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(少しネタバレ)シン・エヴァンゲリオン劇場版を通じて、批判されがちな「ハーレム展開」の功罪を真面目に考える話。

このnoteは、さっき「ネタバレ無し」バージョンとして、シン・エヴァンゲリオン劇場版のレビュー的な記事をFinders連載で書いたので、それの”続き”として、「ある程度ネタバレ有り」的に書く記事です。

Finders記事はこちら↓

上記の記事をひとことでまとめると、

「初日に見るようなファンでも大半の人は”人類補完計画とは何かを数百字でまとめろ”と言われたら困る・・・ようなわけがわからない話」

を、

「凄い大金と凄い労力をかけて作る」

という、

「わけがわからないものに全力になれることの凄さ・可能性」

ってのがあるのだ・・・という話です。

「褒め言葉としてのわけがわからなさ」というか、今の世界は「わけがわかる理屈」だけで全てを支配してやろうというファシズム的エネルギーが溢れかえっているので、それに対する対抗軸として「東京」という街を中心として日本全国、そして世界の日本語話者を通じて共創している世界の可能性ってのがあるんだ、みたいな話ですね。

その「理屈で埋め尽くされていないものにちゃんと資金を手当できるメカニズム」の部分が大事な話で、そのあたりにおける東京発のビジネスの可能性、みたいな話が詳細に書いてあって、結構面白い記事になっていると思うので、ぜひどうぞ。

で、こっちのnote記事では特に、SNSで紛糾しがちな

「いわゆるポリコレ」的な、色んな政治的立場からコンテンツを批評し変えていこうとするムーブメント

と、

「シン・エヴァンゲリオン」的な「本能爆発型」作品

との

価値観のギャップ

についてどう考えるか・・・という話を、もう少しネタバレを解禁した形で考えてみることにします。(とはいっても、よほどネタバレに神経質で、視聴前にどんなディテールも知りたくない!という人以外ならまあ先に読んでもいい程度のネタバレだと思います)

特に、エヴァンゲリオンに限らずなんですが、「特に取り柄のなさそうな男の主人公に対して美少女が群がるハーレム的展開」みたいなのが、よく批判されがちじゃないですか。

で、それについて、「シン・エヴァンゲリオン」は結構「あるべき妥結点」を模索してきてるところがあるな、と思ったんでそういう話とか、そもそも「ハーレム展開」が「なぜ」存在するのか、みたいなことを真剣に考えてみよう・・・みたいな話をします。

結論的なまとめを先に書くと、

A・ハーレム展開が「なぜ必要とされるのか」を単なる男のエゴとして断罪するのでなく考える

B・「キモイ欲望」は「キモイ欲望」ごとまず作品の中で表現してみることで生まれる新しい可能性もある

C・「碇ゲンドウを断罪する」のではなく「アスカに居場所を与える」ことを具体的に考えるべき

といった感じだと思います。(ちなみにこの記事は有料記事の体裁になっていますが、無料部分だけで成立するように書いていて有料部分は別記事のようになっているので、無料部分だけでも読んでいっていただければと思います)

1●「ハーレム展開」を否定する前に「なぜそれがあるのか」を考える

なんかこう、「ハーレム展開」みたいなのって、日本の最近のコンテンツを否定する文脈で、直感的には一番使われる批判だと思うんですね。

「ハーレム展開」自体を直接的に批判しているわけでなくても、あらゆる「性的な対象としてだけ存在する女キャラクターがどうこう」みたいな批判は、基本的にその「ハーレム」性への批判の一部としてある感じで。

ある意味で「男主人公の権力性を誇示する装飾物としての女性キャラクター」批判みたいな感じでしょうか。

で、まあ批判するのは別にいいんですが、こういう時に大事なのは「なぜそういう作品が広く愛されているのか」という「事情」の方を深く理解することだと思うわけですよ。

単に「モテナイ男のルサンチマン的エゴを満足させるオナニー作品」だって話ならさすがに女性ファンも含めたここまで多くのファンを世界中に獲得することはできないと思いますしね。

