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大量生産される製品「カップル」

カップルになると、カップルの構成員としての規律・役割が出てくる。
これは以下の記事でも、他の記事でも適宜説明した。

すると、「役割を演じる必要のない人とカップルになればいい」と言われる。
しかし、カップルという以上、恋人・パートナーとしての役割は基本的に出てくる。
私の場合はシス男性なので、相手が男性でも女性でも、「彼氏」としての役割。
(ノンバイナリーだったとしても、依然として「恋人」としての役割は残ることに変わりはない。)
この「彼氏」としての規律・役割は、特に相手が対照的な「彼女」である際に、より明確に現れてくる。

「では規律と役割のすり合わせをしていけばいい」と思っただろうか。
ここで問いかけたいことがある。

・すり合わせをするのは「カップル」に限った話なのか。

・そういった規律や役割を結局すり合わせることになるのなら、「カップル」「彼氏/彼女」の規律・役割が多い状態からスタートする必要があるのか。

・「その人」との特別な関係性を基準に考えてみるのはどうか。

どんな人(当然他人も含む)と接する時も、同じ頻度、振る舞い、言葉遣い、話題、その他諸々の条件で接するだろうか。
そういった人はなかなかいないと思う。

少しずつ意識的・無意識的に接近・離反をお互いに繰り返して独特の関係性ができていく。
だからこそ、Aさんとの間にもBさんとの間にも、それぞれ独特な関係性がある。

しかし、ほとんどの人にはそれが家族枠、友人枠、恋人枠、上司・部下、格上・格下のような、確固たる(と思い込んでいる)枠の数々で、区切られている。
「一部を除いたらどの関係性も同じだ」と思ってる人は、一度各々の関係をじっくりと感じてみてほしい。違うことに気づくだろうから。

「恋人」の間でよく言われるであろう「あなたの代わりはいないの」という言葉。
当たり前だ。
誰も誰かの代わりにはならない。
「恋人」に限ってそんなことを言ってるということは、他の人間関係では、代わりがたくさんいるということなのだろうか。
人や人との関係を取り換え可能な部品や量的な何かに換算し始めたら、最後には自分自身にその価値基準が適用されることになる。
実際には、そもそも「恋人」というポジションに、ある任意の人間を置いたということであり、「恋人」さえも取り換え可能なのかもしれないが。
つまり、「恋人」のポジション・概念自体に代わりはない(取り去ることはできない)が、そこに置かれる人間の取り換えはもちろん可能であるということなのかもしれない。

一般的に人と接する際の前提条件が各々あると思う。
関係性における「常識」とそれぞれの人が考えているものだ。

通常、道で知らない人の手を急に握って、今日の晩御飯の話をしながら歩き出したりはしない。
初対面で罵詈雑言を使うのは好ましくない。
ずっと仏頂面では話さない、など。
そういったものは文化的な影響も多分に受けながら形成されている。だから、異文化の人同士だと「常識」も変わる。"良い"コミュニケーションには、お互いに寛容でありオープンであることが求められる。
そこで「すり合わせ」は大事かもしれない。

例えば、〇〇人だからと言って、それから外れたら〇〇人として失格などと思うのだろうか。
こういった〇〇人というレッテルを最初は持っていれば、それをいつでも外していける柔軟さが求められる。
これに同意してくれる人は多いだろうと思うし、当然だと思うだろう。

であれば、「カップル「彼氏/彼女」についても同じだ。「カップル」の規律・役割をわざわざ招き入れなくても、それこそ二人だけのすり合わせを「常識」から始めて、関係性を作ればいいだけの話だと思う。結果的に周りから見てそれが「カップル」や「恋人」というものになるかもしれない。
ただそこにおいて、既定の「カップル」「恋人」の"型"は先行していない。

「常識」のすり合わせは、会った瞬間から始まっている。あるいは、共通の友人を介して知り合った場合には、会う前からも始まっているときもある。
(わざわざ第三者的な「カップル」や「恋人」の規律・役割に依存したいその感覚はどのようにして湧いてくるのだろうか。何が依存させたいと思わせているのだろうか。)

ここで大切なことは、「すり合わせ」をしたところで、それについてすべて理解することは不可能であり、常に変わっていく、ということ。
すり合わせを長くしてきて、「この人のことは全部わかった」とするのは勘違い。以下の記事で書いたように、その人について語りつくせない何かが常に出てくる。

「カップル」という規律・役割の違いがあまりない人同士であれば、そこから始めてもその違いで悩まされることは多くないかもしれない。
それでも、すべて一致していることはないだろうし、それぞれの中の規律・役割は常に変わっていく。

わざわざ「カップル」という概念からスタートせずに「ただそこにある関係性」と特異性に意識を向ける。「カップル」としてスタートしてしまったとしても、それは心に留めておいた方が良い。
さもなくば、「他者」は排除されていき、巷でよく言う「二人だけの特別な関係」なんてものもなく、表面的には大量生産された「カップル」のうちの一つになってしまうだろう。
また、最初は「他者」を抑圧できていても、別の形で回帰してくる。それが大胆に戻ってくる時が、製品としての「カップル」の消費期限となるだろう。


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