不快な感情も含めて、自分自身なんだろう
こんにちは!
ケミオです。
昨日書いた、親に対する「面倒くせぇ」という心。
ここ最近、私が向き合うことから逃げていては、実は心の突っかかりとなっていたこの本心を。
今日はなすがままに、のさばらせています。
するとどうでしょう。
不思議なことに、心の突っかかりはなくなっている気がします。
もちろん、「面倒くせぇ」という気持ち自体は、不快です。
ただ、その対象は親というより、親も自分の心も含めた、今自分が置かれている状況に対してという感じ。
アダルトチルドレンに関する問題について、親に何か変わったりを期待できないことは、もうはっきりしています。
それを前提とした上で、「なんで俺がそんな問題に巻き込まれているの?」みたいな。
子どもの頃から。
しかしながら、この不快な感情も含めて、自分自身なんだろうとも思いました。
親をヨシヨシとか、ヨイショするような真似は、もうやりたくないわけです。
求められるのも嫌なわけです。
「そんなに嫌がらなくてもいいじゃないか」と言う人も、いるかもしれません。
また、一丁前の人がたまにそんなことを求めるのは、むしろかわいいことかもしれません。
でも私は子どもの頃、24時間365日そんなことをしていたも同じでした。
そんなことは本来、さすがにやっていられるはずのないことなのに。
頑張ってやろうとしたゆえに、それをするための心のモードが残ったままになってしまっているのが私であります。
と、流れで書いてしまったとはいえ。
理屈や理由は、もうどうでもいいことだと思っています。
私が認めて向き合うべきは、「面倒くせぇ」という気持ちそのものだけ。
それをしていると、というか、しているつもりもなく。
冒頭に書いた通り、気持ちをのさばらせているだけなのですが。
不思議なことに、親と考え方も住む精神世界も、全く異なる自分というのが、イメージとして浮かぶようになってきました。
しかしそれは本来、当たり前のことだと思うんです。
それを全く理解できていないのが明らかな親の方が、不思議というか理解できない。
難しく書けば、ここのところに共依存の闇が潜んでいることになりましょう。
それを今回は掘り下げませんが、とにかく私はこのことに関連しては。
親に目を向けても、理解しようとしてもいけない。
問題は、「面倒くせぇ」という自分の心のみだと理解しています。
最初から最後まで結論は同じで、そんなに長々と書くことでもなかったかもしれませんが、読んで頂いてありがとうございます!
今日も残り、良い一日をお過ごしください!