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「コロナ対策専門家会議が”廃止”された」というのはマスコミの切り取り報道だった。そして今後の日本のコロナ対策はどうあるべきか?

●”専門家会議の廃止”はデマ。マスコミの切り取りに気をつけよう。

先日、西村康稔経済再生大臣(コロナ対策担当)が今までの専門家会議を「廃止」し、「対策効果分析アドバイザリーボード」とやらを設置する・・・というニュースが出てきて、ツイッター上が大騒ぎになっていました。

また人選↑が、「疫学」的なものと全然関係ない感じで、AIのようなバズワードに乗っかって適当なことをやる気満々な感じがして、私も自分たちの政府のアホさ加減に頭を抱えそうになったんですが・・・

しかし!

ここ何年か繰り返されてきた、「マスコミ第一報を聞いたときにはどんだけアホな政権やねん!と思ったけど続報をちゃんと調べたら全然話が違った」という例なんじゃないか?と思ってもう少し調べてみると・・・・(以下画像は西村大臣のツイッターより)

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何のことはない、感染症の専門家会議はちゃんとあって(大急ぎで作って必死に走ってきた今までの暫定的なものでなくより法的根拠のはっきりした正式な会議体になったらしい)、それとは別に、特に屋内イベントの飛沫拡散などをAIを通じてシミュレーションして何か対策の方向性が出せないか・・・というようなことをやる会議体をもう一個作ったという話らしい。

もちろん、我々は真剣に「監視」し続けなくてはいけませんけど、感染症専門家のリストの中に我らがヒーロー押谷仁氏が残っているので、そうそうバカバカしいレベルにグリップを外してしまうようなことはないだろう・・・と、個人的にはある程度様子見をすることにしました。

●マスコミさん、批判はいいけど悪意ある切り取りは良くないです。

こういうのって、西村大臣の発表が尾身先生に伝わってなかったとか、そういう政府側の問題もありつつ、最近のマスコミ報道は「誤解させる気満々なんじゃないか」っていうような第一報が多くて、今回も「専門家会議廃止!」っていう見出しで大々的に報道され、「専門家会議解散に抗議します」というハッシュタグにも大量に投稿される騒ぎになっているのは、ちょっとマスコミさんもうちょっとなんとかなりませんかね?という感じがします。

「政権にダメージがあるなら切り取りでも全然構わない!」っていう態度がオオカミ少年的にマスコミ不信に繋がりますし、政権も「意味あることをやるより揚げ足取られないことを第一に考えて行動する」ようになっていきますし、結局それは最終的に民主主義制度自体の存続の危機につながっていくわけですよね。

政府側の意図をとりあえずちゃんと報道した上で、その上で人選に不備があるんじゃないかとか、AIを活用する価値は単に流行り言葉だっていう以上に必然性はあるのかとか、そういう批判を加えるなら全然いいというか、むしろどんどんやってくださいという感じなんですけど。

単に法的に根拠のある会議体にバージョンアップしますという部分を、「廃止」っていう見出しで「単に古い会議体は解散します」だけを報じるというのは、ほとんど意図的に悪印象をもたせようとしているレベルだと言わざるを得ないと思います。

ツイッターを見ているといまだに騙されたまま、「あーあ、もう日本は終わったわ」ってなってる人が凄いたくさんいるので、その点とりあえずある程度は安心していただいてもいいのではないかと思います。

●今後の日本で「経済第一派」と「防疫第一派」の共有点を見出すにはどうしたら良いのか?

