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ひざまづけ!命乞いをしろ!…リベラル派の『ムスカ化』を超えるためのメタ正義入門(理論編)

全世界は再びリベラル派の元にひれ伏すことになるだろう!!
リベラルは滅びぬ、何度でも蘇るさ!リベラルの理想こそ人類の夢だからだ!」

(トップ画像はジブリ公式から)

これは前編=実践編↓に引き続きの後編=理論編なんですが・・・

前編↑では、最近フェミニズムに限らずアメリカ由来のリベラル派の理想が、「天空の城ラピュタ」の「ムスカ」のように高圧的な感じになりがちで、それで結局その「理想」ごと吹き飛んでしまいかねないバックラッシュに晒されているよなあ・・・っていう問題があって。

それを超えていくためには、もっと「果てしない断罪ごっこ」を、「具体的で双方向的な工夫の積み重ね」に置き換えていくことが大事ですよね、みたいな話を、色々と具体的なコンサルティングの事例とかをしながら話しました。

でも、そういうのが「うまく行ってる」例って社会の中のホントの恵まれた例だけで、ネットのSNSを見たら今日も罵り合いにあふれているし、社会全体で見たらそんな理想を広く普及させるとか無理なんじゃないの?みたいな疑問は当然沸いてきますよね。

なので、その「前編」で書いた理想を、ちゃんと社会全体で共有していくために必要な考え方は何なのか?について書いたのがこの「後編(理論編)」ということになります。

とりあえず前編の方から先に読んでいただければと思います!

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●メタ正義感覚とは、「論敵の言ってること」でなく『存在意義』に着目して解決を目指す発想

私の本業は経営コンサルタントなんですが、あるクライアントにもっと「メタ正義感覚」っていう言葉を使ってくださいって最近言われる事があったんですね。

「メタ正義感覚」は自分が提唱している言葉だから、なんか照れもあって、ヒット曲の歌手がテレビの歌番組で歌い方変えちゃうみたいな感じで(笑)、普段はわざわざ言わないか、サラッと扱う事が多かったんですけど。

でも逆に世の中の人はそういうコアコンセプトを提示してくれたら、あとは自分たちで好きにやるからいいよ!っていう気持ちがあるんだなというか、私から見た自分の「照れ」は一種のマイクロマネジメント志向(細かい部分まで口出ししようとしているという意味において)に過ぎないところもあるなと。

というわけで、今後は自分の役割として「メタ正義感覚」という言葉をもっと使っていこうと思っているんですが…皆さんもぜひ日常的に使ってください(笑)

まず以下の図を見てほしいんですが、自分とは意見が違う「敵」に出会った時に、以下の質問のように順番に考えていくといいんですね。

まず質問1で「敵」はアイツラだと定めた上で大事なのは、質問2の「敵の存在意義を考える」っていう部分なんですよ。

この「敵の存在意義」は「敵が言ってること」ではない事に注意が必要で…

経験的に話している上で一番わかってもらいやすい実例が以下のものなんですが…

あるマニア向け商品の小売店で、ずっと使ってたスタンプカードを携帯アプリに置き換えるって話があったんですが、結構揉めてたんですね。

でもその「反対者」が「言っていること」にまっすぐぶつかっていって議論してもあまり意味はないことが多いんですよ。忙しい現場の人は「なんとなく」で話すので、それは本当の理由ではないことも多い。

だからその「なんとなく」に対して「論破」をしかけていっても生産的ではない。

そもそもそこには、「スタンプを溜めてたお客さんが離れてしまうんじゃ?」みたいな漠然とした不安があって、それを教えてくれている「存在意義」があるわけなんですよ。

それさえわかれば、

・じゃあ大事なお客さんが納得できる溜まったスタンプとアプリのポイントの交換比率を考える
・これまでの感謝とハートフルなつながりを演出をしながらアプリを紹介する手続きを考える

