見出し画像

全世界は再びフェミニズムの元にひれ伏すことになるだろう!!…『リベラルのムスカ化』を超えるためのメタ正義入門(実践編)

「ひざまづけ!命乞いをしろ!」
「フェミニズムは滅びぬ、何度でも蘇るさ!フェミニズムこそ人類の夢だからだ!」(トップ画像はジブリ公式から)

何の話???って感じで書き出してしまいましたが、日本における女性活躍とかジェンダー平等の実際的な進め方について、経営コンサル的現場感から結構誠実な書き方をした記事を最近アップしまして・・・

でもなんかなまじ誠実な感じで書いたんで地味になっちゃって、読んでくれた人の反応は良かったもののアクセス数的には微妙だったので、上記記事の紹介がてらもうちょっとSNS的に読まれやすい文脈と接続する記事を書こうかなと思ったんですよね。

単純に言えば、フェミニズムに限らず欧米由来のリベラル派の理想主義が、この記事のタイトルのような「ムスカのセリフ」のように高圧的なゴリ押しだと感じられて反発を受けている状況が今世界中であるわけですよね。

いやいや、「リベラル派の理想」は完全に勝利しつつあって、文句言ってるのは負け犬ばかりだから気にすることはない!

…とあなたは思うかもしれないが(笑)

しかしそれは「欧米諸国」という人類の2割もいない超特権階級の、さらにある程度恵まれた階層においてそうであるというだけなんですよね。

結果として、「欧米」内部においても例えばアメリカの宗教原理主義保守派の暴走のような「バックラッシュ」に常に怯え続けなくてはいけない事になってしまっている。あるいはプーチンのような暴虐や、中国政府の強権のようなものが常に「欧米的理想を信じる勢力」を脅かし続けている。

はっきり言って世界最強国家の米国だからあれだけ国内混乱してもなんとかやっていけるけど、比較的体力のない国だったら「毎日食っていく」のに忙しくてあんな事できないですからね。

結果として、非欧米諸国で自分たちの国の運営の安定性が脆弱な国では、強権的に反論を抑え込むしかなくなる状態に追い込まれてしまい、「民主主義」はよほどの先進国でしか実現できない「贅沢品」になってしまっている。

そういう現状に対して、どう対処していけばいいのか?
そこで日本という東洋と西洋の狭間で生きてきた国が果たすべき役割とは?

…という話をするつもりです。

とはいえ、これはフェミニズムを始めとする欧米のリベラル的理想主義に「妥協」を迫るものではないです。むしろ「あんたらの理想ってその程度なのか?」という挑戦をしたいと思っている。

上記記事にも書きましたが、過去30年の大きな変化は、「欧米諸国」が人類全体のGDPに占める割合が激減していることなんですよね。そしてこのトレンドは今後も決して反転することはない不可逆なものだと予想されている。

だから、昔は「欧米ではこうだ」という事をある意味で”押し売り”した方がスムーズだったけど、今はそれだけだと「そんな”一地方”の独善的な価値観とか、なんで俺たちも受け入れないといけないんですか?」という感情的反発を超えられなくなってきている。

過去30年機能していた「欧米を”上”においた形での押し売り」が機能不全化していく世界において、それでも「欧米的理想」を人類社会にあまねく押し広げていきたいのならば、今までとは一歩進んだ「欧米と非欧米の対等性」を原則とした形の双方向的な理想の普及方法について考える必要がある。

アメリカ由来の現行のリベラル派の理想が、現実問題として”世界の半分”から強烈な反発を招いて、常に崩壊の危機に晒されている現状を直視し、どう「アップデート」すればこの理想を、”欧米諸国という人類社会の特権階級の、さらに上澄みの階級の内輪の論理”で終わってしまう事を超えていけるのか?を考える。

そのために、私が提唱している「メタ正義感覚」という発想についても解説していきます。

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●「具体的で双方向な問題解決」さえ動いていれば、対立自体が消えていく。

さっき貼った「誠実に書いた結果地味になってしまった記事」は、今はもう会員登録しないと全文読めなくなっているので、その内容をまずざっと説明します。

上記記事では、「お互い”別の正義”を振りかざしあったSNSでの罵り合い」とは「別の場所」で、具体的で双方向的な問題解決を積み重ねる場所を作っていくべきだという話をしています。