ともあれ、今の日本のコロナ対策が「色んな派閥同士」の競争状態になっていて、特に、経済再開を第一に考えるグループと、あくまで防疫を第一に考えるグループとの間の鍔迫り合いが激しくなっている状況ではあり、その対立感覚の火種と反応することで、今回の「専門家会議廃止」の誤報も非常にネットで燃え盛ることになった・・・とは言えそうです。

なので、ここ以降のこの記事では、これまでとこれからの日本のコロナ対策を総括して、「経済再開派」と「防疫第一派」との間の共有点を見出していくにはどうしたらよいのか?について考えてみます。

そのためには、この防疫に大失敗した例えばアメリカと日本との「違い」がどこにあるのか?について、冷静に振り返ってみることが必要でしょう。

●アメリカの大失敗例が徐々に明確に解明されてきている。

6月25日に、ニューヨーク・タイムズが、アメリカにおける新型コロナの拡散についてめっちゃわかりやすいインフォグラフィックを出していて、なかなか考えさせられました。(NYTはコロナ関係の記事は登録必要だけど無料です。グーグルやフェイスブックアカウントと連動させればすぐに登録できるので、ぜひやってみてください)

How the Virus Won

リンク先、スマホでも見れますが、PCとかタブレットとか大きめの画面で再生するとなかなか迫力があります。英語ですが簡単な表現なのと、絵がとにかくわかりやすいので苦手な人もたぶん大丈夫。下にスクロールしていくだけで紙芝居のように変化します。

2月中旬には、15人しか陽性患者数がいなくて、その15人はちゃんと隔離したし、中国からの入国は止めたし、だからそのうちすぐ消えてなくなるだろう・・・とトランプ大統領は言っていたわけですね↓(”左”のNYTだからいちいちトランプのせいにしてるけど、当時の人はそう考えるのが普通だったと思います)

・スクリーンショットA

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しかし、実はこの時点ですでに2000件以上の「見えていない感染者」がいて、それが国内・国外ともに水面下で感染を広げまくっていた事が後からわかることになります。

・スクリーンショットB

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2月2日には中国からの入国は止めていたんですが、それでも世界のその他の地域からはバンバン感染者が入ってきていたらしい。(このあたりからのインフォグラフィックは凄い迫力あるので、リンク先でぜひどうぞ)

・スクリーンショットC

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で、知らないうちに国内で蔓延していくことに・・・

・スクリーンショットD

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ここ以降は、みなさんご存知のニューヨーク市の大惨状や、そこからまた地方都市へどういう風に広がっていったが詳細に語られているので、ぜひリンク先をどうぞ。

では、この「アメリカの場合」と日本の対策はどう違ったのでしょうか?そこで我らがヒーロー押谷仁の登場ってわけですよ!

●なぜ日本はアメリカのようにならなかったのか?

押谷仁氏をはじめとするコロナ対策会議の人たちがいかに凄かったかは上記のアメリカの例と比べると非常によくわかります。

彼らは、日本の対策がはじまった最初期の段階で、つまりアメリカでの「スクリーンショットA」の段階

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で、その背後には必ず市中の見えない感染者がすでにかなりいるはずだということがわかっていた。スクリーンショットBのような状況がすでにわかっていたわけですね。

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つまり、アメリカでは随分あとになって真剣な科学的調査の積み重ねの結果やっと見えてきたようなこと(スクリーンショットB↑)が、最初からわかっていたわけですね。

で、どこにいるかわからない市中の感染者を片っ端から検査して見つけたりすることはできないので、むしろその「感染の広がり方」を定性的にちゃんと見る事から対策を見出そうとしたわけです。

で、色々分析してわかったことが、3月19日に出た専門家会議の資料にもある以下のスライドで。

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要するに、ビジネスで言う「2割8割の法則」みたいなもので、メチャクチャ感染させる人と、全然感染させない人がいる、その「感染のばらつき」が非常に大きいことを発見したわけです。

そうすると、「市中にばらまかれた感染者」をしらみつぶしにPCR検査するみたいなことをやっても間に合わないが、「感染しやすい時と場所」を特定して、そういう「状況」が起きづらいようにしさえすれば、チラホラと感染連鎖が続いていってもどこかで止まるということがわかる。

これが「クラスター対策」の戦略の根拠となる分析なんですね。

●欧米人は世界を一様なものだと思いすぎている

ファインダーズ連載の第5回で書いたように、このあたりの分析の深さ、鮮やかさは、日本の製造業の強みにまで繋がる「特性」だと思いますし、「科学」というものをどう捉えるかについての、トランプvs反トランプ的な欧米文明の行き止まりを超える可能性が眠っている部分なんですよね。

