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コロナのち鬱のちゼロスタート【リスタート編】

【現実を見ろ!まだ闘うか?成長至上主義との訣別】

2022年3月

退院した。山の麓にある自宅で春先の陽だまりに腰掛ける。木々は蒼く茂り、遠くの山には残雪。空は薄い青色。

「はてはてどうしたものか?」

うつ病は再発率が50%を超える。2人に1人はまた入退院を繰り返す。

当面は通院を継続しながらゆっくり休もうと思う。ただ子供も2人育ち盛りで妻もいる。家族のためにも社会復帰は早い方がいい。

だが、この入院の代償に体力も弱体化し、図太かった神経も細く固くなった様な気がする。(実際思った以上だった)

焦る気持ちを抑えつつ、これからの人生に思いを巡らせる。

ひとつ決まっていることがあった。それは「成長至上主義」との訣別。

今の資本主義制で回る地球上のほとんどの世界では、社会は全て「成長」する前提で回っている。

実際僕も盲目的にそれに準じて生きてきた。会社勤めの頃は実績を積み重ね昨年対比なる「昨対越え」、つまり「業績の成長」を繰り返した。そしてリッチな経営者に憧れた。働き盛りも中盤になると「よし!リッチになろう!」と独立を果たした。両親から引き継いだお店の年商を2倍にするのは簡単なことだった。更なる成長の為に法人化し、社員を雇った。店舗も姉妹店を出し、いよいよ年商が1億になるところまで辿り着いた。役員報酬は自分で決められる立場になった。

でも予想に反して暮らしは日毎に忙しく、家族との時間もやせ細っていった。自分がプレイヤーを卒業できるのはもう少し先だった。(だと思っていた)

それには事業をもう一段階成長させる必要があった。事業拡大には資金も必要だった。金融も我が社の実績を見て融資をしてくれた。

そしてまた全力で走った。気づけばこの「成長」というゴールのないマラソンから抜け出せなくなっていた。家族と社員の生活を守るためには、或いは少しずつでも豊かにして行く為には「絶え間ない成長」は大前提の必須事項だったからだ。それは「成長という幻想のサイクル」に支配されていることを意味した。

止まれば、膨れ上がった借金が残る事になるので止まれない。家族も従業員の生活もある。そう、止まれないんだ。

ただ、それはある日突然やってきた。謎のウィルスパンデミックで客足が消えたようになくなった。

固定費だけがざるに注ぐ水のように流れ、消えた。それまで汗水垂らしてプールしてあった内部留保も一瞬で消えた。

成長が止まることの恐ろしさをこの時初めて知った。そして、未来永劫成長を続けられると信じきっていた「幻想」に気がついた。

入院中にマルクスの資本論を読んだ。近年開発途上国が新興国になり、搾取する場所がごく僅かに限られた世界の成長は鈍化している。そんな状況になって注目され直されているマルクスの思想は僕にとっては新鮮だった。なんと産業革命直後の資本主義が成功をブイブイと言わせている時期に、彼はすでにこの21世紀の資本主義の未来を見ていたに違いない。環境破壊、異常気象、天災、格差・・・それは資本主義を標榜した大人が成長と引き換えに未来に先送りしてきた代償だ。「大洪水よ、100年後(俺が死んでから)に来ておくれ!」というやつだ。その代償は僕ら、いや、僕らの子供世代が払う事になる。

SDGsという言葉が出来て、近年持続可能な人類の幸せを追求するというなんとも聞こえのいいキャンペーンが流行っている。

ただ、グレタ氏のいう通り、そんな絵空事ではもう遅いようだが、大人たちは一向に今の富を維持成長させようとしている。

結論、人間は綺麗事は言うが「愚か」だ。

そんなことを体験し、考えるにつれ、「成長=豊かさ」ではないな。と気づいた。

そして、全てをお金で買う生活をしていれば、何かが起きれば、全て連動して生活が大きく影響されることになる。それは天災かもしれないし、金融危機かもしれないし、食糧危機かもしれないし、ウィルスパンデミックかもしれない。先の僕の様に・・・。

だから、これらに極力影響されない、影響されたとしてもごく僅かに済むような生き方を求めたい。物的な成長をしなくても、お金が沢山なくても、心が穏やかに豊かで健康な暮らしを求めたい。

だからまずはもう成長を目指して闘うのをやめたい。資本主義からも軸足を抜きたい。そう考えている。

【軸足を「畑」に、生産手段をもつ生活】

誰だっけ?こんな格言を残した人がいた。

「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言だ」

僕もそう思う。なので具体的にどうすればお金に左右されない暮らしができるのかを真剣に考えた。

ひとつわかっているのは「自ら生産手段を持つ事」は必須だと言う事。

マルクスは資本主義論の中で、効率を求めた分業制で労働者は次第に自らの生産手段を奪われ、お金で全てを買わなければならない状態を「労働者の弱い立場」として表現していた。ならばその生産手段を持つと言うことはかえって「強み」になるんじゃなかろうか。

