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「小山田圭吾のイジメ自慢」「小沢健二の万引き自慢」を生んだ「不謹慎サブカル系」とはなんだったのか。

オリンピック開幕直前にも関わらず作曲担当から辞任することになった小山田圭吾さんの「イジメ自慢」事件なんですが、ちょっと当時の「不謹慎系」「鬼畜系」サブカルの空気を知らない人にとっては、

イジメの内容も無茶苦茶すぎて常軌を逸してるけど、さらにそれを自慢げに雑誌のインタビューで語るとかどういう神経してんの?

っていうのが理解不能だと思うんですね。

僕も当時いちおう生きてたはずなんですが、関西地方で部活に没頭するような健全な(笑)高校生だったので、渋谷系界隈でそういう「どれだけ不謹慎なことを言えるか、それで引いたらダサいやつ」みたいな気分があったこととか理解できなくて。

それでインタビューを読んで凄いショックを受けてたんですが、私が連載をもたせてもらっているファインダーズというウェブメディアの担当編集者の人がゴリゴリのサブカルパーソンで(笑)その背後にあった色々な事情について教えてくれたんですね。

当時のサブカルがああいう方向に進んだ理由について、共感してほしいとは思わないものの、倉本さんには一応知っておいてほしい事情もあります・・・と言うことで、ロマン優光さんの「90年代サブカルの呪い」という本を紹介されたんですよ。(この本、なぜかキンドル版はメチャ安いですし、知らないことがいっぱい書いてあって勉強になったのでぜひおすすめです)

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この本を読んでだいたい理解したところを一言で言うと、

当時の社会があまりに「綺麗事」的に、恵まれた人の立場からしか物事を見ない風潮にあふれていた中で、「世の中にはこんな汚いこともあるんだぞ」ということを身を持って示すことで、社会の閉塞感に風穴をあけ、多くの「生きづらさ」を抱える人に「自分も生きていていいのだ」と感じさせる開放感を与えるムーブメントとして機能していたのだ

・・・みたいなこと・・・だそうです。

その雰囲気が伝わるめっちゃ「当事者感!」のあるツイートをさっき映画評論家の町山智浩さんがしてたんですけど(笑)↓まあやっている当事者はこんな感じの気持ちだったらしい。

今、政治的立場的に町山智浩氏が”嫌い”な人も、こういう↑生々しい当時の「気分」を聞かされると、ちょっと共感する部分も出てくるんじゃないでしょうか。

いやいや、どんな事情があろうとなかろうと小山田圭吾をはじめとした当時のカルチャーは許せんっていう人もいていいし、というか僕もドン引きしまくってた人間なんですが、「そこにあった背景」をちゃんと理解しておくと、「こういう存在が生まれないためにはどうすればいいのか」について考察も深まったりするかなと思うので。

今回の記事は、そのロマン優光氏の本を下敷きに、サブカル育ちの担当編集者氏の言葉も借りながら、「当時の空気」について理解し、その上で今後どうなっていけばいいのかについて考える記事となっています。

体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。

1●当時の「渋谷系」にはそもそも「反社会的」なイメージがあったらしい(僕は知りませんでしたが)

不謹慎系サブカルが流行ってた・・・とか言っても、誰しも知ってるような存在じゃなかったんですよね。

僕は一応当時高校生〜大学生ぐらいだったんですが、今思うと神戸という関西の地方都市で高3の冬まで部活の事ばっかり考えていたような「健全な(笑)」高校生だったので、全然存在に気づかなかった。

なので、その後だいぶたってから小山田圭吾さんとか小沢健二さん(フリッパーズ・ギター)の音楽はちょいちょい聞くようになって、例のインタビューを読んだ時に、物凄いカルチャーショックがあったというか。

いわゆる「鬼畜系」とか呼ばれる不謹慎を良しとするサブカルコンテンツとフリッパーズ・ギターのようないわゆる「渋谷系」はかなり違うものに見えますが、その「共有している時代の空気」っていうのが、単にイジメをやるとか単に万引するとかでなくそれをインタビューで「自慢する」現象に繋がってるんだと思うわけですね。

その「驚き」についてツイートしたのが結構バズりまして、

で、このツイート↑を見た、当時の「渋谷系」を東京でナマに体験した色んな人が「思い出」をリプライでアレコレ寄せてくれたんですが、これがなんか物凄くヤバい話ばっかりで。

