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日本のコロナ対策は単に無意味に混乱しているわけではなく、「旅行させたいのかしてほしくないのかどっちやねーん!」的に単純化したザツな世界観を超えた「複雑な現象を複雑なまま」捉える視点がないと理解できない。

(トップ画像はウィキペディアよりカール・ポパーの顔・・・なぜコレなのかは最後まで読めばわかります)

私の今月のネットでの活動は、ファインダーズ連載第6回で以前から予告していた通り米中冷戦の話をしただけになっているんですが、そうやって少し露出が減ると、途端に元気にやっていますか?コロナ関係の記事はもう書かないんですか?と聞かれたりするんですよね。

いやいや元気です。そしてお待ちかね?コロナ関係の記事を今回書きます。

・全否定と全肯定の罵り合いでは解けない問題

なんでネットでの露出が減ってるかというと、ちょっとまた「読まれすぎて警戒」的な問題があったんですよ。これは「コロナ関係」の記事を書くにあたっても同じ構造があるので少し深く説明したいのですが・・・

これ↑のヤフー転載版が普段の10倍ぐらい読まれて、「話題のニュース」とかいう枠にまで出ていたりしたんですが、そうなってくると「日本の保守派」との距離感をまたちゃんと見直しながら進まないといけないな・・・とか別の課題が出てくるわけですよね。

「対中でちゃんとNOという」姿勢を立ち上げるには日本の保守派の人たちとの連携が不可欠なので彼らと連携はしたいけど、同時に、ネットで四六時中関係ない韓国人や中国人を罵りまくってるエネルギーと変に結びついて暴走しないように慎重に見極めていく必要がある。

いや、その「嫌韓嫌中のエネルギー」自体は善悪を超えた「そこにある」ものなので、解決するには単に断罪するんじゃなくて、そこにそういうエネルギーが噴出してしまう「真因」としてのマクロな社会の歪みを正していくしかないと思っているんですが。つまり、彼らの存在意義をちゃんと理解して国際秩序の中で機能させることによってのみ、彼らの「良くない部分(各種のヘイト的なもの)」をやめてもらうことも可能になる・・・みたいな話だと思っていて。

ただそれをちゃんとやるには距離感を本当に適切に測りながら進んでいく必要があって、だから今は微妙な時期なので、ちょっと大量に読まれる記事が出ると、その行く先を真剣に検討して自分の言論を見直す必要があるなとおもっているわけで。個人的には毎日頑張って色々とやってるんですが、ネットでの露出が減ると途端に「大丈夫ですか?」ってなるのが面白いなと思っています。

で、コロナ関係でも同じことで、こういう「開くと閉じるのバランス」をいかに取っていくのかが大事で、現状の政策が担保している最低限の安定すら崩壊させるような動きにはちゃんとNOと言っていく必要があるけど、同時に、じゃあ何もかも現政権がいう通りでいいのだ・・・みたいな話になると困ってしまう。

先月末ぐらいまで、ある程度「コロナを抑え込めた」という感じだったのは素晴らしいことだったですけど、同時に、ウィズコロナ時代には、いろいろな状況変化に消極的な日本企業が「変わる」チャンスでもあったのに、結構大きな企業とかを見ていても「FAXが届いてないか確認するために満員電車で出社しなくては」みたいなのがそのまま温存されちゃう流れになりつつあって、それってどうなんだという問題があったりして。

今回のこの記事も、この時期にGOTO的な観光業振興の旗を振ること自体を単純に否定してはいけない・・・という趣旨の話ではあるんですが、だからといってGOTO関連の施策が二転三転しているうちに事務的にわけがわからないことになっている大混乱についてはもう本当になんとかしなくちゃいけない日本社会の大問題なわけです。

だからこそ、全否定と全肯定の罵り合いをいかに脱却して、「意図」は「意図」としてちゃんと考えておいて、「実際上の問題」は「実際上の問題」としてちゃんとうまく回るようにしなくちゃいけない。

「党派争い」的なバイアスを超えて、両者のバランスをどうやって維持しながらできることをやっていくのか?という話になっていかざるを得ないわけですね。

で、そういう観点から、

・今の日本のコロナ対策の混乱をどう理解すればいいのか?

・その中で私たちはどうして行ったらいいのか?

・今後考えられる2つのシナリオは?