特に大事な話は、私のクライアントの会社で、地方の中小製造業の話をしているところです。

「跡取り息子」さんが亡くなってしまったのでまだ30歳前後の娘さんが「跡取り候補」として入社して頑張っておられるんですけど、凄い「新旧世代の活発なコミュニケーション」が起きていて、会社全体が良いサイクルに入ってるのを感じるんですよね。

(上記記事より引用)

最初は若い女性の視点から見て「古い会社のココがおかしい、あそこがおかしい」と感じていたようなのですが、最近は徐々にその会社への理解が深まり、一歩一歩、会社を生まれ変わらせているのを見て、私は大変勇気をもらっています。
・社長の古いパワハラ的なやり方を否定しつつ、その意図を汲んで言葉が足らないところを補って社員たちに説明してあげる役割を担う。
・社員の創意工夫を吸い上げる仕組みづくりをし、その成果に対して社長が“言葉に出して褒める”ように促す。
・跳ねっ返りの若い社員の意見を取り入れつつ、周囲との間を取り持ってやる。
・新規顧客を獲得する動きに自分自身も積極的に参加し、女性の次期社長という珍しさをプラスに利用して人間関係を築いていく。

…こんな感じの動きで、まるでガン細胞だけを丁寧に取り除いて残りの健康な臓器を活かす熟練の外科医のように、「古いものと新しい発想」を溶け合わせて、会社全体を蘇らせているのを感じています。

上記のように、話を聞いていると「跡取りあるある」としてよくある、いろんな年配社員から受ける挑戦的な「試練」のような要素も乗り越えながら信頼を獲得していく流れの中で、会社全体が良い方向に変わっていくのを感じています。

昭和の日本というのは「男社会」の中に問答無用のチームワークがありましたが、最近の日本は、そこがやたらとお互いの競争心からいがみあったりして不自然になりがちなんですよね。

そこに女性の力が組み合わさることには非常にポジティブな意味がある事が多いです。

昭和時代のようにパワハラ的に無理やり一つにまとめる形が機能不全化してきた結果として、今の日本には変な意地同士がぶつかり合って機能不全になっている縦割りの部分が沢山あります。

その「壁」をプレーンな形で壊していき、「変なメンツにこだわらずにちゃんと話す」「ちゃんと動かしていく」ことを丁寧に行い蘇らせていくプロセスには、若い女性にとっても主体的に「活躍する楽しみ」をリアルに体験できる領域が沢山生まれてくるでしょう。

今はその「変えていく先」のビジョンが日本社会の実情をちゃんと理解してない、借りてきた欧米の理想をぶつけて「日本ってダメだよね」っていうだけの議論しかないから、結局日本社会も撥ねつけるだけで終わってしまいがちです。

今後そこに「双方向的に変えていける具体的なビジョン」が普及してくれば、「女性の活躍の場所」は必ず見つけていける手応えが私には明確にあります。

もちろん、上記記事の例は、「跡取り候補」として期待されている特殊な事例であることは確かだと思うんですよ。世の中にいる普通の女性から見て同じ状況がかんたんに手に入るとは思わない。

ただそれを見ていて単純に思うのは、

ちゃんとそこに「双方向的で実際的な変化」が起こせているなら、それが持つ「リアリティのパワー」みたいなのはちゃんと伝播していくのだ

…てことなんですよね。

SNSの中で恨み言を延々言ってるよりも、ちゃんとリアルに現実社会の中でぶつかりあって、意見の違いを調整して、会社やその社会などの自分達が属している集団が良い方向に向い始めたら、そっちの方が絶対楽しいしやりがいもあるよね…という感覚は、紛糾し続ける対立を本当の意味で癒やすパワーがあるなと感じています。

しかし、例えば昨今の女性活躍推進運動が、「日本社会側の事情」をキチンと理解せずに、単純に数字的な目標を達成するだけのために「なぜ欧米のようにできないの?」と押し込むだけで終わってしまいがちなことが、余計に感情的対立を誘発していると私は感じています。

欧米とは産業の強い分野も働き方の文化も社会の風潮も全然違うことを理解し、それぞれの事情を徹底的に拾い上げた上で、「日本ならではの女性活躍」を丁寧に作っていくムーブメントを両側からサポートすることによってのみ、延々と続く空疎な押し問答から脱却する道が見えてくるでしょう。

要するに、ちゃんと「双方向的に具体的に」互いを理解する場所を設定することができさえすれば、「ベタな正義(=”ムスカ”的なエネルギー)」同士を延々と交わらない形でぶつけ合い続ける必要がなくなるわけです。