「当時の東京の進学校に行ってる親戚と話したら本屋で本棚一列万引した自慢をしててドン引きした」

とか、

「知り合いのお金持ちのお嬢さんが、わざと新幹線で無賃乗車した上で駅員を泣き落として許してもらったと自慢げに話してた」

とか、そういう「当時の”知的でハイセンス風”の人のイキリエピソード」が沢山寄せられて、

「とにかく当時の渋谷系というのは、”ただの優等生じゃない俺キャラ”をアピールするためにやたら反社会的な自分を演出していて怖かった」

のような、今の単にオシャレな音楽というイメージからすると全然印象が違う思い出を語る人が多かったのが非常に勉強になりました。

というか、小沢健二さんの「万引常習犯自慢」にしろ小山田圭吾さんの「イジメ自慢」にしろ、「そういうキャラ作りを期待されていたから話を盛っていただけのたわいない作り話なのだ」という説もあるそうですが、なんか当時の空気を知らない人から見たら、

「万引常習犯であることやイジメが作り話だったとしたら、むしろ余計にそんな嘘をついて”自慢”になるという感覚自体が理解できなさすぎる」

と思うんですね。

「反社会的なことをやっちゃえる単なる優等生じゃない俺」自慢・・・みたいなのの、身の回りで普通に暮らしててそういう人に出会ったことがなさすぎて、「???」ってなってしまう怖さみたいなのがあるなと。

2●昭和の日本の重苦しさに風穴をあけるための不謹慎サブカル

で、さっきも書いたように、許せないと思う人は許す必要もない事だと思うんですが、そういう人でも、一応

「なんでそんなことするの?」

について多少知ってみると、また見方が変わってくるかと思うんですね。

そういうわけで、冒頭で書いたロマン優光さんの本を読んでみたわけですが、要するに当時の「不謹慎系サブカル」の存在価値というのは、

当時の社会があまりに「綺麗事」的に、恵まれた人の立場からしか物事を見ない風潮にあふれていた中で、「世の中にはこんな汚いこともあるんだぞ」ということを身を持って示すことで、社会の閉塞感に風穴をあけ、多くの「生きづらさ」を抱える人に自分も生きていていいのだと感じさせる開放感を与えるムーブメントとして機能していたのだ

ということなのだと理解しました。

今のSNS用語風により具体的に言うと、当時は

「こういうのが正しい、良い生き方」みたいな標準が強烈に決まっていて、「そこを外れた存在に対して男女ともに非常に侮蔑的な扱いがされる社会」だったために、「こういう人間もいるんだ」という「異常な存在」を白日の元に晒すことで、「社会の正しい標準形」の圧力を和らげる風穴となったのだ

みたいな感じでしょうか。

例えば「オタク」に分類される外交的でないタイプの男性とか、「伝統的な性役割」から外れがちなタイプの女性とかが、容赦なく侮蔑の対象になって、「他の選択肢」みたいなのが彼らに示されなかった。

つまり

「昭和から平成に変わっていくにあたって、”昭和の日本の重い部分”をとりあえず一度風穴をあけて空気を入れ替えるために、当時はこういう鬼畜系サブカルが必要な背景があった」

・・・という話ですね。

ただ、ロマン優光氏によると、この「鬼畜系コンテンツ」を最初にはじめた頃のオリジナルな参加者のほとんどは、その

「異常者」たちへのフラットな目線と敬意

みたいなのがあったが、それがある程度売れるとわかった時点で色んな有象無象が参入してきて、

どんどん「変なやつをバカにして笑いを取る」だけのコンテンツが溢れかえってしまった

のが当時の環境だったのだ・・・ということらしいです。

たとえば根本敬さんという漫画家さんについて、以下のように述べています(第8章)

根本氏の仕事が肯定的にとらえられたのは、今の社会に生きづらさを感じている人たちが、社会の常識とは違うところでそれとは関係なく堂々と生きている人たちを知ることで、ああいう人だちだって生きているんだから自分も生きていていいと自己肯定できたということにあると思います。

根本さんはいつだって対等な目線で向き合って淡々と話を聞いてくれる。一見なんでも無い普通のことのようだが、「対等に向き合って話を聞く」ということの姿勢こそが根本氏の特異な才能の一つであり、おそらくは彼の根深い人間理解の秘密なのである。

社会の表面を支配しているように見える建前も、既に内面の問題としては形骸化していたわけで、「鬼畜系」というのはそれを暴く効果はあったと思います。先の見えない状況の中で不安で苛立った気分の人たちに世界へ風穴を開けるような爽快感を与える効果も。

しかし、ロマン優光氏が、半分当事者として反省するのは、以下のようなことだそうです。(同じく第8章)