といった記事を今回は書きます。

・今の日本のコロナ対策の混乱をどう理解すればいいのか?

陽性者数の発表が過去最高になったりしつつ、それと同時にGOTOキャンペーンという観光業刺激策が行われて、と思ったら東京発着は除外だって話になり・・・みたいな状況は、普通に考えたら頭オカシイ大混乱という感じで、なんでもっとキレイサッパリとクリアーな論理で立て板に水に頭良さそうな人が毎日ブリーフィングしてくれる国みたいにならないんだ!と悲憤慷慨する気持ちになってもおかしくないですね。

私がファインダーズでコロナ関係の記事を書いていた4−5月頃から一貫して、こういうときの今の日本政府の説明能力の低さっていうのは本当に大問題で、どういう意図で何をやろうとしているのか?よくある誤解から来る反論に対してもちゃんと堂々と自分たちの意図を説明すればいいのに(そして往々にしてそういう理由自体は存在するのに)、そのへん適当に「誤解させたとすれば本意ではない」とかわけわからんことしか言わないから余計に「単に何も考えてない愚策なんじゃ?」という印象になってしまう。

またそれを報じるメディア側も、まずは政権側の意図を迎えに行ってちゃんと現状を国民にわかりやすく伝えて、その上でカイゼンするべきところがあればどういうところなのか?議論が別れているのはどういうポイントなのか?について報道してくれればいいんですが、こっちはこっちで「政権叩けるぞ!」となったら中身はなんでもいい・・・みたいになってしまいがちで。

「党派」ですべてを見て、自分が政権側なのか反政権側なのか、反政権なら全部批判できるものは批判し、政権側ならどんな愚策的混乱も擁護する・・・みたいな言論空間が有意義なものになる事はありえないので、「どちらがわも」ちゃんとそこで「進化」を目指していただきたいところなんですが(一部のメディアにはコロナ禍を通じてかなりそういう自覚が生まれてきている感じもしていて凄く期待しています)。

ともあれ、読者のあなたは今どんな気持ちですか?とにかくもう「なにがなにやら」的に何の光明もない大混乱という感じがしていますか?

個別には色々と僕も「なんでこうなっちゃうかなあ」と天を仰ぐ気持ちになる瞬間も結構あるんですが、ただ同時に日本全体として結構「ちゃんと自分たちのやるべきことをやっていっている」と思ってもいるんですね。

まず、「なぜ今の混乱している状態」を通過していく必要が日本にはあるのか?という話をします。

・「新しい生活様式」を本当に磨き込むには「双方向性」が重要

なぜかというと、本当に「新しい生活様式」を磨き込んでいくためには、お行儀の良い「理性的議論」だけじゃ不可能で、「経済再開派」が多少強引にでも引っ張っていく必要があるからです。

なぜなら、そこで「双方向」でなく「医療側から経済側への要望」だけで押し切ろうとすると、

・確かにやれば完全に防御できるかもしれないがコストがかかりすぎてほんの一部にしか不可能な対策A

・多少の抜け漏れはありそうだが大枠で感染確率を下げることができ、コスト的・労力的に実現可能で広く普及させられる対策B

のうち、「対策A」の方ばかりが採用されて「対策B」が磨き込んで行かれず、結果として対策自体を放棄する層が大量に出てきてしまうからです。

そのあたりは先月末にnoteで書いたとおりです。

リンク先記事から引用すると、

まずは経済界の方が「うっせえ、やってやるぜ!」的に暴走的に解禁になっていく流れを利用するしかないのかなと私は考えていて、ただ、それで感染者が出たときに、その「状況」をもっと詳しく、個人情報ではなく「状況の分析」的な内容を共有できるようになっていってほしいわけですね。

「案外やってみたけど大丈夫だった」という例と、「こういうところがやっぱり危ない」を選り分けていくことができれば、「無駄なところで自粛せずに済む」領域が増えるほど、本当に危ないところを集中的に周知して避けることも可能になる

ということになります。

これ、医療クラスタ側からだけの「一方通行の指示」だと、逆向きのフィードバックが働かないので、「そんなことやってたら事業が成り立たないよね」というレベルの指示がそのまま放置されることになってしまうんですね。

