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『女性差別的な文化を脱するために』、いわゆる”オープンレター騒動”について、これからの人文・社会学に私が望むこと

(トップ画像はウィキペディアより「応仁の乱絵巻」)

日本中世史研究者で「応仁の乱」というベストセラーもある呉座勇一氏が、鍵をかけたツイッターアカウントにおいて、イギリス文学研究者の北村紗衣氏を誹謗中傷していた、という問題に端を発する騒動が、2021年2月に発生してから一年たってもまだ紛糾し続けているようです。

その問題の解決のあるべき方向性について、私は発生直後ごろに以下の記事を書いて、当時かなりバズって広く読まれたということがありました。

この記事↑は今読んでも、大枠としては今でも「結局こういう方向で解決するしかないのでは」と思うのですが、ただ一年もたって色々と考えが深まったこともあり、もう少しシンプルにこの問題の本質部分を解きほぐす提言ができればと思って書きます。

(体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●まずはざっくりとした経緯をまとめる

この話題は関係者にとっては自明すぎるほどのものであるが知らない人は全然知らない話なので、ちょっと迂遠に感じられるかもしれませんがざっくりと経緯を整理すると、以下のABCのような事があったんですね。

A・呉座勇一氏のツイッター鍵アカウントでの発言がスクリーンショットで拡散され、批判が高まった結果として呉座氏は謝罪をし、大河ドラマの考証からも降板するなどした。

B・その後、呉座氏への批判者側が連名で発表した以下の文書

オープンレター 女性差別的な文化を脱するために

…などを中心とするムーブメントが色々とあって、呉座勇一氏はテニュア(終身在職権)付き准教授職の内定を取り消される事になり、それはさすがにやりすぎだ・・・という反発から呉座氏擁護派の勢いも増し、その後一年に渡る泥仕合に発展している。

C・具体的には、呉座氏擁護派が北村氏に執拗に誹謗中傷をするような動きがある一方で、「オープンレター側」においては賛同者の署名に偽装が見つかったり、北村氏も呉座氏も色々な法的措置を講じる事になってさらに対立を深めている。

2●『現実的な落とし所』は?

この記事で書きたい「本質的な話」に入る前に、ちょっと下世話な「現実的な落とし所」みたいな話をしたいんですが、これは最終的には、

・「暴言と女性差別はやめろ」
・「呉座氏のテニュア取り消しはやりすぎだからそれは撤回しろ」

…という決着になることを、どちらのサイドに属している人も大枠では望んでいるように思います。

呉座勇一氏のオリジナルな発言の内容についてのアーカイブがネット上から次々と消されていて、彼が「どの程度のこと」を言っていたのかが今はもうわかりづらくなってしまっているのですが、先述した一年前の私の記事を書いた時の記憶から言うと、呉座氏の言っていたことには、

・なんでそんなことを言うのかな?というような確かに女性差別的な部分

・これ自体はまっとうな批判としてある意見ではないか?という内容

が混在していたように思っています。

この「後者の部分」の批判は、茶化しあわずに呉座氏と北村氏が冷静な環境で「これからの人文社会アカデミアの使命とは」みたいなテーマで議論できる文脈があれば、案外「意見は違うが理解はできる」ぐらいの決着になるような内容ではないかと私は感じています。

私は経営コンサルタント業のかたわら色んな個人と文通を通じて人生について考えるという仕事もしていて(ご興味があればこちら)、そのクライアントの人に北村紗衣氏のファンがいて、普段の北村氏の言動や考え方について事細かに教えてもらったのですが、彼に送ってもらった参考リンクや記事を読んだ限りでは、呉座氏とはまた違った角度で学問の理想主義的なビジョンのある人だと思います。

だから「ノイズ」を廃して「それぞれの理想」の部分を冷静に議論できる環境があればいいなと思うのですが、今はその点において、お互いが「無理やり黙らされようとしている」と感じているんですね。

呉座氏サイドに立つ人間は、オープンレター側が「一面的な正しさ」を押し立てて言論封殺をしかけてきているように見えるし、北村氏側からすれば次から次と暴言を浴びせかけられるような環境の中で、集団的悪意が自分個人を圧殺しに来ているように感じているように見える。

で、人文社会アカデミアから比べれば非常に下世話な、経営コンサルタントという職業の私からすれば、こういう問題の時に常に考えるのは、お互い相手の言ってることの「本質部分」を自分が迎えに行くような議論をしないと有意義な話になるわけがないということです。