で、その時に、参考になるな、と思うのが、「男女逆のハーレム」の形も日本のコンテンツには脈々とあるんで、その話を考えてみたいんですね。

2●「女中心版ハーレム=悪役令嬢転生モノ」との比較をしてみよう

そもそも、「男中心のハーレムもの」が個人的にあまり好きじゃないよね・・・というのがあったとして、

・「規制して排除すべき」

ってなるのか、

・実際に生身の人間でやるんならともかく、架空のコンテンツなんだから好きにしなよ。男女逆バージョンだってやりたかったら作ればいいじゃん

・・・という二つの考え方があると思うんですが、私はまあ、明らかに後者のほうが望ましいと思うわけです。

で、「男女逆バージョンのハーレムもの(つまり主人公の女の子をイケメンが取り囲む話)」なんてあるの?って思うかもしれないけど、これが結構あるんですよね。日本コンテンツの妄想爆発エネルギーをなめてはいけない(笑)

前に凄いバズったこの記事

でも紹介したんですが、「悪役令嬢転生モノ」ってのがあるんですよ。今の日本の中高生を中心としたライトノベルで結構な人気ジャンルになっているらしい。

私は経営コンサルタント業のかたわら「文通」を通じていろんな人の人生について考える仕事もしていて、それで文通している司書の女性(日本における司書の労働環境が悪すぎるのに絶望して転職しちゃったんですが)に教えてもらって、

乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…: 1【イラスト特典付】 (ZERO-SUMコミックス) Kindle版

この本を読んで、なんか凄い世界だ!って思いました。

悪役令嬢っていうのは、いわゆる「乙女ゲーム(主に女の子が遊ぶ、複数のイケメン男性に言い寄られる系の恋愛シミュレーションゲーム)」の「主人公でなく悪役」に、「普通の女子高生」が転生してしまう・・・というような設定の一連の作品群なんですが・・・

といってもよくわからないと思いますが、私はその司書さんに延々と説明してもらったあとで、この漫画を読んでかなり衝撃を受けました。

この「悪役令嬢モノ」について書いてかなりバズった上記リンク記事から引用すると、

>>>(以下引用)

これ、主人公の女の子はその「乙女ゲーム」をプレイしていたので設定を全部知っている状態で、「乙女ゲーム」内の世界の「悪役」に転生してしまうわけなんですけど。

もともとその「乙女ゲーム」の設定的にはその悪役はたいてい主人公に恋人を取られた上で死んだりする役回りなので、それを事前に知っている主人公はそれを回避しようとアレコレ必死に頑張る・・・んですけど。

「愛に飢えた育ちゆえに暴走する王子が自分の破滅の原因になるはずの設定」だから、「その子をちゃんと愛してあげればいいんだ!」的に色々と回避策を練っていくうちに、なんか登場人物全員がなんとなく幸せになっちゃう話なんですね。

なんか、これに限らず「異世界転生モノ」って、自分自身に向き合うことから逃げて調子の良い設定に逃げ込んで「俺強えええ!」的夢想にふける負け犬の物語的なジャンル・・・だと思ってませんか?

でも、これ読んで思ったのは、「この世界が誰にとっても優しいものであってほしいという願い」が凄いあるんだな、って思ったんですよ。

「主人公タイプの人に生まれついた自我」も、「端っこで生きがちなタイプに生まれついた自我」も、それぞれなりに「居場所」が存在するような並行世界が無数にあるような「一面的でない豊かな社会像」を追い求める切なる気持ちがある。

これって、いわゆる「差別問題」的な話と凄く表裏一体の問題で、社会は万人が共有しているものだから、スポットライトが当たりがちな人も当たりがちでない人もいるわけじゃないですか。

そこに「差別」があるんだ!っていうことを果てしなく言い募っていくと、「自分の正統性を果てしなく他人に対して主張しあい続けなくてはいけない社会」になっていくわけですけど、それが人々を幸せにしているんだろうか?みたいな話もあるわけで。

