平等の誤り

今回は世の中の「平等」という考えについて考えてみた。この考えはたぶん私の考えの根本にある考えに近いと考えている。平等とは何か。そしてとても近い言葉に対等や公平がある。この辺の言葉を絡めながら話を進めようと思う。

平等とは:差別がなくみな一様に等しいこと。
言葉としてはとても素敵だがこれをリアルに落とし込んでみると少し状況が変わってくる。
分かりやすい例えの中に「踏み台の高さ」があります。身長が違う人たちに対して同じ高さの踏み台を渡す。与える物や与えられるものが同じという例えでこれを「平等」と言います。

ちなみに「踏み台の高さ」を変えて同じ目線になるようにすることを「公平」と言います。

今までの日本であれば皆に同じように与えられていて、全員が右向け右をしておけばよかった時代。
しかし今世の中で有名な人たちを見てほしい。ほぼ全員が少し前に人と違うことをやっていた人ではないだろうか。他人と違い行動をしていた人ではないだろうか。
例えば仕事をするうえで同じ時間で10できる人と1しかできない人がいたときに同じ給料でもいいのだろうか。自分が10できる人であれば嫌だろう。しかし1しかできない側であれば絶対に「平等であるべきだ」と叫ぶだろう。
なぜこれだけ平等が浸透しているのか。それは人間は弱く、今の日本人は楽をしたい生き物だから平等がいいのだろう。

しかし世の中が思っている平等とは実は公平のことを言っている。日本が目指している世の中は「平等な世の中」ではなく「公平な世の中」であることに気付いたほうがいい。

公平な世の中とは全員が全員、楽をし続けた結果が今の日本ではないだろうか。

この状況に危機感を覚えている人はどれくらいいるだろうか。
危機感を覚えながら見て見ぬふりをしている人間がどれくらいいるだろうか。

私は行動した人が行動した分だけの対価をもらえる世の中になってほしいと思う。ここでよく言われるのが「まつはできるからそういうんだ」って言われる。そんなことない。私が社会人になったばかりのころは会社の中でも最下位というくらい何もできなかった。そんな私が勉強して知識をつけて様々なことにチャレンジして経験を重ねただけで二つの会社の代表をやっている。noteを始めたのだって知識が整ってからではない。やろうと思ってから知識を入れ始めただけだ。
そしてビジネスをやるうえで「センス」とか「天才」なんてものはほとんどいない。唯一あるとすれば行動したかどうかに過ぎない。
あなたたちが家でのんびりしているときに仕事しているし、遊んでいるときだって仕事している。
結局のところ、そのことに対してどれだけ考えているかに過ぎないのだ。

そして私がなぜ平等よりも対等がいいのかという理由の一つに
「人の価値観の違い」にある。例えば給料にしても30万円で納得する人もいれば納得できない人もいる。体格の違いや欲の量も違う。そんな当たり前のことなのに過半数は平等がいいという。そもそも違うのになぜ合わせようとするのか。

次に「対等」について考えてみる。
対等とは:地位や力量などが相手と優劣がなく同じ程度であること。

これはずっとこういう立場でいろ。という意味ではなく、初めのスタートラインだけは対等だよ。という意味。もちろん社会的弱者に対して対等なんて言うつもりはない。五体満足で生まれて社会人になった人たちは対等だという話。ビジネスのスタートだけは絶対的に対等だ。生まれや環境をうまく使えたやつが成功に一番近い。ちなみに言っておくが私は親の支援は何一つ受けていない。受けたい人は受けたほうがいいが私自身、援助をうけないほうがおもしろそうだと感じただけだ。

世の中、公平じゃいけない。公平であれば何も進展しない。
スタートは対等でなければならない。履き違えてはいけない。
行動した人に対して行動した分だけの評価を受けられる世の中。
世の中「公平」ではなくて「対等」で始まり「平等」に評価されるようになってほしい。

なにも持っていなかった私がこれから何を手にするのか。
考えるとドキドキが止まらない、まつでした。またね。

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