そうすると、物凄く体力のある一部の事業者だけがこれ見よがしに「徹底した感染対策をしています」みたいなことをする影で、余力がない事業者は「うっせぇ、そんなことやってられるかよ!」的に「新しい生活様式」全体を敵視して、そもそも無視してしまうようになります。

禁酒法時代に闇酒が流行るみたいな感じで、現状に合っていないキビシイ規制が、余計にカオスな状況に導いてしまうわけですね。

これを読んでいる医療クラスタの人がいたらお願いしたいことは、

「完璧な感染防止を求めて10の感染対策を指示する」よりも「負担感がなく受け入れ可能な、確率を8割減らせる指示を出す」方向を心がけてほしい

ってことなんですね。

病院内感染の可能性を潰すためには「どんなことがあっても感染しない防止策」を作り込む水も漏らさぬ発想が必要ですが、市中における感染連鎖を止めるには「負担感の少ない少数の施策の積み重ねで”確率を削る”」発想が重要です。

チラホラと連鎖が起きていってもいいが、全体として再生算数が1以下になりさえすればいいわけですからね。

今、「新しい生活様式」そのものに対する呪詛の声みたいなのをネットでよく見ますが、それはこの「磨き込み」が足りなくて「あれもこれも」的な完全性を「医療的な発想」の基準で市中に押し付けたままになっている結果、「そんなことやってて俺たちの事業は成り立たねえんだよ!」という反発が起きているのだと理解しましょう。

でも、彼らも別に協力したくないわけじゃない。ちゃんと「相互コミュニケーション」が成り立っていないので、全拒否的な反応になっているだけなんですね。

前回記事に書いたように、

「過剰な対策」は「対策疲れ」に繋がるので、余計に「必要な対策」ができなくなるんですよね。むしろ「力を抜いていい部分」を周知していくことで、「本当に対策すべきところ」が浮かび上がってくるはずです。

たとえばコンサートにしたって、黙って座って聴いているクラシックのコンサートと、モッシュが発生するような狭いライブハウスでのライブを「同じ」基準で考えるのは意味がわからない。静かなコンサートなら、「間引き」なしでも十分やれるんじゃないか・・・というあたりをもっと検証していけるはず。

感染者数の少ない地方の、しかも屋外イベントとかまで全部自粛みたいなことになっているとそのうち「対策疲れ」から全部ノーガードに戻っていきかねない。

医療クラスタが率先して「コレはやってもいいはず」を言っていくことで、逆に「これだけは本当に危ない」に人々の気持ちを集めて対策できるようにもなります。

・一個絶対に守って欲しいことを言うために、むしろ「●●はやっていい」をたくさん周知するべき

ただ、日本の専門家会議の皆さんは、このあたりのことを世界的に見ると「物凄く鋭敏に理解しておられる」人たちだと思います。

そもそも「三密の回避」というコンセプト自体が、街全体をロックダウンするのではなく「真実の瞬間」だけを選り分けて対策することで、社会生活への影響を最低限にするべき・・・という深い智慧に基づいたオリジナルな発想になっていますしね。

最近では尾身先生が、「旅行の移動自体がただちに感染を広げるわけではない」というような趣旨のことをおっしゃられていて、(また「御用学者め!」みたいな暴言を吐きまくってるネット民を見かけましたけど)、でもそういう発想をもっともっと精緻にしていく必要があるんですよね。

メディア的に大雑把な話だけ聞いていると今の日本は「全くの無策」状態になっている感じもしますけど、各種の業界団体的なものがアクティブなところでは、結構ちゃんと「経済を回しながら対策もやるには」どうすればいいか?が日々磨き込まれていってます。

僕のコンサルクライアントの企業の中には「直撃業種」のところはあまりないんですが、こないだたまたま客として近所のカラオケに行ったら、ほとんど対面で接客しなくでも入室から退室・精算までできる仕組みができあがっていて、そこで浮いたマンパワーの分であちこち消毒してまわる人員が増員されていて驚きました。

単に「対策コストがかさむ」ようにするんじゃなくて、感染症対策を理由に今までの過剰サービス的なものを見直したりすることで、損益分岐点的にも持続可能な対策に仕上げようという発想が素晴らしいと思いました。

医クラスタの人たちは、ぜひこういう「業界の密着感ある工夫の積み重ね」という日本社会の強みとうまく連携できるように持っていってほしいわけですね。

でも、ここの「双方向性コミュニケーション」はなかなか起動していかないというか、医クラスタの人は病院で感染症対策をやるような発想でついつい社会全体に対しても「あれもこれも」要求してしまいがちなんですよね。