日陰が好きなひとも日なたが好きな人もいて、日陰が好きな人同士がワイワイ楽しんで生きていて、日なたが好きな人同士もワイワイ楽しんで生きていて、お互いをある程度尊重できていれば、「形式的な論理で非対称性がどうこう」みたいなのだけを見て「問題だ!」と騒ぎ続けるよりも、あらゆる人にとってもっと「自分らしい」道が見えてくる可能性がある。

そういうふうに考えると、「萌え絵文化圏」とか、「果てしなく平行世界が広がっているような世界観」とか、欧米文明に毒された人間観・世界観が結構深いところにある人間(僕も含めてなんですが)からすると果てしなく「理解不能」に一見すると見えるんですが、でもある意味「欧米文明の行き詰まりを現地現物に解決しようとする物凄くオリジナルな試み」だったりするのかもしれないと思えてくる。

<<<(引用終わり)

つまり何が言いたいかというと、

「ハーレムもの」というのは、「この世界をみんなのために優しいものにしたい」という責任感を持つ存在を話の中心に作り出すためのギミックなのだ

っていうことなんですよ。

3●今の「ポリコレの方法論」では消えてしまうもの

要するに今の「ポリコレ」でよくある方法論的な「差別解消」論法だけを振り回していくと、どんどん世界観がネオリベ化してくるというか、よくある

「機会均等」か「結果平等か」

みたいな話で言うと「機会均等」の話しかしないので、フェアな条件で「差別のない役割」さえ割り当てられているなら、その結果どれだけヒドイ境遇に落ち込む存在が出てきたとしても自己責任ですよね・・・という構造が隠れ潜んでいる。

「機会均等」の入り口を乗り越えて手に入れた「権利」なのだから、自分の活躍は「自分という個人」のものであって、「みんな」のために尽くす必要などない・・・という構造になってくる。

結果として、「ポリコレ的に正しい物語」は、

>>>

・「才能が本当はあるのに属性的な偏見が理由で活躍させてもらえない主人公がいる」

・「物凄く偏見の塊みたいな旧世代の嫌な奴が出てきて、”●●”なヤツにコレが務まるわけねーだろ!的なことを言う

・主人公負けずに頑張って活躍!

・さっきの悪役をやっつける!「うわあああやーらーれーたーー」

・ドヤァ!

<<<

みたいな話が量産されることになるんですが・・・

まあ、こういうので勇気づけられる段階の人もいるし「そういう風に現段階では扱う必要がある問題」もあると思うんですが、こういうのの良くないなと思う点はいわゆる

・「アンシャンレジーム(古い体制)に属するもの」を完全に徹底的に悪にする

ことで、

・「主人公が偏見を打破しさえすれば、自分が”個人”として活躍するのに何の躊躇も制約もいらない

・それを阻むものがあるのだとすればそれは「全部あの考え方の古い奴ら」が悪い

という世界観が強化されてしまうことなんですよね。

結果として、例えば誰が銃を持ってるかわからないアメリカで警官やるって本当に本当に本当に大変なことだと思うわけですが、「人種差別問題を糾弾する正義の自分」を完全な「善」にするために、「警察」全体を「徹底的に悪」にする・・・みたいな運動になってしまう。

でもさ、あんたらその警察によって守られた治安の中で生活してるんだぜ?って「一周回ってくる話」と向き合う気はさらさらない・・・みたいなことになるのは、本当になにか21世紀の人類の「病」だなと私は思っています。

本当に人種差別を解消していきたいなら、

「誰が銃を持ってるかわからない状況の中で命をかけて職務を果たす警官」への「敬意」を持った上で、「良心的な警官」も巻き込んでいって一部の暴虐な振る舞いをする差別主義的な警官を掣肘する輪を閉じていく

しかないはずですが。

単に「警察」を悪者にして、「警察予算を削減しろ!」と騒ぐことで、マトモな警官まで全部「敵」がわにおいやってしまって押し合いへし合いになることの愚かしさ・・・に対して、人類は何らかの「新しい答え」を見出していかねばならない時代なはずですよね。