2●「今それがそうなっている理由」に向き合って変えていく

特に日本の場合問題なのは、「欧米ではこうなのに」っていうだけで、「実際の日本社会側の事情」とか全然理解する気がないムーブメントがやたら盛り上がりがちだということです。

結果として、「日本社会の実情」に対して責任感を持っているのは自民党的なものだけ…みたいなことになりかねない。

それが嫌なら、

「俺たちリベラル派の方が、単に欧米の事例を持ってきて批判するだけでなく、日本社会の実情を深く理解して改善策を考えることにおいても、自民党より上だぞ!」

…という部分をもっともっともっと徹底的にエンパワーしていかないと、あまりにも無理解な「なんで日本ってこうじゃないの?」vs「うっせーここは日本だ黙ってろ」的な空虚な罵り合いを永久に続けることになってしまう。

例えば、アメリカや韓国みたいに解雇が簡単な国にすれば確かに給料は上がるんですが、それはしないってほぼ国民的合意として決めてるわけですよね?

じゃあ、「グーグルやサムスンは凄いなあ。それに比べて日本の経営者は…」とかいう批判をしてても意味ないですよね?

「あえて解雇が簡単な国にはしない」って自分たちで決めたんなら、グーグルとかサムスンがどうこうとか言ってないで、それでも賃上げできる道を考えないと実現するわけがない。

この本でも紹介した通り、私のクライアントで、中小企業だけどこの10年で150万円ほど平均給与を上げられた事例があるんですが、「よほどの事がないと解雇ができない」情勢下でそれをやるのは物凄い難しいことだし、「そこにある特有の難しさ」とちゃんと向き合って変えていかないと実現しない課題なんですね。

「日本でも解雇規制緩和するべき」っていう「維新」型の主張は一定の合理性があるわけですが、それはしないっていう主張をするのなら、「それでも賃上げできる方法」を考える流れにちゃんと協力していかないと。

今の日本はその「日本社会の実情」に向き合う気がなくて欧米の事例持ってきて批判して終わりな勢力か、ある種の現状追認的な惰性かどちらかになってしまいがちなんですね。

その幸薄い永久戦争を超えていくためには、「日本社会の現状を批判する側」に、

「反対者の言っていることに納得したりはしないが、そこには強烈な反発が起きるだけの理由はナニカがあるらしい」

…という態度で問題を深堀りしていくムーブメントが必要なんですよね。その態度を保持できるかどうかが、「ムスカ」になっちゃうかどうかの分かれ道なわけです。

3●日本の強い産業分野における女性活躍はどうすれば進むのか?

例えば、私のクライアント企業には中京圏(岐阜・愛知・静岡西部など)の会社が多いのでいろんな事情に触れる機会がありますが、中京圏はトヨタ以外にも世界的に活躍しているメーカーの蓄積があるので、なんだかんだ高給出せて海外駐在などの可能性もあって…という仕事は結構あるんですよね。

でも愛知県はその「高給を出せる仕事」を求めて男が大挙して流入している反面、女性はかなり流出超過になってしまっている。

勿論、愛知県のメーカーの風土が女性に対して無理解な側面もあるにはあるでしょう。

でも一方でいろんな人が口を揃えて、「女性が求めるタイプのキラキラな仕事がない」って言うんですよね(笑)そういう仕事をしたければ東京行くしか無いって。

でもその「ギャップ」って、「ジェンダー関連の差別」のせいかっていうとそれだけじゃないですよね。キラキラしてない産業かもしれないが、地味なB2B分野かもしれないが、そこで必死に産業を立ち上げてきた人々の歴史とそれによって支えられてきた地域の暮らしを何だと思ってるんだって話で。

ジェンダー系の議論で物凄い丸めた平均値的な数字で男女の給与差…みたいな話をする事にアンフェア感があるのは、「じゃあこの地味だけど高給な仕事」ってのに女性も入ってきてくださいよ・・・みたいな議論が放置されてしまうことなんですよね。

でも実際、どっちも選べるってなったら、「日本が世界シェア一位を取っているような地味だけど高給出せるB2Bの仕事」じゃなくて「それほど高給じゃないけど東京にあるキラキラな仕事を女性は選んじゃうじゃん」みたいな現実があちこちにある時に、「平均値の数字がバランスしてない」ことを全部「男側の差別のせい」ってことにするのは凄いアンフェアなんですよ。