ってことをやればいいんだな・・・とわかるし、実際そういう風に進めていけばそもそも「対立」していた意味がなくなるぐらいスムーズに進んだりもする。

これは上記の「メタ正義トライアングル」で言うと「質問4」的な解決策で、「論敵の存在意義」を自分たち側の工夫で乗り越えたらその反対は無視して押し通すことが可能になりますね・・・っていう道ですね。

逆に「質問5」のように、相手の存在意義を理解したからこそ、でも(質問3で答えたように)自分たちには自分たちで譲れない理由があるんだからそれぞれで「棲み分け」をするゴールを目指すという道もありえます。

まあ同じ会社の中なら「棲み分け」は無理な事が多いだろうけど、社会全体という意味では「棲み分け」が可能になるかもしれない。一方で最初は「棲み分け」られていても、世の中での自分たちの存在感が大きくなってくれば「棲み分け」では終われなくなって、完全に「相手の存在意義」を向き合って解決する道が必要になることもある。

・・・というのが「メタ正義感覚」の概略なんですが、まあ詳しい話は以下の本をお読みいただければと。

日本人のための議論と対話の教科書

2●揉めてるからには解決すべき課題がそこにあるという発想

で、これは単に「揉め事を回避して物事を前に進ませる方法」だと思われがちですし、私も少しそう思っていたところがあったんですが、最近実際にこういう言葉をどんどん使いながらコンサルティングをしていく中で解ってきたことは、

「メタ正義感覚」は揉め事の解決法というより、「問題がどこにあるか」を自動的にあぶり出すセンサーである

って事なんですよね。

実際にある方向に会社(に限らず、社会全体まで含めた人間の集団)を動かしはじめると、大抵は抵抗されて押し合いへし合いになります。

これ、大事なのは、メタ正義感覚とは「反対者と丁寧に対話が必要です」って事を言いたいんじゃないんですね。とにかく何にでも反対する事が目的で、物事を前にすすめるとかどうでもいいっていうタイプの人が人間社会には沢山いるからね。

でも、「相手の存在意義」に向かっていってそれを自分たちが解決していけば、「とにかく反対しかしない人」に邪魔される事がなくなるんですよ。彼らの「存在意義」を消滅させる方向に持っていくとはそういうことです。

人間社会、かんたんに押し切れる情勢なら押し切ってしまえばいいんですよ。そこまで強い反対の反応がないってことは、とりあえずその集団として「何もしないよりはやってみたほうがいい」って集合的に思ってるってことだからね。そしてやってみたらわかってくる事って沢山あるので、その知見が溜まってきたところでまた考え直せばいいわけで。

結果として、何かを推し進めていくうちに、だんだん反対派が勢いづいて押し合いへし合いになって、どちらにも進めなくなったとしたら、「その状況自体を素直に受け取るべきだ」という発想なんですね。

押し合いへし合いになってどちらにも進めなくなってきたってことは、「そこに解決が必要な問題が溜まってるってことなんだろう」と素直に受け取るべきなんですよ。

会社全体で見た時に、まずはある程度「こういう方向に進めば他より競争優位を作れる見込みがある」っていうビジョンを提示しておく事は大事ですが、そこから先は「次どうするべきか」を変に頭で考えすぎなくても、単に耳を澄ましさえすれば次々と「現場からのNO」は届いてくるので・・・

それを一個一個「メタ正義」的に取り上げて解決を目指していくだけで、ただただいわゆるPDCAはくるくる回っていくというか、会社は前に進んでいくんですね。

「何にでも文句しか言わない人」に影響を受けすぎないように、しかし「文句を言う才能」は抜群な人たちの問題発見能力はありがたく活用させていただいて(笑)、適切な距離感で自動的な課題発見機能として活躍してもらう事が必要なんですよ。