4●「ハーレムものがもたらす中心軸」が必要とされる事情

で、「男女逆」バージョンの「悪役令嬢転生モノ」とかを見ても思うように、

・「ちゃんと色んなタイプの人間が生きやすいように目配りする存在」にいてほしい

・「バキバキのアメリカ型競争社会を生き抜ける人間だけが天下を取る世界」にしたくない

みたいな思いが、現状は「ハーレムもの」としての形を取っているのだ・・・という理解と敬意をまずは持ってみることが大事なんだと思うわけですね。

これは「色んな世界線があって転生を繰り返して工夫を積み重ねる話」みたいな、ちょっとその発想どこから来てるんだ?みたいな不思議なストーリー展開にも同じことが言えると思うんですよ。

以下の記事で書いたような、「煉獄さんがいる世界を取り戻したい」的な話に連なる「切なる願い」があるわけですね。

5●とはいえ、これは「男女間(たとえば)」の信頼関係の不足ゆえにこうなっているとも言える

とはいえ、こういうのって「男女間の信頼関係の不足」ゆえにこうなっている、みたいな言い方もできるかなと思うわけですね。

「色んなタイプの人間にとって生きやすい社会にしよう」みたいな見方だけで言うならば、単に今の流行としての「ポリコレ型の批判」的な紋切り型にハマっている人も同意できる「ゴール」ではあると思うんですね。

「単に形式的な差別を言い募るファシズム的性向」には徹底的に反対していいと思うんですが、具体的に例えばエヴァンゲリオンで言えば「アスカにとって生きづらい社会」になるのは良くないよね・・・みたいな視点はありえるなと思っていて。

その「具体的」な形を見出して行くには、

「抽象的な論理で断罪するのではなく、キャラクターの自律性の結果」として「着地点を模索する」

みたいなことが必要だと私は考えています。

あらゆる「ポリコレ型の批判」的な世界観の傲慢さが大嫌いなタイプの人でも、

「アスカの居場所がない感じの結末は良くないよね」

「碇ゲンドウの野望とかぶっちゃけキモすぎるだろ」

「シンジのこういう煮え切らないところは本当に良くないと思う」

みたいなことを思っているオールドファンは沢山いると思う。

かく言う自分も、TVシリーズなのか旧劇場版もそうだったのか忘れましたが、

精神を病みかけのアスカが操縦するエヴァ2号機に量産型エヴァの大群が襲いかかるシーン

は本当にトラウマもので・・・

「抽象的なポリコレ的断罪を隅々実現すること」には全然興味がないというかむしろその帝国主義的傲慢さが吐き気がするほど嫌い

ですが、

「アスカ」(的に生まれついた人間)が生きやすい居場所が存在する社会であること

はぜひとも実現していてほしい・・・と思っている人は多くいると思います。

6●碇ゲンドウのキモさもシンジの弱さも、アスカのイライラも、全部そのまま描いた先で着地点を探していく

で、どうしたらそういう「着地点」が見いだされていくのか・・・って話で言うと、

「エヴァに関わる全員分の声」を吸い上げてそのまま断罪せずに描く(しかも凄いお金をかけて凄い真剣にやる)

ことで見えてくると思うわけです。

この「全員」っていうのは、コアなファンもライトなファンも、アニメ見てないけどパチンコは好きだって人も、コスプレしてる男も女も・・・とにかく「全部」の声ってことですね。

結果として、

「碇ゲンドウのキモいところ」も断罪する前に全部出し切る

シンジの弱くてウジウジするところも全部出し切る

アスカのイライラするポイントも全部出し切る

みたいなことになるわけですが。

「シン・エヴァンゲリオン」劇場版では、アスカが結構シンジに対して

「シンジ的存在を中心としたハーレム世界観に反発する人が言いそうなこと」

を全部そのまま言葉にしてぶつける・・・みたいな感じになってましたよね。

碇ゲンドウは正直キモい。単なるエゴでしかない。親に対してしてやれることは、肩を叩いてやるか殺してやることだけだ・・・みたいな話だったりとか。

こうやって「キモい部分も全部出す」ようにすると、

「どこで折り合いをつけるのか、どこで拒否して住み分ければいいのか」

についてリアルな話がどんどん溜まっていくわけですよね。

昔はシンジのことが好きだったけど、今では自分のほうが大人になってしまった

とか、

シンジが必要としてるのは恋人じゃなくてお母さんなのよ!