特にこの場合、「呉座氏サイドの言い分の本質部分」をちゃんとすくい上げるように持っていかないと解決しないはずなんですね。

なぜかというと、「北村氏側の正義」については今の社会で公式に疑義を挟む人間などあまりいないし(だからこそそれへの反発は陰口や暴言といった形になっている)、実際に呉座氏もその点については何度も謝罪しているわけです。

一方で、「北村氏側」に立っている人間は「呉座氏側の正義」の中身がどういうものなのか一切理解する気がない態度の人が多く、「何を言ったか知らないけど謝罪してたから悪いことをしたんだろうと思ってオープンレターに署名した」とか言う人すらいたりして、それが「呉座氏側」にいる人間を強烈に苛立たせている。

「政治的正しさ用語」の中に「権力勾配がある時にトーンポリシングしてはいけない」っていうのがありますが、この場合「どちらのサイドも弱者性がある」ってことが大事なポイントなんですよ。

だからトーンポリシングしてないで、どちらのサイドも「相手側の立場の本質部分」を迎えに行く必要がある。

自分の職がかかっている呉座氏や、現在進行系でネットで暴言を浴びせかけられている北村氏のような当事者にそんな余裕がなくても仕方ないが、冷静な第三者がその「お互いの議論の本質部分」を迎えに行くようにしないと解決できるはずがないわけです。

そしてこの「呉座氏側の背後にある正義」の部分をどう扱うか・・・という点において、私が「これからの人文・社会学」に期待したい本質的に新しい視座の問題があるんですよ。

3●「アンシャンレジーム」の扱いに多面性があってこそ人文・社会学ではないのか?

どうやってこの課題について話したらいいのか迷いますが、わかりやすいので例の私立大学医学部の男女差別問題について話したいんですけどね。

まあ男女差別はないに越したことはないので、時代の流れとしてああいう調整を撤廃していく事はいいんですよ。そして、実際にそういう差別を撤廃していくにあたっては、とにかく「黙らされないぞ」という強固な姿勢で声をあげていくことが必要だったでしょう。

一方で、「なんでそういう制度を作ったりしていたのか」という事に対する”理解”は、それを「撤廃する」からこそちゃんとしておく必要があるはずなんですが、そういう声が全然出てこないのが私は凄い不満というか、言ってみたら「邪悪」な感じがするんですよね。

そこで「日本の男が女を貶めて偉そばりたいからそういう制度なんだろう」みたいな理解って凄い浅はかな感じがしますよね。

その背後には、世界一の高齢化社会の中で日本人が求めるクオリティの医療をある程度田舎の地域まで平等かつ快適に維持するための必死のアレコレの取り組みがあるわけで、それを「ただ偉そばりたいからだろう」とか言ってたら社会の逆側から激怒する人たちが大量に出てくるのは当然なことのように私には思えます。

「アメリカじゃ別にそんな差別なしでも大丈夫なのに!」って思うかもしれないけど、結果としてアメリカは貧乏人と金持ちで受けられる医療が全然違う国になってるじゃないですか。

昔ネットで匿名の女性医師が、「女性医師も厳しい労働環境の診療科で頑張って働かないと、今後女性医師が増えたら医療崩壊してしまう。それはわかってるから頑張ろうと思ってたけど、私だって結婚したいし子供もほしい。だから申し訳ないけど私はラクな診療科に行って今の彼氏と結婚します」みたいな記事を書いていたのが凄い印象的だったんですよね。

これ、アメリカじゃあできてるのに日本じゃできないのは日本の男が性差別的だからだ…って言うだけでは解決できない問題ですよね。じゃあアメリカみたいに貧乏人はマトモな医療が受けられない国にしていいのか?みたいな話になるわけなので。

って別に大変なことをしてほしいわけじゃなくて、「大声で糾弾してSNSを席巻する声」の半分ぐらいの声でも、「その背後で必要な制度改革」について「ちゃんと考えて動かさないと駄目だね!」という方向性の議論を起こしてくれるだけでいんですよ。

たったそれだけで、全然話は変わってくる。今はただ「そういう制度がある理由」を「日本の男が差別的だから」みたいなムチャクチャな文句みたいなのを仲間内で共有して終わってるから強烈な反発が帰ってくるんですよ。

勿論こういう「どうやって解決するか考えなくては」っていうのが、それが「差別解消できない理由」として意見を封殺されることに利用されないようにすることは大事ですけど、

「古い社会の抑圧をはねのける以上、自分たちはそれ以上に社会をうまく運営できるのだ、少なくともその準備をする責任があるのだ」

…という感覚がどこかに必要ですよね。

一年前の記事を書いた時にはネットに残っていた呉座氏の発言録を見ていて、「そのあたりの問題意識」だけは私は凄い共感したし、「その点」について「呉座氏を批判する側」の人たちが一切理解しようとしない感じなのが、この課題が永久に紛糾し続ける根本原因だと感じています。

要するに、人文・社会学って、日常忙しく「下世話な仕事」をしている人よりももっと「多面的」に物事が見れる事を期待されている職業人なわけですよね?