3●社会全体で見た時の「進歩派」との適切な距離感について

そういう発想を社会全体の課題について拡張する時に大事なのは以下の図のような発想なんですね。

何か社会に「問題」がある時に、それが「周知」されるまでと、「解決」を目指す段階では、向き合うべきやり方が変わってくるんですよ。

それを比喩的に「滑走路段階」と「飛行段階」って書いたのが上記の図です。

つまりまず「滑走路段階」として、問題がちゃんと周知されて、そこに解決するべき課題があるというコンセンサスができるまでは、「世の中側の事情とか一切無視して攻撃的に異議申し立てをする」必要がある領域もある。

この記事の『前編=実践編』の中で、アメリカ型リベラルの非妥協性が限定的に必要な局面もあるって言ったのはこの話です。

一方で、いざ社会がその問題を認知して、なんとかしなくちゃいけないですよね・・・っていう段階になったら、社会の他の部分のいろんな事情とすり合わせを行って、適切な解決策を模索して合意を取り付ける段階が必要になってくるわけですけど。

それを「飛行段階」と呼ぶとすると、「飛行段階」にすでに入ってる課題なのに「滑走路段階」の時のように「自分たち以外全否定」の形で吠えまくってたら、解決できないのは当然なんですよね。

そういうやり方だと、結局何度も言うけど「LGBTQの後に略称アルファベットが増え続ける」みたいなことはできるけど、「公立小学校区の・・・」以下同文な「アメリカリベラルのダメな例」的な事しかできなくなる。

構造的問題を全然解決できないだけじゃなくて、「問題が周知される」ということは「今までとりあえずそれで通していた現実解」を一度壊しにかかるということなので、「壊したはいいけどその先の再構築の責任を負いません」みたいな人たちの事は社会全体で恨まれますよね。

「壊した」からには「再構築」に参加しろよ・・・という話は当然出てくるんだけど、そこでもあえて「滑走路段階のモード」で自分たち以外が全部悪いっていう態度を取り続けると、社会の中にそのグループへの敵意を止められなくなってしまう。

ただね、「再構築する才能」は全然ないけど「全力で文句言い続けることの天才」っているからね(笑)

そういう人が「権力」を握って余計に社会がおかしくなった例というのは歴史上沢山あるので、そういう人にはむしろその人の「才能」がまだまだ必要とされている領域にどんどん移動してもらうべきだと思うんですね。

つまり「飛行段階」に入った課題からはどんどんフェードアウトしてもらって、まだ社会への周知が必要な「滑走路段階」の課題にどんどんシフトしてもらうと。

一方で「飛行段階」に入った課題は、もうちょっと社会の実情をリアルに理解できる人たちの範囲で現実的な解決策を練り上げて実装していくことが大事。

こういうマクロに見た時の「メタ正義的なメカニズム」を社会の中で適切に稼働させていくことで、今「世界の半分」にそっぽを向かれてちょっとした事で吹き飛んでしまいかねない危機にある「欧米型のリベラル思想」を「アップデート」していくのがこれからの日本の役割だと考えています。

自分の本からの図だと、要するに今の人類社会に渦巻く「リベラルな理想を求めるエネルギー」も、それと現実の細部とのすり合わせが不十分なために「リベラルの理想に反対するエネルギー」も、両方ともそのまま否定せずにこだわりなくそのまま吸い上げてしまう場所にしてしまえばいいんですよ。


これが「拮抗状態」になればなるほど、つまり片方側の内部的な論理だけでは押しきれない状態になっていけばいくほど、「現地現物にメタ正義的解決」ができる存在の価値が消去法的に急激に高まってくるんですね。

過去30年は、リベラル派が頭の中で考えた理想を問答無用でゴリ押ししまくれる方が強かった。あるいは「反欧米」的な方向性で中国みたいに強権的にゴリ押ししていく方が強かった。

しかしそういう「ゴリ押し」が「”全人類のあらゆる個人”がアメリカレベルの政治的主張」をする時代になったら相互に打ち消し合ってどこにも進めなくなってくるんですよね。