的な話とか、色々とありましたけど、ああいうのは「世間の声」を拾ってちゃんと結実していく「リアリティ」なんだと思います。

7●アスカにも救いを・・・

ってなんでアスカの話ばっかりしてるかというと、個人的にやっぱりエヴァの話で一番幸せになってほしいのがアスカだから・・・ですね。

私は個人的に「綾波シリーズ」の人たちの存在感がうまくリアリティを感じられなくて苦手なんですが、アスカよりも綾波に入れ込むタイプの人も沢山いることは知っています。

一方でうちの奥さんも含めて女性ファンは、シン・エヴァンゲリオンでカヲルくんもちゃんと「着地点」が見いだされていったことに安堵したって人が結構いるなとSNSなんかを見ていて思うんですが。

そうやって「色んな人の色んな目配り」が積み重なって「配慮」が生まれていくことが大事だというか。

もちろん、ちゃんと描かれていた人物も、ザツに終わっちゃったな、っていう人物もいると思うんですが、

「抽象的な機会平等の論理を全員に当てはめて切りきってしまう」

のではなくて、

「ちゃんと登場人物それぞれがそれぞれなりに主観的に納得できる結末を迎えてほしいという目配り」をみんなでやる

というのは、あらゆる問題に対して日本人の集団が目指したいと常に思っている「やり方」だと思います。

重要なのは「後者の機能にとって大事なコア」を「前者の考え方」が敵視しがちなことで・・・

まあ、そこは「無理解ゆえの傲慢な断罪」には徹底して抵抗しつつ、取り入れるべき「アスカも幸せになってほしい的なリアルな要望」はうまく取り入れることができるようになっていくといいですね。

結果として、シン・エヴァンゲリオンのアスカは、「それなりに居場所を」見つけられた感じなんじゃないかと思ってほっとしました。

シンジとは一緒にならなかったですけど、それで良かったはず。

真希波マリさんとの「友情っぽい関係」は凄い良かったなと思いますし、「コネメガネ!」「姫!」とか呼びかけ合いながら一緒に戦う中盤ぐらいのシーン(そろそろ終盤かと思ったら全然違った 笑)凄い熱かった。

余談ですが、Finders記事にも書いたけど最近文通しているゲイの男性が「シン・エヴァンゲリオン」の感想をまさにこの記事を書いている途中に送ってきてくれて、その中に、

・なんかアスカはふつうにいい子なのに、シリーズ通してずっとないがしろにされていて、頑張りを搾取されるだけで、見てて可哀想でつらい。今回一応アスカも救われたけど、もっと最初からシンジばっかり構ってないでアスカを気に掛けるべきだったのでは
・だからこそアスカがケンスケとくっついて嬉しい、ケンスケは大人だから…シンジとアスカは絶対うまくいかないと思う

という話があって深く同意しました。

最後は真希波マリさんがシンジとくっつく的な話になってましたけど、そうやって「シンジが片付いた」ってなると、アスカは結構「大人になったケンスケ」的な人とうまくやっていってくれたらいいな、というのは凄く思うところですね。

8●「こんな女はいない」「こんな男はいない」は一概に言えない

ただ、思うんですが、こういう「ポリコレ型批判」をする時に「こんな女は(こんな男は)リアリティがない」っていう断罪ってよくあるんですが、それって結構勝手な思い込みが入りがちだよな、と思うところはあります。

