見出し画像

【011】仏教学習note【仏教哲学の世界観1-11】

こんにちは。
このシリーズでは僕が仏教について学んだことを記しています。
なお、僕は仏教について何にも知りません。

仏教学者で花園大学の教授をなさっている佐々木閑先生のYouTubeでの講座を見て、その内容をまとめています。

もちろん僕の主観によるまとめなので色々と解釈の違いや間違った理解があるかと思います。
それはXなどでご指摘いただけると幸いです。

あくまでも大学生の受講ノートみたいなものだと考えていただけると幸いです。


前回は仏教の考える「努力」についてでした。
欲しいものを得るためには様々な努力が必要で、それが叶わなければ苦しいし、叶ったとしても次が欲しくなったり、守らなければならない恐怖におそわれます。
そこで、仏教では逆の発想を持つ事にしました。
つまり仏教の考える努力とは、欲望や願望をそもそも持たないようにする努力であること。
具体的にはそれが精神集中、つまり「瞑想」であるという解説でした。

今回はその「瞑想」について。
そもそも瞑想とはなにか。精神を集中するとはどういうことか?という講義です。


仏教哲学の世界観1-11

https://youtu.be/6IS5c4HE6kw?si=h9r8IG71LwnMkrl4

AIによる要約

  1. 瞑想の力: 人類文化を作り上げる最大の原動力

  2. 内なる瞑想: ピタゴラスの定理を追い求める子供時代の 心の葛藤

  3. 内なる瞑想の力: ピタゴラスの定理を解くための心の集中

  4. 数学者の精神力: ピタゴラスの定理を磨く瞑想体験から 生まれる力

  5. 芸術と瞑想: 創造的活動の源泉となる精神的な集中力

  6. 数学の修行者: 瞑想と隠遁生活から生まれた数学者グロタンディーク

  7. 瞑想のスキル: 仏教の目的を達成し、心を改良する力

  8. 瞑想のスキルとその使い方の重要性

学習したこと

そもそも瞑想とは何か?

瞑想とは言い換えると精神集中するということである。
そしてその瞑想は人間ならほとんどの人が行う精神的行動である。
子供が学校から帰り、テレビをみながらお菓子を食べていたとする。
そこに母親から勉強しなさいと言われ、しぶしぶ子供は勉強にとりかかる。
ピタゴラスの定理を解くという問題にとりかかったとき、それまで見ていたテレビやお菓子には目もくれなくなる。
これは子供がテレビやお菓子ではなく、ピタゴラスの定理を解くという意識の集中がある。
これが瞑想(精神集中)である。

集中していると他のことが気にならなくなる

このように、どのような人間でもなにかの行動を起こすとき・・・わかりやすい例だと芸術や数学など、なにかを生み出すあるいは発見する時には必ずその人による瞑想が行われている。
瞑想という心を一転に集中させ、外からの影響をシャットアウトした状態があらゆる創造的な活動の源泉となるのである。

瞑想を生かした例、数学者グロタンディーク

数学者グロタンディークの場合、1日10時間の瞑想と、その結果を数学の論文にするという独特なスタイルで研究している。
その結果、膨大な量の論文を発表し、数学の世界を大きく変えるほどの業績を残した。
晩年は家族とも離れ一人山の麓に隠遁生活を送り、食べるものはタンポポのスープだけ、という粗食の生活を送りながら数学を研究していた。

彼の生活スタイルはまるで修行僧のそれと同じで仏教の教えに通じているところがある。

瞑想とはあくまでも人間の持つスキルの一つ

このように、瞑想という言葉だけだとまるで宗教的な行動様式のような誤解を受けるが、実際には宗教とはなんの関係もなく、単なる人間が持つスキルの一つでしかない。

そこに良し悪しはなく、良い事でも犯罪行為でも人が深く思考し行動を移す時、そこには瞑想という行為が絡んでいる。
結局のところ、瞑想というスキルをどのように利用するかが問題であって、先の数学者グロタンディークは瞑想の矛先を数学に向けていただけ、ということになる。

お釈迦さまと瞑想

仏教の話に戻ると、お釈迦さまは悟りを開く前の修行時代、アーラーダ・カーラーマとウドラカ・ラーマプトラという先生に師事していた。
この二人は瞑想の達人であった。
彼らはお釈迦さまに「悟りの道」を教えたのではなく、
瞑想の方法、どうやったら精神を集中できるのか?ということを教えた。

お釈迦さまは結果、瞑想の名人とはなったがこの二人の師からは心の安楽の方法は教わらなかった。
つまり、彼らは瞑想の達人ではあっても、お釈迦さまの考えている本当の心の安楽を求めるという道に瞑想を使っていなかったのだった。
瞑想というスキルは学べたが、そのスキルを何に使うのか。
目的についてはお釈迦さまの求める答えにはなっていなかったので、お釈迦さまはこの二人の元を離れ、独自の修行を始める事になった。

感想

瞑想というとなんとなく宗教家が坐禅を組んでやっている印象だったが、なるほど想像力を働かせている状態でも瞑想と呼ぶのか。
今現在このnoteに書く文章を考えている僕も瞑想していると言っていいのだろうか。

でも集中というとなかなか難しい。
僕が本当に集中した事ってこれまでどんな時だっただろうか。
大学入試の試験とかだと必死になって集中していた気がする。
他だと仕事は確かに集中している。特にお客さんが隣にいる時は真剣に仕事に集中している。
食事の時はどうだろうか。
ものすごくお腹が空いてて、美味しいものを食べているときは食べてる時の記憶がないこともある。つまり美味しすぎて、空腹すぎて、食べ物の分析?などせず、無心になってあっという間に食べてしまっているわけだ。
これも集中と言っていいのだろうか。

個人的に経験のあるいわゆる「一瞥体験」は確かに過集中状態だった。
でもそれはもう自意識とは分離している感覚だったし、呼吸も止まって時間の感覚もなくなり、主観と客観がごちゃ混ぜになったような感覚だった。
想像しようと思ってもいないビジョンが現れたし、自分の脳内で起こっていることでありながら「あれはなんだったんだ」と思った。

要するに変性意識を得ることによって認知をなんとかして変えようという事なんだろうけど。


次回は「仏教哲学の世界観 1-12
再度仏教の修行である瞑想と三学についての解説です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?