例えばフェミニストにもアンチフェミニストにも「アメリカ的制度」が与えている「政治的パワー」は”原理的に対等”だからね。

そうすると、「ゴリ押し」が決して出来ない沼のような環境の中で、徹底的に現地現物の「メタ正義的解決」をやりまくれる国が勝てる環境にだんだん変わってくる。

日本の可能性はそこにあって、結果として私の本からの以下の図のように、「欧米的理想」と「非欧米的現実」の間を柔らかく受け止めるような、「ありとあらゆる概念的先鋭性を全て泥沼の現実の中に飲み込み、あくまで有機的な関係性の中に抱きとめるサスペンション」としての日本が人類社会の中で必須不可欠な役割を果たせるようになっていく。

4●「自由主義」をあくまで維持したままやる、『ムスカをあぶり出す作戦』について。

で!

ここからが大事なポイントなんですが、ここまで書いてきたような「メタ正義」的なムーブメントを、「個人の自由」を一切侵害しない形で実現しないといけないんですよね。

社会をある方向に進めていきたいとして、それに対して「異議申し立て」をしたいなら必ずできる自由が決して侵害されないようにしながら変えていく必要があるんですよ。

そうじゃないと、欧米的理想が社会を不安定化させるからって中国的強権が素晴らしいよね、みたいな話と変わらなくなっちゃうからね。

その方法については、詳しくは私の本を読んでいただきたいですが、単純に言えば、「どんな事を言いまくるのも個人の自由だが、それで信用をなくしていくのも個人の自由」ってことですね。

もっとわかりやすく言えば、冒頭で書いたような「ムスカ」性をどの陣営からも白日のもとにさらしていくプロセスが大事なんですよ。

結局自由主義社会では、以下のグラフで『合意形成のデスバレー』って書いてある部分のように「中庸的なリアリティ」を持った部分のコンセンサスがなかなか取りづらくて、保守派方向にある程度過激か、改革派方向にある程度過激なところに「2つの凸」ができちゃうんですね。


でもこの状態を放置していると、この「2つの凸」の中で、いわゆる”エコーチェンバー現象”的に過激化が進んでいくじゃないですか。

自分たち以外の価値観を認めず、ソレ以外をディスりまくるようになり、仲間内でもちょっとした違いで喧嘩をするようになり…という風になっていくので。

そうすると、この「2つの凸」の間がだんだん過激派と穏健派に分離されてくるので…

だんだん「2つの凸」が分裂してきて…

真ん中に集まってくる↓


こういう変化を、これからの日本では起こしていかなくてはいけない。

これは、あらゆる「個人」に対する抑圧を一度すべて取っ払う事によって生まれる変化なんですね。そうすることで「あらゆるムスカがあぶり出されてくる」からね。

ネットのSNS世界が分断を呼んで、それぞれが好き勝手に暴走して吠えまくり、お仲間を集めて称賛される流れが起きれば起きるほど、不可避的にこういうマクロな変化が起きていく。

結果として、さっき貼ったこの図のように…

人類社会に渦巻く「リベラル」のエネルギーも「反リベラル」のエネルギーも一切否定せずに丸呑みにした上で、常に動的な調整が行われながら「メタ正義的解決」だけを吐き出していくような媒体に日本という国がなっていく。

そこまで行けば、果てしなく分断されていく人類社会の中で日本という国の存在価値は揺るぎなく否定できないものになっていくので、そういう国が経済的な繁栄ができないなどということはありえないというレベルまで行くでしょう。

5●『ムスカのあぶり出し』作戦のより具体的な話

さて、ここまではマクロに見た時の今後の日本が取るべき戦略の話をしてきたわけですが、では実際そういう方向性を、読者の皆さんそれぞれの「個人の行動」に引き戻して考えるとどうなるのでしょうか?