さっき書いた「綾波型女性」ってあまりリアリティが感じられない・・・って僕は思ってしまいがちなんですが、でも確かに色々と難しい環境で育ってきた女性が一方でいて、ちゃんと「手取り足取り」サポートしてやれるのが自分の男としての役割なのだ・・・という関係を取り結ぶ男が一方でいて・・・というカップルが世の中にいてもオカシクないし、それを勝手に他人が断罪すべきものでもないように思います。

似た話として、

「アスカ的な女の子がシンジ”みたいなヤツ”を好きになるなんてことは男の妄想なのだ」

みたいな言い方ってのも結構あるんですが、個人的に思うのは、「確かに一緒になっても幸せにはなれなさそうだけど、そういう好意自体は結構持つ女性もいるな」ぐらいは思います。

「シンジ」的な存在ってどんなのか・・・と考えると難しいですが、広い範囲への優しさと責任感があって、押しつぶされそうになりながら色々と頑張って生きている男・・・ぐらいの表現をすれば、そういう男っていいな、と思いつつグジグジしている部分にイライラするアスカ的な女性の存在もそれほど「全くリアリティがない」ってほどではないと思います。

結果としてシンジとパートナーになりそうな真希波マリさんなんですが、これも「こういう男の妄想を実現したような女はリアリティがない」的な批判もありえそうな感じがしますが・・・

ただ、真希波マリさんって実は結構年上ですからね。碇ゲンドウと同世代だけどエヴァの呪いで年取らないって存在なので(たぶん)。

だから、現実的にも、内面的にそういう年代(でなくても少し年上ぐらいでも)の女性が、シンジやアスカが若い人らしいナイーブさで悩みつつ頑張って生きているのを見ると可愛くて仕方がない、全力でサポートしてやりたい・・・みたいに思っていそう・・・と考えるとこれも結構有り得る(というか結構現実でもよく見る)話だなと思います。

で、「姫」がシンジとくっつくなら自分は身を引こうと思ってたけど、アスカはそっちには行かないのね!じゃあアタシもらっちゃう!・・・的な展開もまあそう無理やりでもないかもしれない。

9●「男の夢を叶える女」も「女の夢を叶える男」もいていい

そのへんの課題において常に問題になってくるのは、

「男の夢を叶える女」も「女の夢を叶える男」も普通にいていい

はずだってことなんですね。

なんか、「ポリコレ的な運動」を真剣にやりこむと、あらゆる事が政治闘争課題みたいに見えてきて、

「対男の権力争いに対してあらゆる女が参加しなければならない。そうしないのは裏切り者だ」

「対女の権力争いに対してあらゆる男が参加しなくてはならない。そうしないのは裏切り者だ」

みたいな世界観になってくるじゃないですか。

なんか、そういう「標準型」だけが許される形なのだ・・・みたいなことになったら息苦しいし、それこそ多様性の抑圧なんで。

「男の夢だな」って男が思いがちな振る舞いをあえてする女性がいても、「女の夢だな」って女が思いがちな振る舞いをあえてする女性がいても、その「個人間」の関係においてそれなりに成り立っていて二人が幸せなのなら、余計な口出しはすべきじゃない・・・みたいな話はあると思います。

そういうのは、「何がOKで何がダメなのか」をジャッジするにあたって何倍もちゃんと「実物と向き合う」ことが必要になってくる難しさはありますが、そこを丁寧にやることによってのみ、世界を混乱に陥れている「あらゆる分断」を現地現物に解決していける可能性は生まれると思います。

その「標準形以外のカップリング」とかも含めて、「あらゆることがキャラとして成立するかどうか」「そのキャラがちゃんと幸せになる展開にリアリティが感じられるかどうか」みたいな「常に演繹的にでなく帰納的に考える」ことが、

図3-2

最近しょっちゅう引用しているこの図のような、「私たち日本人ががこれから果たしていくべき可能性」となり、以下の話のように

20世紀の米ソ冷戦時代と同じ特殊な繁栄の道を、21世紀日本も米中冷戦時代に引き寄せていける可能性をもたらすでしょう。

「理屈だけで断罪しまくるファシスト的存在」の言うことは徹底的に拒否しつつ、拒否した分の責任みたいな形で「ちゃんとみんなが幸せになれるように工夫していく」ことは真剣にやっていけるようになるといいですね。