その「全部丸めた平均値的数字」でアンフェアな殴り方をしまくるから、実際問題として「一つ一つの職場」における具体的なミスマッチを解消していく動きに両側から知恵を絞ることができなくなってるんですよね。

実際私のクライアントで、愛知県の地味なメーカーだけどまあまあ女性活躍も進んでいる会社があって、その経営者の彼が言ってたのは、

・「営業事務」という職種名だと女性は来てくれないからマーケティングマネージャーという名称にする
・女性トイレの数を増やす
・社食のメニューに丼モノとか揚げ物が多かったところに女性用のメニューを増やす

…みたいな結構涙ぐましい努力をしている(笑)

「職種名を”営業事務”じゃなく”マーケティングマネージャー”にしたら来てくれた」って凄い子供だましな気がしますけど(笑)、就活の段階ではその程度の子供だましでフラッと入社しちゃったとしても、その先ちゃんと「リアルな仕事の楽しみ」を感じてもらえれば、

「学生時代は東京で雑誌とか作りたかったけど、なんとなく入社したこの会社のこの非常にマイナーな産業材の仕事もなかなかやったら面白いじゃない」

…みたいになる余地は十分ある。

でもこれ、愛知県のメーカー側から「キラキラに寄せる」「女性側のニーズを汲み取る」だけじゃダメで、双方向的に「愛知県のメーカーの強みとか蓄積の歴史」に対して女性側がリアルに興味を持ってもらう取り組みが必要ですよね?

4●「差別への断罪」でなく「具体的なミスマッチを双方向的かつ具体的に無数に解決」が必要

こういう時に、SNSで交わされてる議論っていうのは全然実際的な変化に役に立ってないんですよね。

「女性が理系分野に興味を持ってもらう取り組み」は凄い大事なんですけど、それを「男が差別して女性を無力な立場に追いやりたいからだ」みたいな事言ってると細部の事情を読み出して微調整を積み重ねる議論が吹き飛んじゃうんですよ。

特に、日本において特有のB2Bメーカー蓄積が強いのは、伝統的に日本の「理系」分野と「現場レベルの工員」との間の親和性が高くて、その「油臭い連携」が特有のイノベーションに繋がってる構造があるんですよね。

欧米の一部のように、「理系分野の研究者」が「現場レベル」と隔絶した存在として扱われていなくて、密な連携を確保することで自分たちの強みを確保している。

「こういう関係性」って、グローバリズムの無理解の中で雲散霧消されかねない、自分たちの強みのコアが破壊されかねない脆弱な状況に置かれているので、ただ単に愛知県のメーカーが「閉鎖的だ」という批判はアンフェアなんですよ。彼らは彼らで必死に「現代社会におけるマイノリティ性」と戦いながら自分たちの強みを維持しようとしているので。

でも、「オンナはどうせこういうの興味ないんでしょう?」っていう話でもなくって、そりゃいわゆる「港区女子」みたいな人は興味ない人が多いかもしれないが(…というのも偏見である可能性はあるけど一応ね)、実際にはそういう「油臭い技術分野」に興味がある女性だって確実にいるはずですよね?

なんかこないだSNSで「メカいじりっぽい知育玩具」の女の子向けにピンクピンクしてるやつが結構人気で、ソレに対して「ジェンダー論的に女性がピンクという偏見が…」みたいな論争が起きているのを見たんですが、でも実際にはとりあえず「リカちゃんがツナギを着てメカいじりをするオモチャ」とかが導入としてはあっても全然いいはずですよね。

そこで「レゴ」みたいな純粋アカデミア志向のものが入り口になるんじゃなくて、「メカいじり」的な部分から入ってくれないと共有できないカルチャーがここにはあるんですよね。

そういう「ローカル社会側の事情」への解像度がめっちゃ低い議論をするのは、それはそれでこの多文化共生社会においては欧米文明中心主義のテイコクシュギ的差別構造なんですよ!