そこで、冒頭に紹介した「最近出した地味なウェブ記事」の話に戻ってくるわけですが…

要は、皆言いたいことを今のように言いまくっていればいいと言うことなんですよね。それを止める行為は、「自由主義」の看板を下ろすことになるから良くない。

いわゆる「ツイッターフェミ」みたいなことをやりたければやり続ければいいし、「ネット右翼」みたいな事をやりたければやり続ければいい。気持ちにフタをするのは良くないです。全部吐き出すべき。

しかし、過激な言動をしまくってSNSでのファンを集めれば集めるほど、そういうグループの「マス」への説得力は減衰する効果があるので、そういう「自業自得のメカニズム」が容赦なくどんどん進んでいってもらえばいい。

「真実に対する責任」は、いつも「消去法的に浮かび上がる」必要があるんですよ。

あらゆる個人が「自分に与えられた自由」を行使して、論敵を攻撃しまくるのを一切止めずにいれば、いずれそれぞれのムーブメントの中にある「ムスカ」性が明らかになってくるわけですね(笑)

冒頭では「リベラル派」についてだけそれを言いましたが、保守派側だって同じことが言える。反リベラルが高じて、アメリカにおける宗教原理主義派みたいになってしまったら、今回11月の米国中間選挙で共和党が苦戦してしまったみたいな因果関係に陥ったりもする。

要は、「個人の自由」を思う存分行使して、「この社会をどうすればいいのか?」ではなく「誰かを攻撃すること」に熱中しはじめれば、多くの「普通の人」からの信頼はどんどん減衰するので、その「失望現象」の先に本当の「リアルな改善活動」に人々の気持ちを吸い上げるように持っていければいいんですね。

6●「欧米社会がその外側に押し付けてきたもの」も内側に繰り込んでいくのが日本の役割。

「メタ正義」的に考えれば、日本社会で「端っこに追いやられている」と感じているタイプの新世代の女性から見た時に、「双方向的に具体的に」話す場所が日本社会に機能しておらず、SNSでの罵り合いだけが放置されており、何か変えたいと思ったら「うるさい!黙ってろ!」的な扱いをされてしまう事を人生の中で体験してきていれば、SNSの中の罵り合いに参加して日本社会を呪詛する気持ちになる事も、十分理解できる事ではあります。

しかし、これは逆の立場から見ても言えて、日本社会が他の社会よりも比較的安全で秩序感のある状態を保ち、スマホの中の小さな部品のような産業で世界シェアが物凄く高いような産業の強みが崩壊せずに残っている「特有の理由」を一切理解せずに、単純に欧米社会との比較から「遅れている」「もう先進国じゃない」などと一方的な批判をされる状態が放置されていれば、人生を賭けて献身し、日本社会の強みの部分を支えてきた人たちからすれば「うっせー黙ってろ!」という気持ちになることも十分理解できますよね?

要するに「双方向的で具体的な話」が機能不全だから恨みつらみがお互い溜まっていってるわけで、逆にその「双方向的で具体的な話」が社会のどこか一部分ででもちゃんと行われていれば、だんだん「SNSでのムスカ同士の罵り合い」を置き換えていくことができるわけです。

もちろん、まだそういう「具体的で双方向的」な対話が自分の身の回りにないと感じるなら、SNSで行われている罵り合いに参加しておいてくれたらいいです。日本の男どもがいかに全員許されざる差別主義者かを微に入り細に入りいろんな事例かあげつらってもいいし、逆に「リベラルの横暴許すまじ」という事で徹底的に欧米的理想を相対化する論陣を張りまくるのもいい。

全力で徹底的にぶつかり合うその争いを加速させればさせるほど、「消去法」的にメタ正義感覚は浮かび上がってくるからですね。

さっき貼ったこの「両側から押し込まれている注射器」のように、「人類社会全体が持っている今この瞬間のリアリティ」がそのまま忠実かつ高精細に代表されるような拮抗状態に持っていくことが大事です。心の中にあるモメンタムは全部吐き出してしまい、「真実」が結果的に浮かび上がるように持っていく必要がある。心に嘘をついてはいけない。