今回記事の無料部分はここまでです。

以下の有料部分では、「長編のクライマックスだからできること」っていう話をします。

実は久々に今年2021年の夏頃に向けた商業出版が決まりまして、それを記念して去年諸事情で浮いてしまった原稿↓をnoteで公開して供養することにしたんですね。

で、結果として、「出版直前まで行ったものの諸事情でボツになり一年間ほったらかしにしていた原稿」を読み直してみたんですが、

「10万字とかの本を積み重ねたクライマックスだからできることってあるな」

みたいなことを思ったんですよね。これは過去に何回か本を出してきて毎回思っていたことなんですが。

村上春樹が、どこかで「長い小説を書くこと自体に意味がある」みたいなことを言っていた記憶があるんですが、長い本を、ちゃんと出版するというよそ行きの顔でちゃんと書ききっていくと、あらゆる作品に「内在的なエネルギー」が生まれてくるというか。

だからその「長編の前段階」があるからこそ、「クライマックス」でできること・・・っていうのはあるな・・・と思うわけです。

今回のエヴァ完結編・・・を見ていても、26年間の重み・・・と「それゆえにできること」っていうのがあるな、と思ったし、そういうのをちゃんと「継いでいくことの価値」みたいなのを感じたところがあるんですよね。

「継いでいく」って、今年大ヒットの鬼滅の刃の中心テーマみたいなところがあると思うんですが、「アメリカ型個人主義」全盛の時代にはちょっとうまく機能しづらいところがありますよね。

でも、そういう「継いでいく」的な何かを設定することで、単に「個」がゼロからスクラッチで作り出す世界観以上のゴールに向かうことができるのだ・・・みたいなことを最近自分も感じるようになってきたし、「あらゆる”今風の改革”に反発する日本人の心情」の背後にあるコアもそれだなと思うところがあり。

特に最近、ジョジョの第8部「ジョジョリオン」がクライマックスに入っていて、「定番の森羅万象を飲み込むラスボスのスタンド」が出てきて凄い熱いな!と思っていて。

また「進撃の巨人」も、あれだけの長編のクライマックスのクライマックスぐらいの感じになっていて、これも毎月マガジンのアプリで読んでいるんですがまた凄い熱くなってきた・・・と思っていて。

それらの「クライマックスに至ることで、避けられない運命が生起する事が持つ意味」みたいなのこそ、「単に理屈で切るだけではわからない真実」への道だなと自分は最近凄く感じているんですが。

これってコンテンツだけのことじゃなくて、例えば人生的にも、自分はジョジョ第7部の「スティール・ボール・ラン」に物凄い影響を受けていて、30代前半に何冊か本を出してから、「このまま単に文化人的な”本を出す人”的なキャリアを生きたらヤバい!」と思ってネットでの活動をゼロにして引きこもって地道な仕事をすることにしたんですね。

その「決断」ゆえに40代の今になって、「抜き差しならない運命」に飲み込まれている感覚があるというか、「あれこれやってきた結果の今」に凄く満足しているし、「コレ以外の人生」を与えてくれるって明日カミサマに言われても、どんだけバラ色っぽいモノを提示されてもノーサンキューだな、という感覚がある。

「抜き差しならない運命に追い込まれることの優しさ」

というかね。

いわゆる「40を不惑と呼ぶ」みたいな東洋的世界観ってありますけど、そういうのって、「単なる概念としての個」じゃない「本当のリアリティをベースにした個」を作り出す力があるな・・・という風に感じています。

まあ、そういうようなことを、スティール・ボール・ランの思い出話とかしながら、大げさに言えば「欧米的な概念で作られた個ではない、抜き差しならない運命としての個を生きる」みたいな話を以下の部分ではしたいと思っています。

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

また、倉本圭造の最新刊「日本人のための議論と対話の教科書」もよろしくお願いします。以下のページで試し読みできます。

ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。

「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。

また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

また、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。

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ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…

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