単純化して言うと欧米人は世界が「一様なもの」として存在していると思いがちなんですよね。

日本のクラスター対策は、例えるなら一匹の魚を魚群探知機で見つけたら、その魚の習性から言ってその周りにはたくさんいるはずだからそこを重点的に対策しようという発想ですが、欧米人はある程度頭の良い人ほど特に、まるで太平洋を碁盤の目状に区切って、一個一個のマス目に一匹ずつ魚がいる・・・かのような世界観を前提としてしまいがちなんですね。

結果として、気づいたときにはすでに市中に相当程度の感染者が出ていた・・・という「スクリーンショットB」の段階で、今更住民全員にPCR検査をしまくっても間に合いませんが、日本では「感染連鎖が起きやすい状況」を定性的に捉えて、そういう状況だけを選択的に潰すことで、都市まるごとロックダウンみたいなことをしなくても、「連鎖の確率」を大きく減らすことが可能となった。

●「現場的リアリティ」ベースで物事を考えられない人って沢山いる

ファインダーズ連載で書いたように、私のクライアントの経営者の人たち(特に製造業や建設などの現場系)の人は、「誰かしらんけど日本の対策の責任者はメチャクチャ優秀な人っぽい」と口々に言っていました。

彼らの中での「良い仕事とはこういうもの」という現場の「モノ」的リアリティからの発想と親和する部分があるので、1を聞いて10を知る的に、専門家会議の発言を聞いただけでピンと来るものがあったんですね。

でもなんというか、もう2ヶ月ぐらいたって思ったことは、こういうの「理解出来る人」と「理解できない人」っているんだなあ・・・ってことなんですよね。

特に「感染のばらつきの大きさ」っていう話はいくら説明しても脳に入ってこない人がたくさんいるらしい。

正確に言うと「理解できない」じゃなくて「理解したくない」人ってことなのかもしれませんが、色んな「とにかく政権批判できさえすれば」みたいな人たちが騒ぎまくることで、せっかくの「超鮮やかな対策の戦略」が崩壊するような方向にどんどん話が持っていかれそうになって、そこをギリギリ耐えてきた・・・という感じだった。

正直に言って、個人的に「反安倍」のリベラルな人って、政治思想的に「そちらがわ」なだけで、でもたとえば「めっちゃ排外主義的な右翼さん」に比べたら知的で視野が広くてフェアな人たちなんだろう・・・という期待がずっと私にはあったんですが、それが結構打ち砕かれることが多かったというか、「この人何言ってんの?」みたいな事も多かったです。

もちろん、「右」の論客の中にもイッちゃってる人多くいたんですけど、なんというか失礼ですけどそっちは織り込み済みというか、まあそういうもんだろう的な部分もあったんですが、「左」の人はマトモなはず・・・という私の個人的信仰というか期待というかは崩れ去ってしまったところがあります。

●「出羽守バイアス」を排して、自分たちのコアの価値をちゃんと追求していくべきとき

これは世界的なメディアでも同じで、たとえば私も含めて色んな日本の「ある程度物事がわかる」層が冷静に整理する記事を書いて、その一部が日本語できる英語人を通じて拡散していくことで、直後にはたとえばニューヨークタイムズとかにもある程度日本の対策についてちゃんと理解した記事が出たりするんだけど、こういうのって彼らの「認識の型」から遠く離れてるので、全然理解されずにスルーっと流れ去ってしまうんですよね。

で、結果としてまた検査の数が少ない、日本は隠蔽してるんじゃないかみたいな三流陰謀論みたいな話で埋め尽くされてしまう。

また、アジア諸国の場合は、それを「自国の政権を批判できるならなんでも飛びついちゃう」みたいな人が凄い沢山いて、「控えおろう!天下のニューヨーク・タイムズさまはこうおっしゃっておられるぞ!」みたいなことを吠えまくるんで、余計に混乱してくるんですよね。

