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【012】仏教学習note【仏教哲学の世界観1-12】

こんにちは。
このシリーズでは僕が仏教について学んだことを記しています。
なお、僕は仏教について何にも知りません。

仏教学者で花園大学の教授をなさっている佐々木閑先生のYouTubeでの講座を見て、その内容をまとめています。

もちろん僕の主観によるまとめなので色々と解釈の違いや間違った理解があるかと思います。
それはXなどでご指摘いただけると幸いです。

あくまでも大学生の受講ノートみたいなものだと考えていただけると幸いです。


前回は瞑想とはなにか。という解説でした。
瞑想とは精神集中のことであり、宗教的な儀式でもなんでもなく、どんな人にでも備わっているスキルでしかありません。
瞑想=精神集中によって人間は問題の解決や発見をしてきました。
お釈迦さまは仏教の修行の基本スキルとしてこの瞑想に注目しました。

今回は再度仏教における瞑想と、三学(戒・定・慧)について解説されています。


仏教哲学の世界観1-12

https://youtu.be/CFE5VWBPn1E?si=GAvaUCIuVv9fWp5O

AIによる要約

  1. 瞑想と精神活動の重要性についての考察

  2. 仏教の修行と頑張りの本質的な要素

  3. 仏教の修行と瞑想:内なる平静を求める旅

  4. 仏教の修行:自我を縮小し心を定常状態に導く

  5. 仏教の修行目標:知恵の獲得と心の明晰化

  6. 仏教修行の3本柱:瞑想、知恵、覚悟

  7. 三学の要素:瞑想、知恵、習慣性

  8. 戒と仏教修行:自然な良い行動の源

学習したこと

努力の本質

「がんばる」は苦行という言葉の元々の意味である。
この「がんばる」というものは外部からの負荷に対抗し、自我を押し通すという事である。
実現できていないことをなんとかして実現しようというこの自我は非常に強い力であり、「頑張ろうと思う」心の本質である。

それに対して、仏教の修行とは「欲しいものを手にいれる」努力ではなく、自分自身の心を変えて欲望そのものを消し去るというもの。
したがって、その修行とはこの自我を排除することであり、努力の対象は外部ではなく自分自身の内側に向く事になる。

自分自身の内側に対する努力の方法

自己の内心を変える努力。
このために仏教は瞑想を取り入れる。
効率よく、正しく瞑想を行うためには外部からの様々な刺激、心を揺れ動かすあらゆる事態から自分自身を切り離し、定常状態に置く必要がある。

定常状態とは例えると水面になんの揺らぎもない状態。静寂な状態を意味する。

しかし、人間は意識してもしなくても常に外部の刺激や情報に晒されている。
その度に人間は大小さまざまに影響を受け、心は波打ってしまう。
この波打っている状態は瞑想状態を大きく阻害する。

このような撹乱されている状態から自分自身を切り離し、定常な状態で瞑想する。これによって意識は集中し、大きな力を発揮する。

ここに仏教が必要とする努力がある。

一般的な努力、つまり外部に対抗して自我を押し通す努力。
仏教ではこれとは全く真逆に自我の弱体化を目指す。

瞑想自体はゴールではない

瞑想は、それさえすればそのまま悟りを開いたりするものではない。
あくまでも精神集中のスキルであって、単なる必要条件でしかない。
では何があれば十分となるか。
これは

瞑想による智慧の獲得

である。これが仏教の最終目標である。

智慧を獲得するとどうなるか?
この世の中の本当のあり方、自分自身の本当のあり方が見えるようになる。

ほとんどの人は正しく世の中を見ているようで実は見れていない。
正しく見れないことから様々な心の悪き要因がはたらき、欲望の充足の方向に誘導されてしまう。
このように正しい物の見方を阻害する要因をまとめて「煩悩」と呼ぶ。

精神集中こと瞑想と、それによる智慧の獲得を求める仏教だが、ここにもう一つ重要な要素がある。
これが「戒」である。

仏教の重要な三要素、「三学」(戒・定・慧)

仏教における重要な要素は
戒・定・慧(かい・じょう・え)
の三つがあり、これを「三学」と呼ぶ。
定はこれまで説明してきた「瞑想」
慧は最終的に獲得を目指す「智慧」
そして「戒」とは習慣性のことを指す。

習慣性、つまり無意識に判断し自然に行動できる状態を「戒」と呼ぶ。
たとえば道路を横断する時、信号が赤の時には特に何も考えずに反射的に立ち止まる。
このようにいちいち行動について意識する必要のない状態が戒である。
これは良し悪しの話ではなく人間の無意識におこせる行動であって、例えば虚言癖だったり万引き癖など悪い行動においても戒が存在している。

もちろん仏教では悪い戒、つまり悪戒を推奨しているわけではなく良い戒を推奨している。
その上で仏教で求める戒は
いちいち自分が良い事をしなくてはいけないと考えたり、善悪の判断をいちいち判定することなく、自然に自分自身が良い行動を取ってしまう習慣を身につけよという意味となる。

戒の重要性

ではなぜ戒が重要となるのか?

これは
戒が守れている人間は定が容易くできるようになるからである。

なぜ戒を守ることが定を簡単にすることになるのか。
それは外界の様々な事に対する判断を下さなくとも、戒の力によって無意識に行動にすることができることから、定(瞑想)のために使うべき精神的なリソースを消費する必要がなくなるからである。
このように、戒を守るのは決して人格者であったり良い人間になるためではない。
結果としてそのようにはなるものの、それが目的ではない。
あくまでも安定した瞑想と、その結果としての智慧を獲得するためである。

感想

なるほどなるほど

  1. 過度に欲望を持つから人間は心が安らかにならない

  2. ならばそもそもの欲望を断つ方法を考えよう

  3. 欲望に振り回されない正しいものの見方を知る必要がある

  4. そのためには邪魔されない瞑想が必要だ

  5. その瞑想をするためにはいちいち雑事に意識が振り回されないように無意識でも行動できるように習慣づけをしよう

という論法なのだろう。
案外遠回りだな、と思いつつも色々と効率を求めていった結果このような考え方になったのだと思う。
となるとなかなか習慣性たる「戒」を定着させるのは難しいし、結構覚悟が要ると思う。
現代風に言えば美しい体を手に入れるために毎日ランニングしたりサボらずジムに通ったりする感じだろうか。
僕の場合で言えば糖尿病の数値(血糖値とかHbA1cの値)を安定させるために糖質制限をしたり、歯肉炎とかむし歯予防に気を遣う(口のケアは糖尿病に関わる)生活を習慣にするぐらいのノリだろうか。

ようするにルーティン化することによって本来やるべきことのリソースを確保するのだろう。

となると、お金持ちのボンボンみたいな身分の人だったら雑事を避けられるし瞑想に集中できて有利だよな───
と思った。
我ながらヒクツである。

ところで「戒」というのは現在の仏教徒にできている事なのだろうか?
なんとなくだけどお寺に住んでいるお坊さんの毎日朝からやってそうな(何をやっているのかは知らないが)お掃除的な雑事は「戒」に入っているのだろうか。
「戒」というと「戒律」の戒だと思うのだけど、そのイメージからすると宗教的なルールの事だと思うのだけど。
例えばイスラム教の「豚は食べてはいけない」の戒律とか。

戒が習慣性という意味では確かに戒律という文字面のイメージとは合うのだけど、今回の解説であったスムーズで正しい「瞑想のための習慣性」というと、どうも違うような印象を受ける。


次回は「仏教哲学の世界観 1-13
戒と仏教が想定する社会の二重構造について。


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