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相手の枠に当てはめられることには慣れた。

今回の記事では、ラフな話を、ラフな感じで。

私が「日々を楽しく過ごしている」と言ってもさまざまな反応が返ってくる。

「そうやって自分に思い込ませてるだけでしょう。」
「今、恋人いないの?寂しいでしょう。かわいそうに。」

直接こういう言葉をかけてくる人もいれば、間接的に言われることもある。
(これらはただの一例。このブログは基本的に幅広い意味での「性」に関するものなので、恋人の例を取り上げた。)

その時に思うのは、
「この人自身が楽しいと言う時は、そう自分に思い込ませているのだろうな」
「この人は自身に恋人がいないと、寂しくて自身のことがかわいそうに感じるんだな」
ということ。

そして何よりも、「ああ、相手には、私がただ強がっているように見えているんだな」って。

確かに、最近はとにかく「ポジティブでいる」ということを修行のように行う人たちがいる。それが実際に「ポジティブ」であるかは、さておき。
その"文化"の反動で、自身のよくわからない「弱さ」のような何かを外部に威嚇のように表すことがカウンターとして出てきてもいる。
(これは、何かを「弱さ」として道具化しており、「弱さ」自体をその人自身に引き受けきれていないと感じることもある。)

私が「うーん、特に寂しくないかなぁ。というより、恋人同士と言う関係自体が第三者の承認を必要としていて...」と他の記事で言っているようなことをカジュアルに言えば言うほど、それは相手からは、強がりに強がりを重ねているように見える。

彼らから見て、私が日々楽しく過ごすためには、記号の羽衣が必要なのだ。

それは、恋人、結婚、キャリア、資産、成功物語、何か一般的に分かりやすい何か「良いこと」が起きているということ。
「そうでなければ、楽しく過ごせるはずがない。それでも目の前の人物は楽しく過ごしていると言っている。矛盾だ。おかしい。いや、これは嘘だ。だから、強がりだ。」
ということなのだと思う。

ただ、これも「私」という範囲内で考えているだけで、推察に過ぎない。

彼らの物語、枠に合わせると、彼らはどこか安心するように見える。
記号に当てはまらないものは「未知」であり、怖いものだ。

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