特に過去何十年と日本における「知識人」というのは、欧米の事例をとにかく持ってきて、「日本ってダメだねえ」と言って、「太平洋戦争のときもそうだった。われわれはいまだ、この愚かしさから抜け出せないのだね(賢い俺様は例外だけど)」と嘆いてみせるだけの簡単なお仕事です・・・みたいなところがあったので。

昨今の日本はちょっと排外主義的なことを叫ぶ人たちが一部で問題になっていますが、その逆向きの「出羽守バイアス」的なものも同じぐらい吹き荒れているので、個人的には「バランスするためには多少荒っぽくてもネット右翼さんみたいなのも必要だよなあ」と思ってしまいます。

もちろん私はそういう排外主義的風潮自体をなくしていきたいと思っていますが、そのためには、まずこの「出羽守バイアス」の方をちゃんと中和して、中立的に自分たちのコアの価値を見極めて共有できる環境を広げていくしかないと思っています。

●では、経済第一派と防疫第一派の間の共有点はどう見つければいいのか?

さて、話を戻しまして、とりあえずの流行をしのぎきって「日常」へと戻りつつある日本では、「経済再開第一派」と「防疫第一派」の間の綱引きがかなり激しくなっています。

「経済再開第一派」の中には、「コロナなんてただの風邪」みたいなことを言う人も沢山いて、「防疫第一派」の人たちを苛立たせているわけですが・・・

この両者の共有点を見出していくためには、いわゆる「ファクターX」についての議論を、ある程度整理することが必要だと私は考えています。

「ファクターX」っていうのは、アジア圏と欧米の死者数が桁2つぐらい違う理由は、何か「見えない明確な理由」があるのではないか・・・みたいな話ですね。

で、「経済再開派」の人たちは、過剰な対策など必要ないのだ・・・ということを言うために、BCGが効いてるんじゃないかとか、他のコロナウィルスの免疫が効いている(交差免疫説)んじゃないかとか、まあ色々いうわけですけど。

ファインダーズの連載にも書いたように、個人的な意見としては、そういうのはあるかもしれないがあったとしても「ノーガードでOK」というレベルにはならないはずだと思います。

それは以下の図にもあるように、「武漢」っていう巨大な反例があるからですね。

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BCGだ!交差免疫だ!って言っている人はこの武漢のことをどう考えているのか、結構見ていて不思議な気持ちになってくるんですが・・・

ともあれ、「ここまで大きな差」が生まれるということは、BCGとか交差免疫とか、そういう「ミクロな因果関係レベルでの一個の明確な理由があるに違いない」という発想自体が、少し個人的には非現実的だと思うんですよね。

むしろ、この「借金仮説」のような、「マクロな複利的現象」が積み重なることによってしか、社会全体レベルでのここまで巨大な「差」は生まれないんじゃないかと私は思います。

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ある程度「感染症」自体の専門家さんやいわゆる「医クラスタ」の人は、結局この「対策がはやいかどうか」が最大の違いだ・・・という風に言っている人が多いように思います。例の岩田健太郎医師もだいたいにおいてこういう「借金仮説」的なものだとおっしゃっていました。

この記事の最初に書いたニューヨーク・タイムズのインフォグラフィックを見ていても、やはり「はやめの対策」、そして「的を射た対策」が違いを生んだんじゃないか・・・という感覚を持つわけですが・・・

ただともあれ、私がこの記事で私が一番言いたいことは、経済第一派と防疫第一派の間の共有点を探すために大事なことは、

「ファクターXの中身」についての議論は一時棚上げにすること

だってことなんですね。

●経済vs防疫の対立の共有点は「ファクターXの中身を棚上げにする」ことで見えてくる!