そうやって「多面的」に見る視座を与えてくれることによって、

「差別は容認しないが、アメリカ型の格差社会に落ち込みもしない現実的な対処を行っていこう」

…というムーブメントを起動していけるはずですよね?

そのためには、「アンシャンレジーム」側に属するアレコレについて、それを変えていくべきだと感じるからこそ、

「なぜそうなっているのか?それを変えていくにあたって現実的な課題は何なのか?」

について冷静に深く多面的に分析してくれる人が必要で、それこそが今の人文・社会学に期待されていることなんじゃないの?って思うんですね。

しかしなんだか、決して全員とは言いませんが最近の(いや昔からかもですが)人文・社会学の一部では、社会から信託された学問の自由を利用して、いかに華麗に「アンシャンレジーム」を全否定して糾弾して攻撃できるかを競う快楽に酔っているような人たちがいるんじゃないか?と私は常々不満に思っています。

そんな中学生の弁論大会のように単純化した議論を振り回すことが「人文・社会学」の使命としていいのかどうか。

4●本当に「解決」したいなら必要な視点はどういうものなのか?

たとえば日本の医療には「医局」というシステムがあって、昔はそれこそ「白い巨塔」的に相当封建的な感じで、パワハラとか金銭的付け届けの風習とか、今からすると酷い仕組みが色々あったそうです。

しかし、一方でそういう「封建制度」が、「地方の病院」に医師を半分無理やり送り込むことで、国土全体でのユニバーサルな医療の提供を支えていた側面があったらしい。

それが、その「医局の権力」の解体によって機能しなくなっていき、それでも「日本クオリティの医療提供」をし続けるためにアチコチにしわ寄せがいって医師の過剰労働や結果として女性の比率を高めづらい構造になっていしまっている現状があった。

・・・ってここまで聞くと「はいはいだから女は黙ってろって話をしたいの?」ってなるんですが、そうじゃなくてこの話は続きの部分が大事なんですよ。

前述した「文通」の仕事のクライアントの、結構良い大学の医学部のお偉いさんに聞いたんですが、最近作られた「新専門医制度」が、「医局の封建的悪弊は排除しつつ、”地方にも医師を送り込む”ことに関してはある程度責任を持たせるインセンティブ構造になっている」そうです。

以下彼のメールから該当部分を引用します。

医局という仕組みは、研修医のスーパーローテート制度で一度弱体化しましたが、新しい専門研修制度が、医師の都市部への偏在を解消するという目標とカップリングしたことで、復活しつつあるように思います。どういうことかというと、ネームバリューのある医局が、より多くの専攻医を獲得するためには、採用した専攻医を医師の少ない地域に派遣して研修させなければならないという仕組みになってしまったので、ネームバリューのある医局をハブとした、医師の少ない地域の病院との間の連携が近年強まっているということです。(中略)新専門医制度は、昭和的権力構造で成り立っていたかつての医局が担っていた人員の再配分機能を、「より多くの専攻医を獲得するためには、採用した専攻医を医師の少ない地域に派遣して研修させなければならない」という明示的なルールによって置き換えようとする試みであり、細部では深刻な問題がたくさんあるのですが、方向性としては正しいのではないかなと思ったりもします。

だから「医局」的なもの=悪、それを解体すること=善・・・みたいなベタな世界観では、現代社会の複雑な問題は解決できないんですよ。

でも次々と「医局的なもの」を華麗な論理で断罪しまくり血祭りにあげてはその先社会がどう混乱しようと全然知らねーよ!みたいなのがちょっと増えすぎてるんじゃないでしょうか。

それは本当に「人文・社会学の使命」を果たしていると言えるのでしょうか?

