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「あなたのことを一生離さない」の裏に。

「あなたのことを一生離さない」

恋人の間でよく聞くような「ロマンチック」とされる"セリフ"だ。

これは「私はこれだけあなたのことが好きなんですよ」ということをアピールするものであると同時に、「意識」上で意図していない裏にあるメッセージが伝わってくる。

「あなたのことを一生離さない」とわざわざ言うということは、離す可能性を示唆することになる。
「え?そもそも離す可能性があったの?」と。
離さない前提だと暗黙の了解なはずなのに、そんなことをわざわざ言うのか、と。

ある人が「私の個人的なことにあなたは口を突っ込む権利もないし、あなたの人生も私とは別なのだから、お互いに秘密を全て打ち明けることはしする必要はない」とわざわざ言うとする。

尊重し合う人間の間の"当然"のルールだと思うだろうか?
もし"当然"なのであれば、わざわざこのように言葉で言う必要がない。
ここには、牽制の動きがある。
あるいは、当人にとって知られたら良くないと考えている秘密があることを示唆する。
それはまるで、かくれんぼで「ここには誰もいませんよ!」と叫び、自身の居場所を示すようなものだ。

言った内容とその言表行為自体を切り離すことはできない。
「あなたのことを一生離さない」
この内容自体と発言の行為(あるいは発言の意図)は別ではあり得ない。

映画における「この戦争から戻ったら結婚するんだ」。
これはほぼ実現しない。
そこには発言の意図が裏にはある。実現しないからこそ、登場人物にこのように言わせるのだ。

現実は映画とは違うって?
そうでしょうとも。
ただ、自身の欲求が、その言動が「あなた」自身の欲求であるなんてどうしてわかるのだろう。筋書きに沿ったものではないとどうしてわかるのだろう。「本当の自分」なんてどうやってわかるのだろう。そもそもそんなのわかる必要があるのだろうか。

「本当の自分はこれだ!」と客観的に自身を外部から見て決定したつもりでも、決定した「あなた」は部外者ではあり得ない。
どうしても、その"客観的"な「あなた」は「本当の自分」と関係してきてしまう。

『モンティパイソン』にこんなスケッチ(Argument Clinic)がある。
ある男が口論を求めて「口論クリニック」を訪ねる。
案内された部屋で二人は口論になる。「これは口論なのか、そうでないのか」
嫌になって出ていき、別の部屋に入っていく男。
そこでも、奇妙なことに巻き込まれる。
そこに警察官が入ってくる。「変なコメディをしている者を取り締まりに来たぞ」
そんなこんなでまた別の警察官が同じ理由で、警察官を含めた人物たちを取り締まりに来る。そこにまた別の警察官が・・・。

第三者視点で、客観的な「自己評価」などしようがない。「本当の自分」など知りようがない。「本当っぽい」自分ならいるかもしれない。

(だからこそ、自身にも問う。『私はなぜこんなことを記事に書いているのでしょう』)

話がとんでもない方向に広がってしまった。

「あなたのことを一生離さない」
「離さない」かどうかはどうでも良い話で、ただ二人の関係性がどうあるのかが大事なはずだ。
それが離れていようがいまいが。
さもなければ、「私はあの人を離してしまった」「あの人は私から離れてしまった」と引きずることになる。
「私」と「離した/離れた人」という概念に固着してしまう。

「ただその人といる」ことに価値を置くのではなく、その人とどのような関係性があるのか、展開されていくのか、そこが一番大事なんじゃないかと私は思う。

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