要するに、欧米と日本では、なんか知らんけど再生算数が違うらしい・・・というのは観察的に正しいわけですよね。

それはそれこそBCG日本株のおかげかもしれないし交差免疫なのかもしれないし、みんなマスクする習慣なのかもしれないし、クラスター対策や「三密」の周知が効いているのかもしれない。

その「ファクターXの中身」を特定する議論は、専門家の間で徐々にやっていっていただくとして、「ファクターX的なものがあり、観察的に言って再生算数は欧米よりはかなり低くなっているっぽい」ということは共有できる。

だとしたら、「ある程度の感染を許容しつつ、爆発しないようにコントロール」するラインが見えてくるはずなんですよね。Xの中身がなんだろうと、とりあえずの方針としては関係ない。

これから私たちが追求していくべき対策のスタイルは、

「欧米のようになりたくないから徹底的にキビシイ対策をする」

「ノーガードで大丈夫なのだああああわははははは!!」

の、

間にある

と考えるべきです。

これ、

・「経済再開派」は「防疫第一派」が過剰に厳格に少ない感染者数でも問題視してまた経済を止めにかかってしまうのではないか?という疑念から、過剰に「ノーガードでも大丈夫なんだ!」みたいなことを言ってしまいがちになる。

と、

・「防疫第一派」は、「経済再開派」が「ノーガードで行ける!コロナなんてただの風邪!」みたいなことを言いまくることに対する恐怖心ゆえに、過剰に保守的な見積もりで引き締めを行ってしまいがちになる。

という状況に陥ってしまっていますよね。

でも、本当は、「どちらがわ」にいる人でも、ある程度マトモな人は「経済再開しながらある程度の感染を許容しつつ・・・」みたいな「日本スタイルの着地点」を心の中に描いているはずです。

●「真実の瞬間」を具体的に選び取り、対策の苦労感をへらす

ではどうしたらいいのか?というのは、ファイダーズ連載第4回で書いたような「日本の製造業の発想」をもっと活かしていくことです。

リンク先の第4回の記事は、色んな製造業関係者に「すごいわかる!」と評判だった記事なので、よかったら読んで見てほしいんですが。

要するに「感染が起きる真実の瞬間」を選び取って、それが起きないようにすることで、「気遣い作業」をせずに済むようにすることが大事なんですよね。

「三密回避」的なものをもっときめ細かくメリハリをつけていくことで、「禁止事項」を増やすのではなくて「やってもいいこと」を増やしていくべき。

「やってもいいこと」が増えれば増えるほど、「禁止すべきこと」をもっとちゃんと強力に「ちゃんとやめる」ことも可能になっていくはずです。

たとえば、私は経営コンサルティングのかたわら「文通」を通じて色んな人の人生相談をするみたいなことをしてるんですが、それでつながっている地方在住の人の話を聴いていると、ほとんど感染者のいない地域でも過剰な自粛をしまくっていて、ほんとよくないと思います。

「屋外における感染例は想像以上に少ない」ことがわかっているわけですから、海水浴場とか花火大会とか、特に地方では辞める必要はおそらくないはずで。

あとSNSで最近見た例では、公園に幼稚園児が散歩に出かけているのに怒鳴り込んでくるお爺さんがいたとか・・・もうほんとバカバカしすぎるでしょう。

昔、ヤマト運輸創業者の小倉昌男氏が、

「安全第一」って言っててもそりゃそうだ・・・にしかならないが、「安全第一・営業第二」とつけることで、本当に「安全第一」になるのだ

・・・という話をしていました。

「過剰な対策」は「対策疲れ」に繋がるので、余計に「必要な対策」ができなくなるんですよね。むしろ「力を抜いていい部分」を周知していくことで、「本当に対策すべきところ」が浮かび上がってくるはずです。

たとえばコンサートにしたって、黙って座って聴いているクラシックのコンサートと、モッシュが発生するような狭いライブハウスでのライブを「同じ」基準で考えるのは意味がわからない。静かなコンサートなら、「間引き」なしでも十分やれるんじゃないか・・・というあたりをもっと検証していけるはず。