日本における差別問題には常にこういう課題があって「日本文化」自体が「グローバルな欧米文化による圧迫の中でのマイノリティ性」を帯びている部分が確実にあるので、それへの抵抗的防衛反応ゆえに余計に保守的にならざるを得なくなっている構造があるんですよね。

だから逆に「その日本社会側の事情のマイノリティ性」をも迎えに行く姿勢で「具体的で双方向な工夫の積み重ね」が動き出せば、今は物凄い大問題のように紛糾するタイプの(例えば家事の分担がどうだとか、同性婚とか夫婦別姓がどうこうとか)みたいな問題で「なんで当時は揉めてたんだろうねアハハ」って感じになってもおかしくないと思っています。

そうやって日本社会側の「事情」を全部「差別だ!」って切り捨てる前に、「なぜそこがそうなっているのか」を深く理解すれば、そこで女性が活躍できる仕組みを整えていくってことは、「ジェンダー論の学者の知見」と「メーカーの文化やその強みの源泉がちゃんと解っている人の知見」の”両方”を持ち寄って一つ一つ解決していく必要があるってことは当然すぎるほど当然なことなはずです。

ここで大事なのは、「港区女子も含めたキラキラじゃないと生きていけない女性」のニーズではないんですよね。

そもそも日本女性が過剰に「キラキラ」を求めがちな事自体、ある種の女性抑圧の結果とも言えなくはないと思うので(なんで女性だけ化粧を…とか”ヒールの靴が苦痛だ運動”みたいなのの延長ですよね)、そういうところに新しい協力関係を作っていく必要があるんだと思います。

よくフェミニストが言う「男が活躍するように女も活躍したいだけなのに」っていうのは旧来の日本社会にとって「敵」ではなくて本来その先に新しい関係性を見出していく事が可能なロジックであるはずで、女性だけが「キラキラしてなくては」という強迫観念から卒業し、多少は油臭い分野でも活躍してもらえるような文化の形成をしていけたらあらゆる人がハッピーなはずなので。

以前、鬼滅の刃の胡蝶しのぶさんの活躍の仕方には、ある意味で女性作者ならではの「新しいタイプのガールズエンパワーメントがある」っていう記事を書いたんですが…

「オンナに柱なんか務まるかよぉ」
「言ったわね!見返してやる!」
「うわああああやああらああれええたあああ」

…みたいなアホなストーリーじゃなくて、鬼殺隊という組織の中で自分にしかできない仕事を見つけて、千年以上続く鬼との戦いの中で男の柱たちがなし得なかったような局面を劇的に変える貢献をする…みたいな胡蝶しのぶさんの活躍には、変な接待プレイみたいなのじゃなく「ゴクウとかゴンみたいに普通にオンナも活躍する」というビジョンが凄いあると思います。

追加のこの記事には、現代社会の中で女性が活躍する上で非常に参考になる胡蝶しのぶさんの振る舞いとは?という話をしています。

ともあれそうやって両側から協力しあって、「油臭い産業分野にリアルな興味がある女性」を育てて、で、そういう女性が実際に愛知県のメーカーで働くとしたら

もともと結構興味があって就職して、ここまで仕事凄い頑張ってきて色々と知らなかった世界を知れて凄い充実してはいるけど、さすがにアラサーを迎えて、ライフステージ的に出てくる色々な問題について、”こういう部分”での無理解はしんどくて最近転職を考えちゃってるんだよね…

…みたいになっている「特有のミスマッチを具体的に双方向の知恵を絞って」解決していく必要がある。

実際、こういう声↑も結構聞くんで、そういう時にはジェンダー論的な、例えば「マイクロアグレッション」みたいな概念だって意味があるんですよ。

でもその「マイクロアグレッション」の解消に両側から知恵を集めるためには、そもそも「その産業が日本で強みを発揮できている理由」の部分を、女性がわからも双方向的に掘り出そうとしてくれないと、結局「なんで欧米みたいならないんですか!」って無理強いの要求ばかりを延々されて、「チッうっせーなー」って感じで形だけ整える…みたいなしょうもないディスコミュニケーションを延々と続けることになってしまう。

そこをちゃんと「リアルで具体的に双方向化」していけば、「日本社会側の事情や強みの源泉」を理解した上で、空虚なインスタ映えキラキラ競争なんかより、そういうフィールドで「自分が貢献する喜びを感じたい」と思っているタイプの若い女性っていうのは明らかにいるはずですよ。(そうはいっても会社側も最低限キラキラに寄せていく…というのは必要になるにせよね)

大枠のSNSでの差別論争とかやっててもどんどんお互いへの憎悪が募るばかりですが、実際にそういう「双方向のニーズのすり合わせ」に集中していければ、そういう若い女性の日本社会への期待を裏切らないように、なんとかしたい…という自然なムーブメントを引き寄せることができるでしょう。