ざっくりイメージ的にまとめると、昭和→平成→令和の変化は以下のようになっていくべきなんですね。

・「白い巨塔」みたいな封建主義の悪癖はあるけどそれが日本的な社会の安定を支えていた・・・のが『昭和』

・その「昭和の重み」を「ぶっ壊す!」的に全否定して暴れてみたけど結局「次の着地点」をちゃんと考えていないので押し合いへし合いになってどこにも進めない閉塞状態に陥ったのが『平成』

・「昭和」の悪癖は脱していきつつ、「ぶっ壊す!」型の平成時代の無理やりな改革がもたらす社会のアメリカ的格差社会化には抵抗し、「よく考えられたシステム」によって置き換えていこう・・・というのが『令和』

「新専門医制度」って純個人主義的なお医者さんからは嫌われてる部分もあるみたいなんですよね。俺は東京生まれ東京育ちなのに数年だって田舎で勤務とかしたくねえ、みたいな。

ただ、私立でも国立でもある程度公費が投入されて医師は育成されてるんで、昭和みたいにあまりにも理不尽なことは避けるにしてもある程度は「公」のために働いてくれる部分もあってくれなきゃ困りますという話なんで。

この「令和的にエレガントに考えられたシステム」って、物凄くデリケートな利害対立を調整していくことでやっと実現する話じゃないですか。

日本における「女性差別」の背後にはたいてい本質的に「この課題」が眠っているんですね。

このデリケートな問題に誰も向き合わない結果、とにかく「昭和」を引きちぎろうとする「平成」エネルギーが無配慮すぎる事が、「昭和の亡霊」を呼び出す結果になっている不幸がある。

例えば私立医学部入試の女性差別一個を解消するにあたっても、それがまた単なる新しい「シワヨセ」になるだけで終わらないようにする(よっぽど考えてやらないと絶対そうなります。だから反対する人がいるわけで)には、こういうレベルの「令和的にエレガントに考えられたシステム変更」が必要なんですね。

今の最大の課題は、この「平成」風の「私達は黙らされないぞ」的なムーブメントが、ここのあたりの問題を全然理解してない「単なる糾弾者」になってしまっているところなんですよ。そこがそうなっていた事情も何も考えずに「差別だ!」と攻撃するだけに終わっている。

「昭和vs平成」の対立を昇華するために、社会の問題を多面的に深く解きほぐして、最適な解決策を模索する役割

↑「これ」こそが人文・社会学の腕の見せどころなんじゃないんですか?

呉座氏の発言には「こういう話」が結構含まれていたように私は感じていて、だから彼の発言の「女性差別」的な部分を糾弾することは大事だけど、「彼らサイドの正義」については、ちゃんと「受けて立つ」姿勢を持ってもらわないと困るわけですね。

で、「昭和的にアンフェアだが安定した社会」vs「平成的に形式上のフェアさはあるが格差が広がって社会不安になる社会」と「どっちがいいのか」みたいな話になったら全力で押し合いへし合いになるに決まってるわけですよね。

「昭和的なアンフェアさは辞める」「社会の安定感は保ちながら別の解決策を考える」、『両方』やらなくっちゃあならないってのが、「令和」の辛いところだな。

ブローノ・ブチャラティ

という方向に入っていかないと、「呉座氏側の必死の反撃」をトーンポリシングして封殺してる場合じゃない課題がここにはあるはずなんですよ。

人文・社会学系の人は以下のようなワークシートはビジネス書みたいに軽薄な感じがしてお嫌いかもしれませんが、先日出たばかりの私の著書から引用しますと

大事なのはこの「質問2」の部分に向き合って、「質問4」的な解決を志向していくことなんですね。

私はこういう「令和的にエレガントな解決策を考える」ことを「メタ正義」的発想を呼んでいます。

5●21世紀の人文・社会学の「本来的な役割」とは?

以下は私の「プロフィール」文なんですが、こういうテーマで微妙な利害関係を解きほぐすような事をやっていると「人文・社会学」的領域がもっと援護射撃をしてくれたらいいのに!って思うことがいっぱいあるんですね。

1978年生まれ。京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感。その探求のため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、カルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働く、社会の「上から下まで全部見る」フィールドワークの後、船井総研を経て独立。企業単位のコンサルティングで『10年で150万円平均給与を上げる』などの成果をだす一方、文通を通じた「個人の人生戦略コンサルティング」の中で幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。

10年前ぐらいから著書で、人文・社会学関係者に対して、

「ただ単純化した図式的な糾弾をしまくる」ようなのじゃなくって、普段忙しく下世話に働いている人にはできない多面的な掘り下げを行うことで、「本当に社会の問題を解決に導く」ような論調づくりをやってくれよ!