解散前の専門家会議や、「医療クラスタ」の人はこういうあたりのことを「保守的」に考えがちな人も多い(全員じゃないです)が、でも「本当は必要以上に過剰に自粛してるよね」という部分は今日本中に大量にあると思います。

さっきリンクしたファインダーズ第4回の記事でも書きましたが、これは、まずは経済界の方が「うっせえ、やってやるぜ!」的に暴走的に解禁になっていく流れを利用するしかないのかなと私は考えていて、ただ、それで感染者が出たときに、その「状況」をもっと詳しく、個人情報ではなく「状況の分析」的な内容を共有できるようになっていってほしいわけですね。

ある種”なし崩し”的になっていくのは止められないし実際そうなっていくわけですが、それで感染者が出てくるかを「実地で実験」していくことができるわけじゃないですか。

そして、「案外やってみたけど大丈夫だった」という例と、「こういうところがやっぱり危ない」を選り分けていくことができれば、

「無駄なところで自粛せずに済む」領域が増えるほど、本当に危ないところを集中的に周知して避けることも可能になる

今、関東ではチョロチョロとまた陽性者が増えているわけですが、医療キャパが広がったことと、今は過去になかったほどかなり積極的な検査をしていることもあって、”ニュースを見ている印象”ほどのシビアな状況ではないと思います。

ただ、もっと「真実の瞬間」をシビアに寄り分けられるようになっていかないと、全面的にアレもコレも的に対策を強いておく状況は今後維持できなくなってくると思います。

レストランとかイベントの席数の「間引き要請」とかも、そもそも経済的に成立しえないレベルの間引きを無理強いすることは、結局「禁酒法の強制が闇酒ビジネスを作った」的な展開にしかならないでしょう。

だから、逆説的ですが、もっと「危ない部分をピンポイントで把握」するためにも、「経済」側がアグレッシブに色々試す必要があるんですよね。

そこはお行儀よく「理性的な対話」が行われるというよりは、「やってまえ!!!」的に暴走する経済人と、そこで陽性者が出たときにちゃんと検証することで、「本当に危ない瞬間」をもっと明確化していく結果になる・・・そうすることでクラスター対策のスキルがもっと上がるし、「経済的に成立しうる三密回避」を色んな事業者が定番として見出していけるようになるはっず。

そういう、ファインダーズ第4回の記事で書いたような「日本人の本能的協業」体制は、ちょっとずつですが作動してきているように私は感じています。

そういう意味で、今回の「専門家会議のメンバー入れ替え」と、「もうちょっとアグレッシブな経済再開派」も参加するようになった流れは、そう悪いことではないはず。

ほとんど国際交流が途絶しちゃったような現状においても、たとえば中国やニュージーランドや韓国など、以下の図のように「神経質すぎる」対策の国は、ちょっとでも感染者が出ると国中大騒ぎみたいになってしまっています。

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国際交流が完全途絶してる今ですら定期的に大騒ぎになっているのに、鎖国をエンエン続けるわけにはいかないわけだから、ああいうのはサステナブルじゃないと私は思います。

ファインダーズ連載で述べたように、すごくはやく収束させた国も失敗した国も、いずれ結局「R<1を最小コストで実現する構え」をいかにうまく構築するか・・・というゲームを共通してプレイすることになるはずです。

その時に、この「日本の対策の”ちょうど良さ”という視点」が大事になってくる。

自分たちのコアの価値を理解せず、「出羽守バイアス」的なものを振り回して騒ぐ人たちもこれからも出てくるでしょうけど、そういう人たちは今回の混乱で結構信頼を失っていると思うので、ある程度安定して「ちょうど良さ」を追求していける体制にはなってきているように思います。

もちろん、自由な批判、意見の交換はどんどんやるべきですが、それはちゃんと「意味のある形」で行われるべきでしょう。

ただ、「日本人の本能的な共有意識」の中で、この「ちょうど良さ」を掘り出していこうとする動きはすでにおきていて、その一環としての専門家会議の陣容チェンジがあったのだ・・という理解もできるように思います。