植物は土と水と光さえあれば育ってくれる。僕らはそれがたっぷりある国に住んでいる。

【きゅうりの様に生きてゆく】

2022年11月

退院して8ヶ月経つだろうか。

生産手段を持つことを目標として僕の新しい人生が始まった。手始めに自宅の周りにある家庭菜園を本気で取り組んだ。本を見て、動画を見て、農家の師匠から教えを受け、食べたい物と必要な野菜たちを育てた。何しろ1年生なので上手くいくこともいかないこともある。

最初の決まりとしてあくまで「家庭菜園の範囲内で自分達の食べる量」を基準にした。園芸というのは自家消費するなら形も時期もこだわらなくて良い。包装もいらない、食べられれば良いのだ。ただ、これを生業にすると「農業」になる。農業は出荷が前提の営みだ。この「出荷」と言うハードルを目指すと、時期や出来高やサイズを優先しなければならない。そして効率を目指せば農薬・化学肥料とは縁が切れないし、「出荷=商品として出す」と言う事は洗浄や選別、梱包(包装)という作業が追加される。わりには単価が安すぎる。(だから農家さんは大規模に展開しなければならない)

だから畑はあくまで生産手段をもつ事。すなわち我が家の自給率を上げる事が目的だ。野菜はもうほとんどお金で買うことがない状態を目指すことになる。そうなれば大根1本の値段を気にしなくて良いし、玉ねぎが高すぎて食べられないという悩みはなくなる。そして、だいいち「ゴミが減る」。

退院して家を拠点に生活するようになってから気づいたことがある。家庭ゴミの多さだ。そしてそのほとんどがビニールゴミである。スーパーで買い物をするとほぼもれなくビニールゴミが付いてくる。根菜以外は野菜もほぼ鮮度維持のためにビニール包装してある。野菜はまだいい方だ、肉も魚もちくわも納豆も小麦も全てビニールゴミとプラゴミで覆われている。納豆なんかは食べる部分よりゴミの部分の方が多い。逆に考えればスーパーで買い物しなければ家庭ゴミの大半はなくなる。

そんなこんなで、やっと本題に入りたいと思う。

今年、畑で野菜として非常に優秀だと感じた野菜があった。「きゅうり」だ。

きゅうりは種をまき、ポットで育苗した後、定植したら後は支柱かネットを張っておけば、自分でツルを伸ばし上へ上へとすくすく育つ。誘引も固定も人口受粉も必要ない。放っておけば、夏シーズンは毎日収穫できる。最盛期には取れ過ぎるので、おやつがきゅうりになるほどだ。そして旨い。すなわち「手がかからないのにとっても美味しく沢山収穫できる」という本当に優秀な野菜なのだ。だからシーズンにはやたらに知り合いやご近所からきゅうりのお裾分けを頂戴する。

これがトマトだと剪定や誘引固定しなけれひどい姿に木が育つ。そして味も形もバラバラになる。これがカボチャだと上には伸びずに地を這ってやたらと勢力圏を広げていく、放っておけば他の野菜のテリトリーにまで広がって他の野菜の成長の邪魔をする。ズッキーニは放っておいても育つが人工授粉してあげないと上手く実がならない。 

できれば自分も子供もきゅうりの様に育ってほしい。

人生の指針(支柱)があれば自分で考えて方向を決めてそこへ目がけて上へ上へ伸びてゆく。そして沢山の実り(人生の豊かさ)をつけて沢山の人にお裾分けできたら素敵だなと思う。

「きゅうりの様に生きてゆくぞ!」

そんなわけで家庭菜園一年生の僕の成果報告を終わります。来年も頑張ります。

最盛期のきゅうりの写真がなかったので、ワンシーズンを終えたきゅうりの写真。本当に多くの実りをありがとう。

【時間とは生きているということ】

ミヒャエル・エンデの「モモ」という物語をご存知ですか?

物語は人々から時間を奪って、その時間を葉巻にして吸うことで生きている時間泥棒の「灰色の人間」と、小さな少女「モモ」とその仲間たちの戦いとしてファンタジーを描いています。この名作はファンタジーなのに、読んでいると何故かその時間泥棒に時間を奪われてゆく今現在の自分を想起させるという不思議な物語です。

「灰色の人間」たちは大人に「時間の倹約」について説きます。説き伏せられた大人たちは、時間の倹約に走り、全てを効率で判断するようになります。それは悪魔の様なテンポで全てが組織だって行きます。そしてそれは周りに伝染します。しかし、人間が時間を倹約すれば倹約するほど効率に走り、余裕がなくなり、忙しくなって行きます。倹約して余っているはずの時間はどこにもありません。そうやっていつの間にか大人たちの生活はやせ細ってゆくのです。

これを見て、皆さんはどう感じますか?

「時短」という言葉ができ、「時短商品」というものがありふれているこの世の中で、それを使ってゆとりが得られた人は得られた時間をどう使っているでしょう?きっとまた違うことに時間を使って、ますます忙しくなっていませんか?

スマートフォンという革命的で便利な商品をほとんどの人が持つのが当たり前になり、便利さと豊かさを享受している様に見えますが、それを手にして得られた時間と奪われた時間を引き算するとどうなりますか?

