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権威の象徴再建よりも、現場を大切にしたリーダー

6月11日(火)に『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)を出版いたしますが、出版までに本書で取り上げている歴史上の人物について、なぜ取り上げたのかを簡単にご紹介しています。
 
第9回目は、保科正之(ほしなまさゆき、1611年~1672年)です。江戸幕府第2代将軍、徳川秀忠の子として生まれながら、諸事情により信州(長野県)の保科家に養子に出されました。成長してからは異母兄である第3代将軍、徳川家光を支え、第4代将軍の徳川家綱の時代まで幕府を支えるとともに、会津藩(福島県)の初代藩主として領民を大事にした政治を進めました。その業績から、一般的には知名度が高くないものの、江戸時代屈指の名君として評価されています。
 
私が本書で保科正之を取り上げた理由は、保科正之を通して、現代で言うところの本社・管理部門よりも現場こそ優先すべきであり、本社・管理部門はあくまで現場をサポートする存在であることを伝えたかったからです。
 
保科正之が幕府政治をリードしていた時、日本史上(世界史上とも)に残る大火事、「明暦の大火」が発生しました。この大火では10万人以上の死者が発生するとともに、江戸の町の大半が焦土と化したのです。そのようななかで、徳川幕府の権威の象徴である江戸城天守閣も焼け落ちています。
 
大火事後の再建のなかで、当然のように天守閣の再建が浮上してきます。それに対して、保科正之は天守閣再建は不要とし、最終的に天守閣は再建されませんでした(現在の皇居外苑には天守閣の石垣のみがあります)。保科正之が再建不要とした理由として、戦がなくなり天守閣が不要となったことに加え、「天守閣再建のために費やす資金や労働力があるならば、江戸全体の再建に使ったほうがよい」ということがあったのです。
 
そして実際、保科正之は天守閣再建を中止する一方で、江戸の町屋再建に莫大な投資を行ったのです。このような保科正之の姿勢には、彼の会津藩での政治も併せて考えると、実際に生産を担う現場(農民や商工業者)こそ大事であり、武士などの支配者は現場を支える役割であるという信念を感じます。
 
現代に生きる私たちも、会社などの組織において、本社・管理部門と、生産や販売を担う現場に分かれるものです。特に大企業などでは顕著にみられますが、本社・管理部門と現場の環境や待遇の格差が大きくなることがあります。
 
しかし、実際に生産や販売を通じて会社に収益をもたらすのは現場なのです。この現場が元気になり、モチベーションがあがらなければ、会社はよくなることはないのです。また、本社・管理部門はその現場をサポートし、より生産性を高めることミッションなのであり、現場よりも環境や待遇がよいことに甘んじてはならず、その分だけ現場の満足度をあげていかないといけないのです。
 
そんなことを伝えたくて、本書では保科正之を取り上げてみました。
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保科正之

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