なんとか、「ダンスwithコロナ」の時代を乗りこなしていきたいですね。

そういう「日本人の現地現物の問題解決スタイル」を磨き上げていくことは、たとえばこのnoteの前回前々回で書いたような「アメリカの人種差別問題」的な課題においても、結局過激化が進んで銅像を引き倒したり警察予算を削減したりといった迷走に陥ることなく、「本当の現地現物の課題」を一歩ずつ解決していける社会統治スタイルの提案にもなっていくはずです。

今回記事の無料部分はここまでです。

以下の部分では、このコロナ問題で「陰謀論」的なものをあくまで振り回していた人たちと、そういうのをそのまま許容しても、社会は崩壊せずに存在するのだなあ・・・という話について、ちょっと突っ込んだ考察をしてみたいと思っています。

私たちは、「科学的対話」というものが末端までちゃんと「相互理解」の上で成立しないと、マトモな社会の協力関係は成立しえないと思ってしまいがちですよね。

しかし、上記で書いたように、「多少アグレッシブに攻める経済人が身を持って実験することで、クラスター対策の知見も深まっていく」ような因果関係がある時、その「経済人」の方がそういう全体像を持っている必要はあまりないというか、なんなら「コロナなんて風邪の一種!」だと思っていても構わないかもしれないわけです。

今回のコロナ禍を通り抜けるにあたって個人的に一番大きな認識の変化は、「みんな勝手に信じたいものだけを信じて生きているんだなあ」ってことです。その態度はほとんど何があっても変わらないというか、真剣に説得すれば一瞬は変わったとしても、結局時間がたてば「信じたいものを信じて」みんな生きている。

ただ、中国のような「権威主義的体制」ではない社会を維持したいとなると、こうやって「各自が勝手に色んなことを信じて生きている」状態を許容せざるを得ないというか、それを拒否しはじめると、もう結局何らかの権威主義的体制に戻るしかなくなっちゃうわけですよね。

そういう問題について、なんかこのコロナ禍を通じて考えたことをここ以降に書きます。

これは昔ブログに書いたことがあるんですが、近所に凄い美味しい化学調味料不使用のラーメン屋さんがあるんですが、そこの本棚には陰謀論が満載なので有名な某消費者運動本が山積みになってるんですよね。

で、そういう話はともかく、「自分だけのラーメン」を徹底的に追求する店主氏のガッツを支えていくには、そういう「陰謀論」が必要なんだろうな・・・って見ていて思うんですよね。

マトモな政策論議とか言うレベルを超えて安倍氏の顔を見ただけで吐き気がする・・・みたいなことを言う人もネットに結構いますけど、でもそういう風な精神を立ち上げることで、彼は彼の独自性を社会の中で打ち立てているのかもしれず、案外その人が作るラーメンは超美味しいかもしれないし、その人が仕事でやっている研究は超凄いオリジナリティを持っているかもしれない。

われわれは抽象的な「神」を共有している国じゃないので、ある種の同調圧力をはねのけて「個」としてのガッツを自分の「天職」に注ぎ込むには、ある種の陰謀論を信じ込んだりすることが「必要」とされているのかも?しれません。

そういう時代に、「個」のガッツはどんどん活かしつつ、社会全体で「マトモな意思決定」は民主的に行いつつ・・・という矛盾する課題をどうすれば両立させられるのだろうか?、みたいな話について、結構突っ込んで考えた話をします。

同時に、最近「女帝」という暴露本がネットで大騒ぎになったけど全然無傷な状態で都知事に再選されそうな小池百合子さんとか、例のニシムラ大臣とか、「やたら野心が暴発している関西人政治家」が今目立っている状況をどう考えたらいいのか?みたいな話もしたいと思います。

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。結構人気がある「幻の原稿」一冊分もマガジン購読者は読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

また、倉本圭造の最新刊「日本人のための議論と対話の教科書」もよろしくお願いします。以下のページで試し読みできます。

ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。

「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。

また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

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ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…

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