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寺田の「人生ってなんだ?」その1:プロローグ

人生というものをひとことで言えば、それは死ぬまで生き続けることだと思う。

「何をそんな当たり前のことを」と、開幕早々ページを閉じないでください。

こんにちは。はじめまして。寺田です。

僕は普段、特にこれと言って誇れることは何もしていませんが、強いて言えば世の中の殆どの人間がくだらないと思うようなことについてあれこれ考えるのが日課です。

最近なんだか、絵ばかり描いていて、文章のアウトプットが足りないような気がふとしてきまして、3日坊主になることを覚悟の上で、noteを書くことにしました。

ただ書くからには、読者の皆様に、少しでも有意義な時間を過ごしてもらえるよう、それなりの(!)努力はしたいと思います。…というわけで、本日からどうぞよろしくお願い致します。

さて、最初のテーマですが、とりあえず人生とは何かについて自分の思ったことを書くことにしました。

ーーーなぜ人生論か?

それは人生論というものが、おそらく死ぬ間際の、最後の瞬間まで、人間の脳内で繰り広げられる葛藤であるからに他なりません。その意味で、人生論は物心がついた時以降、誰にでも、いつでも有効なテーマであり、最初のテーマが何も思いつかなかった僕にぴったりではないでしょうか。

そして僕そのものが、常に人生に悩んでいる人間でもあります。365日中、365日、多かれ少なかれ、何かしら葛藤しています。

かの哲学者、パスカルは「人間は考える葦である」という有名な言葉を残しましたが、僕は正直、考えるのを辞めたくなる日もあります。しかし、どうやら人間は考えることからは逃げ続けられないようです。(残念!)

私ごとですが、僕は最近、6年間通っていた大学を退学するという決断をしました。ずっと辞めたい辞めたいと思っていたのですが、ダラダラ通ってしまっていて、後期の履修登録を忘れていたという事件もあり、ようやくの決断でした。

そう、人生とは決断の連続なのです。そして僕が思うのは、決断というのは結構キツイ。かなり精神力を使うものです。

何故、僕たちは毎日毎日面倒な決断をして、へとへとになりながらも生きなければならないのか?…仕事で忙しい現代人の多くはそんなことを考えている暇もないのでしょうが、しかしふとした瞬間、このような問いに、誰でも直面するでしょう。

そして決断がなぜキツイのかといえば、それが合ってるのか、間違ってるのかが、決断する瞬間には分からないからに他なりません。

夕食のメニューから、一大決断とも呼べる大ごとまで。良かれと思って決断したことが、後から振り返るとダメだったなと反省することは僕にも多々あります。その逆も然り。

つまり人生とは、決断し、振り返って反省し、軌道修正をする。これを延々と繰り返していくことなのです。

でもそう考えると、どのみち正解かどうかは分からないんだから、その時に自分が良いと思った方を決断する、ということしか僕たちにできることは無いような気がします。人間とは、なんと不自由な生き物なのでしょうか(!)

他人にありがとうと言うことも、言わないことも決断です。街を歩くこと、部屋に引き篭もること、どちらも決断です。決断しないという決断も、決断なのです。

人は、人を傷つけなくては生きていけない生き物です。

何かを決断することとは、誰かや何かを傷つけること。だから、傷つけることを織り込み済みで、前に進むしか無いんじゃないかと思います。ただ、本来なら傷つける必要のない者を、あえて無意味に傷つけるのは良くないと思います。(この言い方には多分の語弊を呼ぶでしょうが)

僕は、どうせ書くなら少しは世のため(もちろんこの中には自分も入っています)、他人のため、と思って、文章を書いています。でも、僕の文章を不快に感じる人も一定数はいるでしょう。

だからと言って、僕は書くのをやめるわけにはいきません。書きたいことを自由に書かないことも、自分という「誰か」をあえて傷つけることになるからです。

多くの人は、そのようにして自分を「誰か」にカウントしようとしませんが、僕は、「世の中」と言うとき、そこに自分を含めないのは数学の集合論的に考えておかしいんじゃないかと思います。

もしも自分が死んでいるか、神様であるか、つまり世の中の「外」にいる存在であれば、「世の中の誰か」に自分をカウントできない。数学的に考えれば当然のことです。でも生きてきるのであれば、カウントしなければならない。自分を傷つけることも、「誰か」を傷つけることなのです

僕は本来、人間は自分自身を肯定して生きるのがナチュラルな状態だと思う。

 自分を肯定できなければ、どこかで間違っている。そう思って、前に進もう。

つづく



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