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「もっと出来る、まだまだやれる」 そう自然に思わされる環境にこそ注意

人間誰しも、褒められて嬉しくないことはない。

そこから周りから期待されている事、そのことに対して頑張らなくてはとつい思ってしまう。

小学生の頃なら、テストの点数であったり50メートル走のタイムであったり。

中学生であれば成績であったり。

高校であれば、模試や受験の志望校を上げることであったり。

大学・大学院では内定先や研究発表であったり。

社会人であったなら査定や表彰であったり。

承認欲求をうまく使った形で、期待されていることに更に応えようとする。

そして気がついたら頑張りすぎてしまい、周りが望む姿のみに集中。

そして本当に自分がやりたいことでは無く、ただひたすら周りが期待することのみにがんじがらめ。

それによって気がついたら燃え尽きて灰になり、元に戻らない。




「もっとできる!まだまだやれる!」

そう思わされる環境というものは、ある意味幸せのように見える。

承認してくれる多くの人に囲まれて、頑張ることができて。

ただ、その環境というものは実はかなり危険かもしれない。

「まだまだやれる」と周囲に促されていても、すでに本人は限界かもしれない。

そしてその限界を超えてハイになった時に、ある日突然崩壊がやってくる。

それは身体の限界かもしれないし、心の限界かもしれない。

頑張りすぎる結果としての身体のガタ、精神の病気、その状態に陥る人がいる。

特に、精神状態でやられてしまうと、回復はとても難しい。

さらに気がつかないうちにかなり大変な状態に陥っていることもあり、尚更リスクが溢れている。



周囲が期待することそのものは、悪いことではない。

むしろ、そのような環境を作り出していることは、とても素晴らしいこと。

なぜなら、その承認環境がその人の居場所になるから。

ただ、一方でその承認は本当にその本人が望んでいるものなのかはしっかりと考えなくてはいけない。

時にそのことを聞いたとしても、本人は周りからの期待だからということでその周囲に配慮して周りの承認や期待を無理やり本人の意思に合わせようとしてしまうこともよくある。

だからこそ、その人の本当に望んでいるかどうかということは、その人の見えない潜在的なところ含めて確認する必要があるように感じる。

本当にその本人は望んでいるのか。

「頑張れ!もっと出来る!まだまだやれる!」という言葉を使って良いのか。

自然にそう思わされるような環境というものは、果たして健全と言えるのか。

行きすぎたこれらの言葉が人を追い込んで、視野を狭くすることもある。

だからこそ、周囲はこれらの言葉に対してより使う場面を注意するべきこともあるかもしれない。

もちろん言われる本人についても、しっかりと立ち止まって自分の本当に思っている事を明確にしていく必要がある。

そうしなければ、行き過ぎた全身全霊によって悲しい結末がやってくる可能性も沢山あるのだから。



ありがとうございました。

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