実際、クライアントの例でも「女性が入ってくると雰囲気全然変わるし、自然と過重労働はしないようにしようという自律感も出てくる」っていう話ですし、そういう意味でも双方向でWin-Winな関係性をいかに作っていけるかが大事なんですよ。

もちろん、ここまで述べてきたのは日本で現状強いB2B産業分野における…という意味であって、もっと他にも、ソフトウェア産業の場合とか、お医者さんの場合とか、官僚の場合とかアカデミアの場合とか、

「それぞれにおいて、一個一個全然違う具体的なミスマッチがあるんで、社会を一個の切り口だけで断罪しまくるような世界観では解決できないのだ」

…ってことを理解する事が必要なんですね。

特に、こういう「古くからの日本の強み」と新しいソフトウェア分野とかグローバルなアカデミアの知見との融合みたいなテーマが今の日本では凄い大事なんですが、日本側のコアの強みを崩壊から守りながら、縦割りの壁を壊して新しい知見を次々と導入していく両取りの変革が実際に動き出せば、そこに「女性が活躍する」余地は必ず生まれてくるはずです。

でもそのためには、「壮大な差別論で延々と誰かを糾弾し続ける」んじゃなくて、「実際それぞれの分野におけるミスマッチを具体的に”両側から”知恵を集めて解消していく」必要があるんですね。

5●アメリカ由来のリベラルのどこが間違っているのか?

この「事情を理解して変えていく」ってことが、「アメリカ由来の反差別運動」は苦手というか、むしろ「被差別者」はそんなこと一切気にしないで徹底的に糾弾していくことが使命なのだ!という”神学”をどんどん先鋭化させていって人間社会を引き裂いていってるんですよね。(それが確かに必要な局面も”限定的には”存在するという話は”後編=理論編”で述べます)

アメリカのリベラル派の「神学」ではそこで「現状そうなっている理由の理解」を徹底的に拒否しているので、双方向的に実情をすり合わせて変えていくことが全然できていない。

結果として、「LGBTQ」の後に略称アルファベットが増え続けるような事には必死になる反面、公立小学校の校区ごとに予算が違いすぎて格差が固定化されてしまっている問題のようなアメリカ社会の根本問題は全く手つかずになってしまう。

過去のカバー曲を歌う時に歌詞の中にあるnXXgaって部分を黒人以外が歌ったらメチャクチャ糾弾されるみたいな事は超神経質だけど、実際に黒人が多い貧困地域の小学校の予算は金持ち地域とぜんぜん違うので格差が国際比較で見ても強烈に固定化された社会になってしまっている

こんなの↑、めちゃくちゃ「格差解消をやってるフリだけしてる」社会みたいな感じじゃないですか。

いやいやもちろん、LGBT+Xの人たちが排除されたと感じない社会構造とか、黒人が経てきた歴史への敬意とか大事ですよ?でもそこで、「相手が突っ込みやすい部分」だけ最大限物凄く大げさに「配慮してみせる」事だけをして、格差の根本問題的なものは全然手つかずのままとかいうのは明らかにバランスを欠いていますよね。

これこそが唯一絶対のやり方で逆らうヤツは差別主義者だ!みたいなことを押し込みまくったら、そりゃ世界中から反発食らうに決まってます。

世界中の多くの国はまず食っていくのに忙しくて、「アメリカでは大問題なこと」で同じように大騒ぎしないからといって「差別主義者だ!」とか糾弾されたらたまったものじゃないですよ。

日本でこういう課題が一番紛糾しているのが、たとえば先日の私立大学医学部入試の男女差別問題で…

その背後には、世界一の高齢化社会の中で地方でも都会でも日本クオリティの医療を提供するための現場の必死の取り組みの結果起きていることだって、普通の想像力があればわかるはずですよ。

これもさっきの解雇規制の問題と一緒で、「欧米なら問題なくできてるのに」の「欧米の医療」と日本の医療では目指しているレベルが全然違うわけですからね。

昔ネットで匿名の女性医師が、「女性医師も厳しい労働環境の診療科で頑張って働かないと、今後女性医師が増えたら医療崩壊してしまう。それはわかってるから頑張ろうと思ってたけど、私だって結婚したいし子供もほしい。だから申し訳ないけど私はラクな診療科に行って今の彼氏と結婚します」みたいな記事があって凄い印象的だった(私が医療崩壊のトリガーになる未来)んですが、そうやってなんとか「日本クオリテイの医療」をユニバーサルに維持している必死の努力がそこにはあるわけなんですよ。