建前に苛立っている人たちが、本当はクソな世界なのに建前で覆い隠そうとしていることに苛立っている人たちだけでなく、クソなことをしたいけど建前が邪魔でできないことに苛立っていた人もいたことに気づいていなかった。建前があるからクソなことをしないだけで、建前がなければ自然とクソになる人が存在することに気づいていなかった。あくまで概念の遊びであり、ギミックとしてクソを使用しているのに過ぎないのに、それを現実でクソを投げることだと解釈してしまうことにも。そして、生身の人間をコンテンツとして扱うことは、他人にしろ自分にしろ、それによって人生が狂ってしまうような危険な行為であるということにも無自覚すぎました。

3●「”正しさ”の息苦しさ」と「”正しさ”あっての倫理観」のせめぎあい

要するに、

「昭和の社会的な正しさの押し付け」で押しつぶされそうになっている人たちを救うために、「不謹慎」を利用して風穴をあけたのは良かったが、そうやって「正しさの建前」を吹き飛ばしてしまったら人々のナマの倫理観のなさが社会のアチコチで無造作に噴出してきて大問題になってしまった

というのが、「不謹慎サブカル」の背景にあったアレコレの事情だということなのだとまとめることができるでしょうか。

なんか、これもっと単純化して言うと、

「”正しさ”の息苦しさ」と、「”正しさ”が共有されていることによる最低限の倫理感の共有の必要性」のせめぎあい

なのだと考えると、これは結構、これを読んでいる読者の人でもかなり「現代的」に体感できる同じ構造があるような気がしてきますよね。

いまのSNSで言うと、みんな大好き「白饅頭界隈」がやっているムーブメントにも共通する精神があると言えそうです。

そうやって「今」の体感の延長で、当時の対立みたいなのが肌感覚で理解できる感じがしてくると、単に今の価値観で「許せん!」となるよりも、この問題の解きほぐし方も見えてくるんじゃないかという気がします。

で、じゃあ今後どうしていったらいいのか?っていう話について考えてみたいんですが。。。。

4●「風穴」はもう開きまくってるんだから・・・

なんというか、要するに当時はネットがなかったので、「社会の標準形」以外の生き方をしている人の孤独感たるや今からは想像できないほどだったと思うんですね。

しかし、今や「標準形ってなんだよ」的な感じでありとあらゆるタイプの生き方の情報がネットを見れば飛び込んでくるので、「わざわざ鬼畜なことをやってみせて社会に風穴を開ける」みたいなことの必要性は、随分と薄れてきていると考えていいと思います。

むしろ今は、「風穴」があきすぎて、社会が一応でも共有できるものが崩壊寸前になってて、それが余計に「マイノリティ的な例外」を締め付けて社会の一応の心理的安定性を死守せざるを得なくなる原因になってしまっている。

一方で、「なんでもアリに崩壊させた倫理を回復しよう」みたいな流れは延々と進行中で、それ自体はいいんですが、逆にその動きが新しいタイプの「新しい標準形の押し売り」的なものも見えてきている部分があるのが難しいところなんですよね。

もっと単純化して言うと、

「正しさの押し売りを拒否したら倫理観が崩壊してヤバい!と思って正しさを必死に取り戻そうとして結構倫理がもどってきたと思ったらこれはこれでまた息苦しさも出てきてそれも反発を受けている(←イマココ)

という風に考えると、あれほど「全然理解できない」感じだった90sサブカルが、現代と物凄く地続きな現象に思えてきませんか?

結局これは、以下のような記事で

書いたように、

「新しい価値観を導入していくにあたって、古い共同体の紐帯を引きちぎらないで温めながらやる」

みたいな作業を、今後やっていくことで、

「倫理が安定してくれば過剰に正しさを押し売って断罪する必要もなくなる」

「正しさを押し売りして断罪する必要が減れば、人々は”ナマのホンネ”のまま自分なりの納得を持って生きていけるようにもなる」

という形で、

「古い社会の紐帯を引きちぎらないようにしながら、本当の”個”への尊重心を徐々に混ぜ込んでいくプロセス」

を実現しくことが大事なんだと私は考えています。

それにあたっては、以下の記事で書いたように

「受け売りの価値観で全否定ごっこを仕掛けてくるやつら」は徹底的に黙殺していいんだけど、そういう存在への反骨心ゆえに惰性でやり続けている不謹慎的な行為が、

「本当にやりたいリアルな熱狂」があってやっているのかどうか

については、真剣に考えていくようにしよう・・・みたいな感覚も大事ですね。

そうやって、徐々に社会全体が、

「正しさの押し売り」が、そこに馴染めない存在にまで問答無用に断罪しまくってしまうようにならないようにしながら、個々人が生きたいように生きつつ、重層的に住み分けるような構造になっていけば理想

