家族のあり方
家族とは何か?
このことをマジメに考えたことがある人はどれくらいいるだろうか。多分あまりいないのではないだろうか。
現に私も今まで考えたこともなかったし、家族とは家族だと思っていた。しかし私はこのタイミングでマジメに考えてみようと思う。
家族:家によって結ばれた繋がり。共同体。
文章にしたらめちゃくちゃドライな関係でびっくりした。でも本当はそれ以上でもそれ以下でもない関係なのかもしれない。子供の甘えとか親の存在なんてものは私達が勝手につくったもので単純に家でのみ繋がっているだけだと考えれば、親子の関係とかに縛られずにもっとフラットな関係になれるような気がした。私達自身で家族とは〇〇という先入観で接しているだけなのかもしれない。
念の為お伝えしておくが、だからといって子供を放置するということではない。子供が自立するまでは育てる。いや、育てるではない。子供として親として共に育っていく。これは親子として当然の役割だからだ。
とても冷たい言い方だがすべては役割であり、ポジションである。
親になりたいから親になるわけではないし、子供になりたいから子供でいられるわけではない。子供ができたから親になり、親がいるから子供でいられる。主観的なものではなく環境で親子になっている。自信や経験ではない。
この関係性が頭にあれば、子供が成功しないのは親のせいではないし、子供が成功することも親のおかげではないことは理解できるのではないだろうか。
ただ一つだけ親として気を付けなければいけないことがあると考えている。それは子供たちに与え過ぎてはいけないということだ。
この考えは私自身の話なので押し付けるつもりはないが考え方としてはありだと思う。なぜ与えてしまうことが良くないかというと、人間が喜びを感じたり、嬉しかったりするときとは、どんなときだろうと考えるとなんとなく分かる。
思い出してほしい。自転車に初めて乗れたときやスポーツができるようになったとき。勉強して何かを覚えられたとき、仕事で初めてモノを売ったとき。彼女ができたときでもいいし、子供が生まれたときでも構わない。思いつく喜びはほとんどが経験や知識、ものや繋がりたいを手にしたときではないだろうか。
親が死ぬまで子供の面倒を見ることも少しずれていると思う。逆に子供が死ぬまで親が親でいられるのであれば、いつまでも甘やかせばいいと思う。
それができないのであれば甘やかせば甘やかすほど自分の大切な子供が今の時代を自分の力で生きていけない人間になってしまう。
人が喜びや嬉しさを感じるときの多くが、できないことができるようになったり、無いものを手にしたときで、そのために人間は勉強するし、行動するし、仕事をする。
ということは、そもそも何も持っていない人のほうが幸せになる可能性は高いのではないだろうかという考えになる。
話を少し戻すが親が子供のことを第一に考えるなら何かを与えるのではなく与えないという選択肢があるはずだ。私の親もそうだが、なんでも与えてしまう人は結局自分を守っているようにしか見えない。子供や孫と対等に接していないのだと思う。
自分が楽をするために与えてしまうし、自分が嫌われたくないから目先の与えるという行動をしてしまう。
そう考えるようになってからは家族の関係がとてもシンプルに考えられるようになった。
家族の中で上下関係はなく、役割があるだけなのだろう。馴れ合いではない関係だし、各々の役割を普通にこなすことが家族円満の秘訣なのかもしれない。
ここに書いてある言葉だけを読んで頂くと結構ドライな家族だと思われているかもしれないが、それは違う。私の家族はめちゃくちゃ仲がいい。
結局のところ子供がどうとかでなく、親である私達が子どもたちに対して対等に接してさえいれば、お互いがお互いを認め合えるような関係が続くと考えている。
いつも好きにさせて頂いてありがとうございます。
まつでした。またね。