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【010】仏教学習note【仏教哲学の世界観1-10】

こんにちは。
このシリーズでは僕が仏教について学んだことを記しています。
なお、僕は仏教について何にも知りません。

仏教学者で花園大学の教授をなさっている佐々木閑先生のYouTubeでの講座を見て、その内容をまとめています。

もちろん僕の主観によるまとめなので色々と解釈の違いや間違った理解があるかと思います。
それはXなどでご指摘いただけると幸いです。

あくまでも大学生の受講ノートみたいなものだと考えていただけると幸いです。


前回は幸福や安楽を求める方向性についての解説でした。
仏教以前のバラモン教世界においてはバラモン階級を頂点として梵(ブラフマン=神)からの恩恵を受ける努力が必要でした。
しかし沙門たち、そしてお釈迦さまはそこに頼らない方法を模索しはじめます。
結果、幸福を求める努力と、幸福を求めようとする心を捨てる努力の二つの方向性が現れ、お釈迦さまの作った仏教では後者の道を選びました。

それはあらゆる人を救うという意図ではなく、この世の中において幸福になれず、生きづらく、そして絶望を持った人たちに寄り添う道でした。

今回はその仏教が新たに示した「努力の方法」、瞑想という精神集中について。


仏教哲学の世界観1-10

https://youtu.be/s3ndlgl6fmY?si=hYWUuGT-8GuoEd2y

AIによる要約

  1. 仏教の基本的な目的と修行の本質

  2. 仏教と幸福の違い:山上宝箱からの脱却

  3. 幸福の真髄:山上宝箱よりも大切な心の変革

  4. 仏教の修行:自己変革のための唯一の道

  5. 瞑想の本質:欲望と本能に向き合い心の安寧を追求

  6. 座禅と精神集中:1分の体験が示す深い意味

  7. 精神集中:言葉なしに知られる行為

  8. 瞑想と精神集中:日常の普遍的行為

学習したこと

仏教における努力とはなにか?

一般的に、人間の努力とは「今よりも良い状態」を目指す。
スポーツであればトレーニングを頑張るし、学業でも勉強を頑張る。
仕事でも良い成績、良い給料を得るために頑張って手にいれる。

例えば、山の頂上に宝箱があるとしたら、宝箱を得るために山を登る色々な方法の努力がある。
山登りのために鍛えたり、回り道を探したり、あるいは飛行機を発明し、空を飛んで頂上に到着するなど。

これらはすべて山の上の宝箱を得るための「努力」である。

しかし、仏教における「努力」はこのようなものではない。
なぜならば、仏教の目標自体が山の上の宝箱を手にいれることではないから。たとえ山の上の宝箱を手に入れても、心の安楽にはつながらないと主張する。

本当に頑張って山を登り、宝箱を手に入れたら最高の幸せを手に入れたことになるだろうか?
最高の安楽を得たと言えるだろうか?
それは違うだろう。
宝箱を手に入れて喜んだとしても、次の瞬間にはもっと良い宝を手にれたいと欲したり、あるいはその宝を失いたくない、と思うようになり、今度は必死に守らなければならなくなる。

これでは心の安楽だと言えないだろう。

このようなことから、お釈迦さまは真の努力は別にあると考えた。

仏教が求める努力の姿

では仏教の求める「努力」とはなにか?
これは自分の心を変えるという道しかない。
頑張って宝箱を得ようとする努力は実らないし、例えそれを獲得してもすぐに次を求めたり、得たものを守らなければならなくなる。
なので、そもそもの「宝箱を得ようとする思い」を無くすしかない。
それが自分の心を変える努力である。

したがって、仏教の修行とは自分で自分の心の中を変えようとしている、という一つの道に集約している。

仏教は苦行を否定する宗教だと言われるが、その否定している苦行とは暑さや寒さ、飢えなど肉体的な苦しみを伴う修行をしないという意味だけでなく「頑張る」「我慢する」なども含まれている。
これらをまとめて苦行と呼び、仏教は苦行とは違う形の努力をすることが修行である。

歯を食いしばっているような表情の仏像が無いのはこのような背景があるためであり、何かに耐えたり我慢しているわけではない。
どの仏像も穏やかな表情となっているが、これが仏教における修行している姿そのものである。自分の心の内側に向けた修行であるからこそ穏やかな表情となっている。

仏教の考える努力と精神集中

人間に限らず生き物はすべて本来持っている欲望を充足したいという願望、つまり本能がある。
全てでは無いにせよ、仏教はそれらのうち、過度な部分や不幸につながる部分をを削ぎ落とせと言う。

その手段が「精神の集中」つまり瞑想である。

精神集中というと誰もが教わらなくてもその意味がわかる。
これは人間、ホモサピエンスだけが意図的に行える特有の精神作用である。
瞑想というと一種の宗教的行為かのように思われるが、実は人間が日常生活においても無意識のうちに行う人間的行為である。

これをお釈迦さまは仏教における基本的スキルと捉えた。

感想

どこまで欲求を放棄するのか?

叶うか叶わないかに関わらず、人間の希望や願望を得るためには努力が必要で、その努力が人を苦しませるし、たとえ希望が叶ってもさらに良いものを求めたり、獲得したものを守らなければならないという恐怖と戦わなければならない。
ならばそもそも欲しがらなければ良いのでは無いか?
前回からこの命題の繰り返しになっているが、仏教の基本概念は多分そういうことなのだろう。

でもそこに定義を持ってきたとして、どこまで現実的な話になるだろうか?

人間は生きている以上、腹も減るし眠くもなる。それは紛れもなく人間の逃れられない願望だ。

どこからどこまでが「苦行」なのか?

オカルト的な話だと何十日も不眠不休だとか水中で呼吸しないで過ごすとか、何日も断食するだとかの世界びっくり大賞みたいな人間の話を聞く。僕の元嫁が出家した先のヨガのグルもそういう人らしい。
仏教ってそういうこともするのだろうか?

でもそれって今回の講義で否定した「苦行」そのものだと思う。
千日回峰行?とか火渡りとか坐禅組んで肩を木刀で叩かれるとか、わざわざ滝に打たれるとか、仏教の修行のイメージって僕の知識としてはそういう苦行なんだけれど。仏教って本当に苦行を否定しているのだろうか?

AIによるイメージ。こういうのやってるよね?これ苦行ちゃうの?

欲望を滅却するなんてのはお題目としては究極の方法なのだろうけど、その匙加減はどうなるんだろうか?
そんなの解釈次第でいくらでもダブルスタンダードになっちゃうと思うのだけど。

一方でダブルスタンダードを認めない場合、自分が自分で編み出した方法で好きにやってれば良いのだけど、欲望に個人差がある以上、同じ方法が誰にでも通用するとは思えない。
主張していることは理解できるが、実行するにはかなり無理がある。

なんにしても仏教というものが、社会において生きづらさを感じ絶望した人を受け入れる集団という意味では正しいと思う。
もう何もかも諦めて手放して、肩の力を抜いて生きる方法としてはそれしかないという結論も理解できる。

では現代のお坊さんってそうなのか?
仏教徒を名乗る人々は世界に絶望して生きにくさを感じて、なにもかも手放しているのか?

そんなふうには僕には見えないのだけど。


次回は「仏教哲学の世界観 1-11」
お釈迦さまが仏教の基本スキルとして選んだ瞑想とはなにか?
瞑想を行うとき、人間になにが起こるのか?


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