その崩壊を過重労働で必死に崩壊を食い止めている人たちからしたら、「女性を抑圧したいからそうしてるんだろう」みたいなことを言われて怒りを感じない方がおかしい。

現代社会で女性アクティビストに与えられている政治パワーって物凄いんだから、その問題をきっかけに「どうすれば女性差別をしなくても日本の医療システムを崩壊から守れるのか。その方法を冷静に議論しましょう」という方向に議論を誘導することはできたはずだし、実際一部のしっかりした制度研究者は問題提起をしているのを見ました。

でもそれ、結局「男が女を抑圧しているという神話」にこだわっている限りちゃんと政治課題として真ん中に持ってこれないんですよね。

さっきも書いたけど、今の日本社会が縦割りのままで身動き取れなくなっている現状の中で、女性差別を切り口に「あるべき新しい全体最適」にリードしていってくれる議論をするってことは、今後の日本社会で女性活躍を進めていく上では必須不可欠な視点なんですよね。

「日本的安定をギリギリ崩壊から救っている人びとの献身」を足蹴にするような形で、「女性を抑圧したいからそんなことをしてるんだろう!」みたいな議論をしていたら、結局「チッうっせーな」的に形式的な女性差別を部分的にやめるとしても、その先の展開が全然起こせなくて結局膠着状態になってしまう。

だからこそ「借り物の理想で殴りまくる」前に「今そこがそうなっている理由」の深堀りがもっと必要なんですよね。

そして、ジェンダー論にハマるとこの社会のありとあらゆる側面が「差別だ!」って感じに見えてくる人がいて、そういう感性で問題を発見していくことが無意味とは言わないが、実際に解決していくとなるとそういう発想では「双方向性」が生み出せないから行き詰まるんですよ。

単に過去には「役割分担」として過去あったものを、「新しい役割分担」に変えていきたいですね…とプレーンに理解できるようにならないと、「今の社会がこうなっている理由」を冷静に読み出して改善することはできないわけです。

そういうやり方では、結局「LGBTQの後の略称を増やし続ける」ことはできても、「公立小学校の校区による予算が全然違うこと」みたいな根本問題は放置される「アメリカ社会あるある」に陥ってしまうんですよ。

実際、本当に「日本の医療を今後どうすればいいのか」という根本問題に議論をフェミニズムが誘導してくれていたなら、「日本社会にとって凄い頼りになる!」って皆思うし、女性への蔑視感情なんて一気に吹き飛ぶはずですよ。

「その社会の実情を理解せずに上から目線の借り物の理想で文句だけ言う。全部社会のせいにする。改善への地道な動きは馬鹿にする」

こういうの↑が嫌われない社会があるわけがないんですね。

ただ、今の世の中には「女なんてワガママな存在なんだから、どうせそれぐらいしか考えられないんだよ。期待するだけ無理があるんだよ」みたいな事言う人いるんですが、私は個人的には全然そうは思わないんですよね。

ただ「今の時代女性を代表しているとされているムーブメント」に相乗りしている色々なものが、こういう無責任な性向と合体しがちなだけで、「より一歩先」の責任を引き受けたいしその能力があると思っている女性は沢山いるはずです。

社会全体の構造的な転換のレベルにおいて「双方向的」に、「日本社会の実情」を理解して変えていく機運が高まっていれば、じょじょに「共有基盤」ができてくるので、そしたらSNSで日々盛り上がっている「家事の分担」とか「表現の自由」界隈の問題なんかは、「別にそんな大声で対立することもなかったよね」的に解決に持っていくことができるようになるでしょう。

そういう「双方向性」を取り戻し、あらゆる論争が「ムスカ化」するのを防いでいく方法について、我々は真剣に習熟しないといけない時期に来ているわけですね。

とはいえ、こういうのって「社会のほんの一部の恵まれた環境」でそういう双方向性が実現できたとしても、どうせ世の中全体では無理だよね・・・って思ってしまいがちですよね。

あるいは、そうやって「双方向性が大事」ということが重視されすぎると、結果としていつも負担を押し付けられてしまうタイプの人の異議申し立てがしづらくなってしまうのでは?という”正統派のリベラル的良心”からの躊躇もあるはず。

どうすれば、社会のどこかに過重な負荷をかけずに、こういう「具体的な双方向性」を社会全体に押し広げていって、果てしなく分断されゆく人類社会を繋ぎ止める揺るぎない橋をかけることができるのでしょうか?