なわけですよね。

5●分断の時代の共有点の見つけ方

さっきの結構バズったツイートの下には、こういう話も吊り下げておいたんですが、これも結構多く読まれたんですよね。

雨宮処凛さんも、町山智浩さんと同じく「左翼!」って感じの活動をされている方なので、政治的立場として「嫌い」な人もいるかと思うんですが、雨宮処凛さんがハフポストで話している「当時の不謹慎サブカルの思い出」は、たぶん今の雨宮処凛さんとは政治的立場がかなり違うタイプの人でも、

いやいや、これはナイわ。ドン引きするでしょ。

と感じると思います。

つまり、「見た感じの激しい論争」とは別に、徐々に「何がOKなのか」というフィーリングは世間全体でアップデートされていくんですよね。

もちろん、もっと「正しさ」方向に振りたい人もいるでしょうし、もっと「不謹慎さで風穴をあける」方向に振りたい人もいるでしょうし、それぞれ社会の中で緩やかなグループを形成して争いあいながら、結局その平均値的な部分において「中庸的な常識のセンス」は変化していくようになっている。

以下の図のように考えた時に、「変化を求める側」はそろそろ「飛行段階」に入って、徐々に「対話のあり方」を変えていくべきタイミングが来つつあると思います。

2−1滑走路と飛行

そうすることによって、

図3-2

このような形で、世界中を分断に陥れている先鋭化した「正義」の形を、欧米の中でもその過剰な先鋭化には批判的な、たとえばアメリカではオバマ元大統領やマイケル・サンデルや、欧州の穏健派インテリなどの文脈とも連携しながら、

「上から目線の倫理で殴る」のではなく、「ナマの人間のほんとうの欲求」と具体的に現地現物で調和させるようにしていくことが、これからの日本が世界の中で果たしていくべき役割

ということになるでしょう。

そんなことって、一度「メッチャクチャになるぐらいみんなホンネで動いてみる」ことをしないとできないわけなんで、今の東京五輪をめぐる混乱は、まさにそういう「ゴール」を目指して動いているのだ・・・という風に考えられるといいですね!

今回の記事の無料部分はここまでです。長い記事をお読みいただきありがうございました。

ここ以降は、もう少し東京五輪に関するいざこざについて、そもそもなぜこんなに紛糾するのか・・・みたいなことについて考えてみたいと思っています。

個人的に、自分は東京五輪には賛成派で、多少の困難があっても開催するべきだと考えているんですよね。

というのは、ああいう大きなイベントって、欧米的理屈による「”個”をあらゆるい意味で絶対的に扱った上での”狭義の知性”礼賛」主義になるとどんどん隅に追いやられていってしまうタイプの存在になっているんですが、しかしそういう構造自体が、「近年の欧米における流行的な価値観」に親和的な人間だけの特権的断罪だな、って感じる部分があるんですよ。

多少「無理」をしてショーアップすることによって、たとえば普段目にされることもないマイナー競技とかの競技環境とかだって整えられたりするし、そもそも普通のインテリが「同じ国を共有している仲間よりも地球の裏側の同じ特権階級としか親和しない」傾向が大問題となっている時代には、オリンピック的イベントが多少無理してでも行われることは、「どんどん失われて行くタイプの紐帯」を4年に1度ぐらいは温め直すイベントとして、そこに「無理」が生じること自体が存在意義とすら言えるんですよね。

そういう「オリンピックって嫌われがちだけど大事なんだよ」という「理屈」の話はとにかく僕は凄く主張したいんですが、しかし!!でもそうは言ってもね(笑)

とはいえ!そうはいっても!!!!あまりにもあんまりだろ!!!!っていうようなレベルの話も今回は多すぎて困ってしまうんで、そのへんの矛盾を今の時代の私たちはどう考えるべきなのか、みたいな話を以下ではします。

具体的に言うと、ここまで書いたような「そうは言っても五輪がある意味」的なものを別の角度で昇華できる道筋を考えてこそ、やっとバッハ会長的特権主義を掣肘する道も見えてくるのだ・・・みたいな話でしょうか。

なんにせよ、この「幕末のええじゃないか的混乱」に突入しつつあるのはとてもいい感じだと個人的には思っています。なんだかんだテレビで観戦して楽しみたいです。

そして、「なんで欧米みたいにならないの?日本人てゲスね!絶望だわ!」みたいな文化帝国主義者は徹底的に黙殺してやっていいと思うんですが、日本列島で生きている1億数千万人が「正直もうやめたい」と思っているようなことは、この混乱の中でダメさを白日のモトにさらしてもらって、洗いざらいスッパリできればいいなと思っています(笑)

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