古今東西、「正しい」ことが正解とはいえない
先日、同僚からこんな話しを聞きました。すでに経営から引退された方と食事に行ったとき、なにか大事なパンフレットを挟みながら話しをしていたところ、同僚の不注意でそのパンフレットにウィスキーがかかったそうなのです。しかし、その方は慌てることもなく、お店の方にパンフレットを乾かして頂くことをお願いしながら、「いや、ウィスキーがかかったパンフレットというのもいいですね」と笑われていたというのです。
明らかに同僚を気遣ったお振舞い、お言葉で、この話を聞いた私は、なんて相手の気持ちを考えられる人なのだろうと感じました。
そしてその時、ふと戦国時代の豊臣秀吉の側近、石田三成のことを思い出したのです。
石田三成には次のようなエピソードがあります。
ある年の10月、中国の大大名である毛利輝元から秀吉に献上したいと大きな桃が三成のもとに届けられました。旧暦10月は初冬であり、季節外れな桃が喜ばれると思って毛利家は献上したのです。
しかし、三成はその桃を毛利家に返してしまいました。その理由は「(季節外れのものだと)万一病気になられることがあるかもしれませぬ。なるべく季節のものを献上されるのが良い。」とのことだったのです。
みなさんはこのエピソードをどのように感じられるでしょうか。
このエピソードは、三成が秀吉のことを誰よりも思っていた忠臣であったかを伝えるものとして有名なものです。しかし、私はちょっと違う見方をしています。
秀吉のことを思うと同時に、毛利家の気持ちを考えるならば、桃を受け取って毛利家に感謝しつつ、こっそり処分するか、一応秀吉には受け取ったことを伝えつつ、危ないということで食べなければよかっただけなのです。
それを、「万一病気になられることがあるかもしれませんぬ。」なんて桃を返しては、毛利家の面目は丸つぶれです。まあ、毛利輝元はお育ちがよいので抗議などはしなかったのでしょうが、加藤清正や福島正則のような武功派大名だと怒り狂ったことでしょう。実際、このような三成の振る舞いの積み重ねが、関ケ原の戦いで武功派大名が三成に味方しなかった一因だと考えられます。
戻って冒頭のエピソードです。不注意で大事なパンフレットを汚されたのですから、多少不快になられても不思議ではなかったと思います。しかし、そんな素振りは一切見せず、相手の気持ちを思った振舞いや言葉を伝えられたのです。
三成も、万一病気になってはいけないという「正しさ」だけではなくて、桃を送った毛利家の気持ちなどを配慮した振る舞いができるような人物だったなら、関ケ原の戦いなどでもっと人が集まり、歴史は変わっていたのかもしれないのです。
このようなことを考えると、「正しさ」が正解とはいえない、「正しさ」とともに相手の気持ちを思い、配慮することの大事さは古今東西変わらないのでは、と感じるのです。
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