情報は与えられるものか、取りにいくものか。

先日ツイッターにある新聞記事が流れてきた。


元の投稿には、7月23日に発行された朝日新聞の記事とある。7月21日に選挙が行われた参議院議員選挙を受けての投稿だろう。ぼくはこれを読んで、たしかになぁと思う反面、他にも考えないといけないことが浮かんできた。それを少し書き残しておきたい。


情報を与えられる場が少ない

まず記事を読んでみると、投票率の低かった今回の選挙で、開票当日は報道されるのに、事前のテレビ報道というものがなぜされないのかと書かれている。

ぼく自身それは不思議だと思っていた。テレビが見られなくなったとはいえ、まだ多くの人は見ているのだから、まとめて時間をとってそれぞれの政党が政策と意気込みを発表する時間を作ればいいのではないだろうか、と。

事前に選挙についてふれる場がなかった。結果として、一部の党(れいわ新撰組やNHKから国民を守る党)が行うYouTubeなどを通したネットでの主張がよく見られるようになった。

ぼくは今回の選挙で「選挙に行こう」というメッセージをはじめ、多くの情報を見てきた。それもあってか、今更ながらに選挙について知らないとなぁと思い立って、今回は自分で調べて投票に行った。

調べてみると、考えて選ぶための情報はたくさん出てくることがわかった。ただ、政治に関心の少ない人からすれば、自分で調べてできる人も多くはないだろう。むしろ、とりあえず投票に行ったものの特に決めてなくて、目についた人や有名な人、話題の党に投票する人がいてもおかしくない。


若者の政治離れ?

「若者の政治離れ」という言葉をたまに聞く。他の年代に比べれば、投票率は少ないと言える。でも全体としての投票率の低さも問題ではないだろうか。

みんな政治から離れてる。それはぼくたちが離れているのだろうか。それとも政治家の方々が離れているのだろうか。

自分の国のことなのだから、自分で情報を取りにいくのが当たり前だと、仮に思われたとしてもわからなくはない。でももし、国民に寄り添って考えようとしてくれるのならば、多くの人が見るであろうテレビに、選挙前から情報を出してくれてもいいはずである。記事にもあるように「平等性が〜」の議論もあるかもしれないが、バラバラに各地で活動している時点で平等もないと思ってしまうのだが、いかがだろうか。

お互いが離れてしまっては先には進まないし、勝手に決めたなと後で文句を言っても遅いだろう。


日常に政治のことを入れてみる

選挙での行動を変えていくのは政治家の方々なので、正直何もできない。ぼくたちができることは、日頃から、当たり前に問題がそこにあるように考えていくしかない。

話題が、「誰々が不倫した〜」だの「暴言だ〜」ということではない。正直、他人のスキャンダルなんてどうでもいい。

政治で決められたことは、自分を守る盾や歩きやすくなる靴のように、そして時には受け止めてくれる皿のように、多かれ少なかれ暮らしに直結していく。

それが気づかぬうちにボロボロになっているかもしれない。代わりに作ってくれるようお願いしたのはぼくたちの側なのだから、不満だけでなく、そっぽも向かず、少しくらい考えていきたいと思う。


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