そのためには、ここまで書いてきた「具体的な話」をもう少しマクロに理論的に見て、今の人類社会における日本の立ち位置とか、その中での立ち回り…という発想で捉え直す事が必要なんですね。

そこで私が提唱しているのが「メタ正義感覚」という発想法なんですが、それは稿を改めて「後編=理論編」をお読みいただければと思います。

長い記事をここまで半分(前編=実践編)をお読みいただきありがとうございました。

引き続き残り半分(後編=理論編)を読んでいただくとして、このページのここ以後では、今月見てきた新海誠の新作「すずめの戸締まり」の話をしたいと思っています。全然期待せずに見に行ったんだけどメチャクチャ凄い作品で、びっくりしたんですよね。

全体的な感想についてはツイッターで連ツイして、結構読まれたので

倉本圭造の言動を追ってるタイプの人は読んでいただいたかなと思うのですが。

これについて、ツイッターでいろんな人が意見をくれて、凄い考えさせられた話があったんですよね。

というのは、もともとの私の連ツイは、

「新海誠の過去二作(”君の名は。”と”天気の子”)は、「君と僕のラブストーリー」の結果として世界が天災でひどいことになっても全然いいじゃんという無責任さがあったけど、今作(すずめの戸締まり)は、そうやって「自分たち個人だけのリアリティ」を突き詰めた先に、社会への新しい「献身」の形が見えてきている大きな転換があるところがめっちゃ今の時代に重要な感じ。「ジブリ」を継承する「次の国民的アニメ」を引き受ける気概を感じた。

…みたいな話だったんですよ。(もっと他の話題も色々あったので良かったら連続ツイートを読んでいただければと)

でもコレに対して、いろんな人のいろんな意見があったんだけど、2つ大きく「ナルホド!」と思ったのは、

1・「天気の子」はむしろ社会の問題を若い世代の犠牲で埋め合わせるようなことを辞めるという強い決意があってそこが良かったのだ。それをやりきったからこそ今作があるという風に理解できるはず。

2・結局今作も、「要石」としての犠牲になる「ダイジン」がいてこそめでたしめでたしだったわけだけど、でもその「ダイジン」が一度要石であることをやめちゃったのに、最後に必死にその使命を果たしていた理由がわからない。結局誰かに押し付けて安定してるという意味では同じでは?

この2つ↑凄い考えさせられました。

あともう一個、私は「文通」を通じていろんな個人と人生を考える仕事もしていて(ご興味があればこちら)、そのクライアントのあるワーママさんが言ってたのは、

3・すずめの叔母さんが、すずめを引き取った事で個人の人生がメチャクチャになっちゃったってつい言ってしまうシーンが我が事のように共感して辛かった。勿論3人目を産んだことを後悔はしてないし、それで得られた人生の喜びも沢山あるけど、それでキャリアを棒に振ってしまったという気持ちが無いと言えば嘘になる。作中ではそういう「言ってはいけないこと」を口にしてしまってから、でもそれによって色々と成仏したものがあったような描写だったのではないか。”ダイジン”より強力な”サダイジン”が出てきたのもそこからで、そこで「誰にも言えない思い」を表に出したから動き出した物語というのがあると思う。

↑これもなんか凄いグサッと来たというか、感想として心に響いたんですよね。

と、いうわけでここ以後は、上記の3点のいろんなコメントに対して、思うことを色々と書きます。

結局、この記事でさっき

そうやって「双方向性が大事」ということが重視されすぎると、結果としていつも負担を押し付けられてしまうタイプの人の異議申し立てがしづらくなってしまうのでは?という”正統派のリベラル的良心”からの躊躇もあるはず。

っていう話をしたけど、まさに「その問題」だよな・・・って思うんですよね。

その中で、「すずめの戸締まり」はどういうビジョンを描いているのかとか、これからの日本が「この課題」をどうやって扱っていくべきか?みたいな話を以下ではします。



2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。

「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。

また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

また、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。

ここから先は

4,079字
最低でも月3回は更新します(できればもっと多く)。同時期開始のメルマガと内容は同じになる予定なのでお好みの配信方法を選んでください。 連載バナーデザイン(大嶋二郎氏)

ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?