それらは人に気づかれずに人の生活に深く深く入って行きます。そして気づかないうちに人間は支配されます。

なんだか「灰色の人間」は現代にも蔓延っていそうです。

そもそも「時間」とはなんでしょう?

時間を測るにはカレンダーや時計がありますが、測ってみたところであまり意味がありません。というのは誰でも知っている通り、その時間にどんな事が有ったかによって、わずか1時間でも永遠の長さに感じられる事もあれば、ほんの一瞬と思える事もあるからです。

「なぜなら時間とは生きるということそのものだからです。そして人の命は心をすみかにしているからです。」(モモより)

すなわち、

時間=命=生きること

なのです。その時間を縮める事に執着する事自体、生き急いでいるという事になると思うのです。

僕も以前の「もっとたくさん!!の成長至上主義」では完全に生き急いでいました。そして実際は貧しく、冷たく、途方もなく忙しかったのです。

だから、「生きる」という事にもう一度焦点を当てて考えたいと思います。

本当の豊かさとはなんぞや?難解ですが楽しみな課題です。

大人こそ読むべき秀逸なファンタジー。なのだけれど、読むのは子供だけ・・・どうしてかって?大人は時間がないからさ!!

【エピローグ】

2022年冬

退院から約1年間、本当の豊かさを求めて考え、我が家の自給率を上げる事を目標に療養しながら一歩ずつ進んできました。

自前の生産手段については畑に加え、メス山羊を飼い始めました。山羊はいいですよ!なんてったって、雑草を食べてくれて、ミルクを出し、優良な肥料を排泄してくれるのです。こんな生産的な生き物がいるのだろうか?と驚いています。勿論ペットとしての可愛さ・癒しもあります。名前は「モモ」です。(ミヒャエル・エンデのモモにあやかりました)彼女は山羊であり「モモ」として、「今の時間を生きること」を僕に思い出させてくれます。

烏骨鶏も10羽ほどいます。鶏も雑食でなんでも食べる上、卵と鶏糞肥料を与えてくれます。しょっちゅう畑の苗木を食べられて落ち込むこともありますが、そこは持ちつ持たれつだと割り切っています。

畑の脇には蜜蜂も飼い始めました。来春には蜂さんからハチミツを分けてもらう予定です。

あとは地元の農家さんと共同で大豆や小麦もお手伝いさせて頂いてます。味噌も納豆もパンも自家製ならゴミ0です。おまけに美味しい。

お米だけは農家さんから買っています。稲作はやっぱり機械がないとやりきれないから。

あと、原木きのこもお家の横の森の木陰で栽培しています。今年原木を仕込んだので採れるのは来年から、今から楽しみです。

エネルギーは山から原木を貰ってきて薪の自給を始めました。冬は薪ストーブで暖をとりながら調理もします。夏は中庭でロケットストーブを使って、小牧を燃やしながら毎日アウトドア調理をします。

そんなこんなで、我が家の自給率は飛躍的?に上がって来ています。来年にはもう値上げやら円安やらの影響も限定的になるでしょう。また、田舎では「お裾分け&お返し文化」が根付いているので、多めに作ってお裾分けすると、「おうちに◯◯ある?と言って我が家にない食材をお返しとして頂戴できたりします。」ただ、さすがにガゾリンや灯油は物物交換できないので、現金も必要です。

でも今はお金は必要なだけでいい。と思っています。そうすると月30万50万なんて月収は不要です。まあ子供がいるので学費はまあまあかかる見込みですが・・・

でも盲目にお金に執着しなければ、時間にゆとりが生まれます。そしてスマホもやめました。結果、時間は増えも減りもしないけど、「ゆとり」は格段と増えました。時間にゆとりが生まれると、いろいろな生産活動をする事ができます。


このコロナ禍で僕は会社を破産し、店もお客様も従業員も全て失いました。

でも残っているものもあります。家族です。

日々畑を耕し、畑で採れた野菜でご飯を作ります。夕食どきになると、家族が集まります。妻と長女と長男、そして僕。愛する人のために作るお料理と、それを囲みながら笑顔を交わすご飯というものはこんなに楽しいものだったのかと改めて思います。幸せを感じます。「本当の豊かさ」ってなんだろう?って考えていましたが、それは僕にとって絶対的に「豊か」な時間です。肉がなくても魚がなくても、自家菜園の野菜は美味いです。(肉・魚を食べないわけじゃないです)これまで磨いてきた調理の技術も遺憾なく発揮できています。以前の僕の仕事の性格上、子供は小さな頃からつい最近まで父親が夜不在という環境で育ちました。たまの休みに腕を振るうぐらいしかできませんでした。でも今は、いや、これからも、僕は子供が巣立つまで毎日ご飯を作り続けます。

だって、それが僕の今の幸せだから。

今日も、明日も、明後日も、どうかみんなで美味しいご飯を笑って食べられますように!!

ではでは、ありふれた飲食店の、ありふれたコロナ禍の、よくある倒産劇もこれでおしまいです。



「さあ、また始めよう。」

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