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嫌われる勇気、幸せになる勇気、駄文を曝け出す勇気

文章を書くメリット

突然ですが、今年の抱負のひとつは
「文章をたくさん書くこと」。

文章を書くメリットは
・自分の考えが整理される
・人に自分がどんな人間かを伝えることができる
ことがトップ2だと思っていた。

この2つの中で1番目の「自分の考えが整理される」というものは、今までもずっとやってきていた。

文章を書くこと自体は好きで、去年もiPadのメモやスケジュール帳にたくさん考えたことやアイデアを書き込んでいた。
でも、理路整然とした文章とか、伏線を張り巡らした面白い文章とか、語彙を効果的に使った知的な文章とかは苦手で、文章を書いてもnoteなどで公開することはしてなかった。
筆不精なのもあるけど。

書いてはいるけど公開はしてなかった文章とか、考えてはいるけど言語化してなかったアイデアとかを思い出したりすると、なんか勿体無いと思ってしまった。
メリットの2つ目の「人に自分がどんな人間かを伝えることができる」という部分に関わってくる。

他人に自分を分かってもらいたい、理解してもらいたいというとき、会ってひたすら語り合って、相手を自分と相対化してどこが一緒でどこが違うのかという価値観の擦り合わせをしていくことが一番手っ取り早いと思う。
でも、それは会って喋れる距離にいる人限定で、他人から見た自分って実際Twitterのつぶやきとかインスタの投稿とかストーリーとか肩書きとかで判断されてる。

自分という人間のほんの一部分、140字の中から、15秒の動画の中から、何が分かるんだろうと疑問に思う。
それが140字から2000字のnoteに、15秒の動画から10分のYouTube動画に、そうするだけでも、相手には比較的伝わりやすくなる。

それがnoteを更新し、文章をたくさん書こうと思ったきっかけ。

もちろん大事なことだけど、文章を書くメリットってそれだけじゃないなと思った。

過去の自分も自分

昔書いたnoteを読み返した時だ。
昔のnoteを読んでいると、あの時の自分こんなこと思ってたんだとか、今は逆にこんな文章書けないなあとか、昔の自分が違う自分に見える時がある。
実際、色んな本を読んだり、映画を見たり、人と話したり、旅に行ったり、そんな中で自分は常に自分をアップデートしているので、毎日何かしら考え方、知識などは変化している。

そんな過去との差分で今の自分をより深く理解できるようになると思う。
あの時の自分と今の自分を相対化するということ。
でも、あの頃の考えとかが思い出せなくなって、自分の考え方が変わった場合、今の自分しか残らなくなる。本当は連続的に存在する自分のはずが、孤独な存在になってしまう。

去年はあまり文章を書けなかった。
文章を途中まで書いては、うまく書けないなとか、こんなの公開に値しないだとか言って消していった文章もたくさんあった。
そんな誰の目にも映ることなく消えていった思考の断片を記録として残しておきたい。

駄文でも公開していこう。

「人は自分が思うより他人に関心がない」
これをして気分を害す人がいたらどうだろうか、とか、これを見られて嫌われたらどうしよう、とか言い訳して行動せずにやめたりする人は多いけど、実際は自意識が過剰なだけで、人は自分にそこまで興味がない。

駄文を曝け出したとしても、それを駄文だと思うのは自分だけかもしれないし、
なんなら人が評価下すこともなければ誰も読まないかもしれない。

そんなしょうもない言い訳して文章書かないよりは、どんどん書いて、公開していくうちに、文章も上手く書けるようになるんじゃないか。
とやっと考えを改めた。

客観性に晒されると、人は成長すると思ってる。
一般に垢抜けるとかはそうで、人の目に触れる機会が増えたとか、演劇や舞台など客観性を伴う行動をするとと、自分の美意識がいやでも上がり、垢抜けに繋がる。

文章もそれと同じで、人の目に触れると思って書き続けると、自ずと上手くなっていくんじゃないかと。
それまでは駄文でも別にいいし、それはそれで自分にとって価値があることだと思って駄文を晒していくしかない。

前々回のnoteでも言ってたけど、自分は天才型ではないので、なにも勉強しなくても適当に頭の中にある言葉を文章にしたら、いい文章が書き上げられた、みたいなことはできない。
しっかり文章の書き方を学び、色んな人の文章を読むことで参考にし、自分なりの文章の書き方や、アウトプットのやり方を見つけていきたいと思ってる。

そのためにも駄文をさらけ出すことはそのスタート地点、ショック療法ちっくやけど、それが後から振り返った時に近道だったと思えるように今できることをやっていきたい。

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