全人類レベルで常に猛烈に押し合っているこの拮抗状態をそのまま丸呑みに再現できるようになればなるほど、あとは現地現物にメタ正義的に解きほぐして、「針先に穴をあける」ことをやっていくだけなのが一目瞭然になってくるでしょう。

結局アメリカ型のリベラルの限界というのは、「自分の側を絶対化」して、「敵側」を”アンシャン・レジーム”として「絶対悪」にする構造自体が持つ歪みなんですよね。

「フランス革命の理想」はいいとして、その結果として狂気の暴走が起きて「攻め込まれたがわ」のロシアの意見というのはどうなるの?という問題が、今の国際情勢の大変むずかしい情勢を生み出していると言えなくもない。

欧米側の「完全無垢な正義の遂行者」というイメージ自体がちゃんとチャレンジされないといけない時代になってるってことですね。

プーチンの暴虐は決して許してはならず、そこで「どっちもどっち論」を展開することは一切許されない事だとは思っていますが、一方で「欧米社会の辺境」において常に「無理」が溜まってきていつか暴発してしまうという「人類社会あるある現象」自体には、特有の対策を真剣に考えなくてはいけない段階に来ていると言えるでしょう。

そこに「欧米と非欧米」を完全に「対等」なものと見た上で、それでも欧米的理想が吹き飛んでしまわないように、徹底的に「メタ正義」的な具体的解決に集中する機運に持っていくこと。

それがバラバラに分断されいく人類社会の中で、日本が今後果たしていくべき役割なんですね。

「今までの日本」の不具合が色々と明らかになるのは、「このままじゃダメだよね」という合意形成のためにはいいことだと思います。

過去の延長が焼け落ちてきたら、「単に文句言ってるだけの存在」の薄っぺらさもまた明らかになってくるからですね。

その「先」を皆でちゃんとメタ正義的に構想していきましょう。私たちならできますよ。

長い記事を前後編(実践編・理論編)お読みいただきありがとうございました。

ここ以後は、さきほど記事中に書いた日本の今後の人類社会での役割としての、

「ありとあらゆる概念的先鋭性を全て泥沼の現実の中に飲み込み、あくまで有機的な関係性の中に抱きとめるサスペンション」としての日本が人類社会の中で必須不可欠な役割を果たせるようになっていく。

っていう話をしましたけど、これって歴史上の日本がずっと果たしてきた役割ではあるんですね。

昔、遠藤周作原作のハリウッド映画『沈黙』に凄い感動したっていう記事を書いて結構評価が高かったんですが…(以下の記事は、そこからリンクしている”表のブログ”も含めてワールドカップ時期には面白い記事かもと思うので良かったらどうぞ)

ちょっと今あらためて上記記事(表のブログも含めて)読んだら自分で感動しちゃって、そうだ、俺はこの方針でずっとやってきたしこれからもやっていくんだ!っていう気持ちになったので(笑)以下の有料部分は別にいいやって方も上記リンク先は読んでみていただければと思います。

なんにせよ、この「あらゆる概念的イデオロギーを泥沼に飲み込んだ先にあるリアリティ」を『体現』していくことが日本の使命なのだ・・・っていう話を、「沈黙」に描かれているような日本社会の「暴力性」のデメリットをできるだけ取り除いだ上で実現するにはどうしたらいいのか?みたいな考察について書きます。

とりあえず上記リンク、昔から「アレは凄い良かった」って言ってくれる人が多い記事(結構インテリ向けな記事で長すぎて読みづらいと感じる人も多いかもですが)なんで、そっちを読んでみてその続きが気になったら以下も読んでみてください。

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。

「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。

また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

また、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。

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ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…

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