉強やインプットに割く時間が多い。

もはや趣味で、好きなことだから全く苦には思っていなかったし、むしろ趣味に時間を費やす生活を、穏やかな幸せの方に分類していた。

しかし、今の自分に満足せずに、もっと学びたい。もっと知りたい。と足りないものを埋めるような行動は終わりがないドーパミン的な欲求かもしれない。

形は変われど、やっぱり満たされない穴を埋め続けてる自分がいることに気づく。


先日、天気が良い日に旦那さんとランチにカレーを食べに行った。(めちゃくちゃに美味しかった)

食後にコーヒーとおやつを買って、公園の芝生に2人並んで寝転んでボーッとしてたら「幸せやなー!!!」って気持ちが爆発した。

そう!今この感覚を欲してた。これは完全に①の穏やかな幸せ。

身体中に散りばめられてた幸せのかけらが一気にギュッとなって、脳の感情を司る部位を目がけて発射された。そして見事命中した。

色んな形をした幸せの鍵があるとして、その時の自分のコンディションという鍵穴ににぴったりの鍵がはまったのだ。

鍵が開いた扉の向こうはこんなに幸福感で満たされているのかぁとしみじみ浸ってしまった。

どんな幸せの形もそれだけになると飽きてしまうかもしれないけど、①は決してつまらないものではなかった。

私を幸福感で包み込んでくれた。

①の中にも②の中にも色んな鍵と鍵穴がある。

自分の思う幸せをもっと細分化する必要があるかもしれない。

例えば、私がものすごく枝豆が好きだったとして、新鮮な野菜がズラーっと並んだサラダバーに行って枝豆しか取らないなんてことはない。(それで満足なら良いけど)

サラダバー=枝豆一択より、せっかくなら今日の気分で色んな野菜を楽しみたい。

ポテサラも好き、オニオンスライスも外せない。
ドレッシングも合わせたら組み合わせは無限大。

自分が幸せ・好きと思っている行為も、
その時々で感じ方が違うということ。

そして、どんなに野菜が大好きでも、お肉を食べたい日もある。

でも今までの私は、
ちょっと疲れた時は、枝豆好きでしょ?はい、どーぞ。

刺激?はいはい、お肉ね!って感じで
自分のご機嫌取りのレパートリーが少なかった。

逆にお肉が大好きで毎日ニンニクたっぷりのステーキを300g食べてる人は、

枝豆だけの斬新なサラダを見て”いつもと違う”と、刺激的に感じるかもしれない。

力の入れどころと抜きどころ。細分化された色んな種類の幸せ。
今はどの幸せの鍵をはめると心の扉が開放されるのか、コンディションの確認。


バランスが崩れた時に心と身体にピタッとハマる「幸せ」を選んで実践できる。

それこそが「自分の機嫌は自分でとる」ってことだと思った。

幸せってそんなに面倒くさいこと?とも思う。

でもそれができなくてイライラしてる人がたくさん居る。(私もその一人)

自分のこととは言え、一朝一夕でできることではないし、用意された正解もない。

ただ、私たちにできることは
・日々感じる好きをコレクションしていく
・自分の感情に素直になり、小さな欲求も無視しない

そう、とにかく自分を無視しない。そうして自分との信頼関係を築いていく。

自分にとって自分自身が1番の理解者・味方でいること。

あれも好き。これも好き。そっちも好き。で良いのだ。

誰が何と言おうと、自分の幸せという感情は自分にしか確認できない。

私の中の小さい私にも
「今も幸せやし、もっと幸せになっても良いよ」って
言ってあげよう。

自分で選択できる人生。幸せを感じる方を選んで行こう。




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