みたいなことを言っていたんですが。

要は

「”アンシャンレジームの中にある合理性”を単純に断罪せずにキチンと評価して、そして新時代的にOKな仕組みに丁寧に置き換える試み」

…みたいなのこそ、「人文・社会学」が最も必要とされてる分野であるはずなのに、中学生の弁論大会みたいな論理で一方的に糾弾しまくるような”政治活動”を「学問の自由」の影に隠れてやり続けるのってそれでいいのか?と思うわけです。

そうやって「令和的な着地点」をちゃんと用意していけば、その時はじめて日本社会は「昭和の悪癖」から簡単に脱却できるようになるわけですよ。別に強い口調で排撃したりする必要もなくなるはず。

最近ツイッターで「呉座サイド」の人が言っていてほんとそうだなと思ったのが、

「他人が大事にしてきたものを”相対化”する理論を振り回す人が、決して自分の立場だけは”相対化”しないで拒否するのはおかしい」

みたいな話なんですよね。

「ポストモダン」思想は他人が大事にしてきたものを徹底的に相対化しまくるだけじゃなくて、「自分たちの視座の暴力性」も徹底的に相対化できるようになってこそ、これからの時代「本当に役に立つ」思想になるはず。

以下の記事に書いたように、日本政府の予算感からすれば、日本の学術予算問題は「その気になれば」解決できる程度の課題なんですよ。でもそれはやはり「日本社会にとっての人文・社会学の本質的意義」に目覚めてもらわないと、そういう「機運」を高めるのは不可能だと思います。

「平成的糾弾のモード」はすでに日本社会における「強者性」を持っていると言える部分は明らかにあるので、自分たちの「強者性」に応じた振る舞いを覚えてもらわないと、「抵抗する弱者」の人たちも必死になってお互いやりすぎになる平行線からは逃れられません。

何度も言いますけど、「職がかかっている呉座氏」「現在進行系で暴言を投げかけられている北村氏」がそこまで冷静に「メタな正義」を目指せ・・・というのは酷すぎると思うんですよ。

一方で、当事者以外の「人文・社会学」関係者の人たちは、単に脊髄反射で攻撃しあってないで、この騒動が本質的に投げかけてきている「人文・社会学の本来的使命」について、考えを深める方向に議論を持っていってくれればと思います。

その「本質論」レベルでの議論が進めば、最終的には呉座氏と北村氏がそれぞれ持っている「学問的理想」を冷静に認めあえる環境になることも不可能ではないと私は感じています。

さっきも書きましたけど、アカデミアの人はビジネス書っぽい体裁の本はお嫌いかもしれませんが、そういう「メタ正義的解決」のあり方については、以下の私の著書などお読みいただければと思います↓。

日本人のための議論と対話の教科書

(以下のページで序文を無料公開しています)

今回記事はここまでです。お読みいただきありがとうございました。

以下の部分では、なんか人文・社会アカデミアの人が読むだろう記事の後に僕みたいな人間が書くのちょっと恥ずかしい気もしますが、最近見た映画「ドライブ・マイ・カー」と、そこに出てきた「ワーニャ伯父さん」の話をします。

アカデミー賞ノミネートされた村上春樹原作の「ドライブ・マイ・カー」ですけど、映画も、村上春樹の原作も、あと劇中で重要な役割を果たしていたチェーホフの「ワーニャ伯父さん」も、どれもなんだか凄いグサグサ心に刺さったんですよね。

特に40代になってくると、残りの人生についてとか、来し方行く末について考えるわけですけど、特に「ワーニャ伯父さん」にはやられました。

なんか、全体的に「男にとって、もうひとりの男の存在が持つ意味」みたいなのを考えざるをえないなあ、って思ったんですよね。

「ワーニャ伯父さん」のセレブリャコーフとワーニャ氏とかね。

関係性が近づきすぎるとケンカになるけど、でも適切な距離感が生まれると、社会が安定するというか。

個人的に、「学歴システムに守られた大都会の恵まれた上澄み」領域以外でもちゃんとセクハラ・パワハラ・差別問題・・的な理不尽を克服していくには、「ホモソーシャル」的な関係を全部悪いものとして糾弾する風潮はあまり現実的でないと思っているんですね。

そこがバラバラになると社会が不安定化して、末端においては余計に理不尽な思いをする人が増える効果があるので。

むしろ「抑止力」を津々浦々に敷衍するためにこそ、大事なのは「女性を差別しないで済むホモソーシャル」を丁寧に形成して守っていくことだと自分は思っていて。

そのへんに、欧米のポリコレムーブメントの高圧性が、社会の「周縁部」の事情を無視しすぎている結果として、人類社会の「逆側」に中国政府やアフガンといった強烈な「アンチ」を生み出すことで、実態としては「より理不尽な環境で生きる人数」を増やしてしまっている現状を超えていくための視座があるはずだと思っていて。

以下の部分では、映画『ドライブ・マイ・カー』、村上春樹の原作『女のいない男たち』、そして『ワーニャ伯父さん』の話をしながらそのへんについて考えてみたいと思っています。

「寝取られ」ジャンルのカタルシスの本質的意義は何なのか?みたいな話もあります(笑)

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