[ショートショート:秋の風]
業務が一区切りついたので、少し休憩しようと席を立とうとしたら、隣の席の橋本さんがタバコですか?と訊いてきた。
「違いますよ。僕タバコ吸ったことすらないです」
「そうなんですか。屋上上がる人ってタバコ吸いに行っているんだと思ってた」
「たしかにみんなタバコを吸いに上がってるけど僕はただ気分転換に行くだけですよ」
「そうだったんですね。パソコンずっと見てると疲れちゃいますからね」
ごゆっくりと少し微笑んで橋本さんはパソコンに向き直った。
入社1年目である僕が勤めている編集会社には屋上があって、そこには自由に出入りできる。昨今は安全を考慮して屋上の立ち入りを基本的に禁止にしている会社も多くあると聞いたことがあるが、この会社では特になんの決まりもなく出入りできる。
ドアノブを回して屋上に出た。
誰もいない。
大きく伸びをしながら空を見上げると晴れ渡った青空が広がっていた。会社のすぐ近くには小学校があり、放課時間になると児童たちは元気いっぱいに運動場を走り回っている。このときもちょうど放課時間のようで、楽しそうにボール遊びや追いかけっこをしている児童たちがいる。
僕は日の当たる一角に腰を下ろした。青空をぼんやり眺めていると秋風がすうっと吹き抜けていった。暖かさの中に涼しさが溶け込んだような季節の変わり目を教えてくれるこの風。
(あれからもう一年が経つのか)
僕は秋風を感じながら目を閉じて去年の秋のことを思い返す。
『私ここ行きたい!』
君はとても好奇心の旺盛な人だった。
『それとこれを食べてみたい、韓国ではあまりないからさ、日本に来たら食べようって決めていたんだ。え、まって。これめっちゃおいしそうじゃない?』
目をきらっきらに輝かせながら僕にスマホの画面を見せる。
『あ、今この人子供っぽいなって思ったでしょ?絶対そうだ。そういう表情してたもん。たしかに私は一つ年下だけど、ほとんど同じだからね?というか私に言わせてもらえば、あなたのほうがよっぽどか子供っぽいからね?』
君は拗ねてみせるが、すぐに楽しそうな顔をして次の遊びの予定を立て始めた。
韓国からの留学生である君は、持ち前の愛嬌と明るさでたくさんの友達ができ、日本語も瞬く間に上達していった。そんな人気者の君だけれど、何かあるといつも真っ先に僕に声をかけてくれた。僕はそれがとてもうれしかった。
それが去年の秋だった。君と僕はいろんなところにでかけ、学校内外合わせて本当にたくさんの楽しい時間を共有した。よく笑ってよく食べて、感情がそのまま顔と声に出るような純粋な君を、僕は子供っぽいねとからかうと君が拗ねたそぶりをする。時々それがあまりに繊細に見えるから僕が慌てて謝ると、罠にかかったなと言わんばかりにニヤリと笑う君。些細なことが笑いの種になって、一緒にいると時間はあっという間に過ぎていった。
(最強の二人だったはずなのに)
君が留学期間を終えて離れ離れになってから、僕たちはだんだんとすれ違っていった。それは別に、僕が学生から社会人になって忙しくなったからとか、君が韓国の日常に戻ったからとかではなく、まぁでもお互い日常が大きく変わったというのも事実ではあるが、たぶん僕たちは遠距離恋愛と相性が悪かっただけなのかもしれない。互いの気遣いや長所だった部分が逆効果をもたらし始めた。
『もう私たち、この関係は終わりにしよ』
切り出したのは君の方からだった。
『これ以上続けるとあなたのことがすごく楽しかった思い出ごと嫌いになっちゃいそうで怖いの』
それは僕も同感だった。ただ切り出す勇気がなかった。最後の最後まで、僕は君に頼ってばかりだった。
キーン コーン カーン コーン
小学校のチャイムの音で思考が現在に戻る。
授業開始を知らせるものだったのか、運動場にはもう児童は一人も見当たらなかった。