なので、そこは「経済再開派」の人が突き上げていく必要があるというか、「うっせえバーカ!」的な暴走と、「医療クラスタのジャッジ」のせめぎあいの中で、

「わかった!わかった!じゃあそれはやっていいから、”コレだけ”は絶対にやめてくれ!」

というコミュニケーションが成立していくようになれば、日本中の「現場」レベルで経済再開と感染症対策の両立のために「地味な工夫の積み重ね」は自然に実現されていくでしょう。

このあたりのことは、製造業関係者に凄く好評だったファインダーズ第4回↓

に書いたとおりなんですが、当時私が期待していたほどではないものの、日本人の集団的本能がちゃんと「この対策のコア」に徐々に集中できるようになっていければ、「経済を回しながらR<1を実現する」体質カイゼンは十分可能だと思います。

リンク先で書いてあるように、本当にちゃんと「カイゼン」が進めば、「気遣い作業」が不要になるので、別に文句とかなく自然に「対策と経済の両立」は可能になっていくんですよ。

日本の製造業から学ぶべき大事なポイントは、「気遣い作業」が不要になるところまで工程を作り込んでいくことです。

・だから、ただ混乱しているわけではないのです。

ここまでの話をまとめると、「真実の瞬間」を細密に細密に選り分けていって、「一緒くたにロックダウン」したりしないで「経済を再開しながら気遣い作業なしでも感染症対策も行える」ようにしていくためには、多少大雑把にでも「バンバン試していく」ことが必要なんですよ。

「危ない部分をピンポイントで把握」するためにも、「経済」側がアグレッシブに色々試す必要があるんですよね。

そこはお行儀よく「理性的な対話」が行われるというよりは、「やってまえ!!!」的に暴走する経済人と、そこで陽性者が出たときにちゃんと検証することで、「本当に危ない瞬間」をもっと明確化していく結果になる・・・そうすることでクラスター対策のスキルがもっと上がるし、「経済的に成立しうる三密回避」を色んな事業者が定番として見出していけるようになる。

ただ、こういう「暴走的に試すことも含めた実質的な積み重ね」って、実験室的な環境で閉じた”理性的”議論しか脳に入ってこないタイプの人から見ると、

単なるグダグダの大混乱

にしか見えなかったりするんですよね。

でも、日本社会が自分たちのコアの仕組みを活かすには、この「狭義の理性的議論の外側」まで踏み込んで行って現地現物の積み重ねをやっていく必要があるんですよ。

単に「批判するな」ということではなくて、例えば私のファインダーズ第3回の記事は丸々「検査能力およびコンタクトトレーシング能力の増強」をもっと働きかけていくべき、という話でしたし、こないだ尾身先生も「ずっと言っている保健所機能の強化が進んでいない!」って珍しく声を荒げて怒っておられましたけど、そういう意味で政府の動きが遅いことをどんどん突っついてやらせる必要はある。

今回のGOTOキャンペーンにしたって、事務的な問題とか、いろんな仕切り方の細部の問題とか、大混乱に大混乱を重ねていることは観光業界関係者から伝えて聞くとおりです。

ほんとそういう細部をちゃんと現場側から見てまともでスムーズなものにできるようにしていくという課題は、今の日本社会で本当になんとかしなくちゃいけない課題ではある。

ただ、同じくファインダーズ第二回記事で書いたように、「当局者がとりあえずやろうとしていること」を”その意図まで理解した上で”批判しないと、実際には実務担当者が余計に取り入られなくなる構造があるんですよね。

メディア的に見ているだけではわからない、ガチョウが水面下で必死に足を動かしているみたいな施策が日本の場合「再生算数を抑え込む」ことに重要な役割を果たしているわけですが、そういう構造を理解しないタイプの「とにかく検査拡大論」的なものが盛り上がることは、その「水面下が足を動かしているシステム」を崩壊から守るために余計に「必要なレベルの検査拡大」も不可能にしてしまうのだ・・・というのは、ファインダーズ第二回記事で詳しく書いたとおりです。

・今後どうなっていくのか?2つのシナリオ

というわけで、今の日本は「狭い実験室的に閉じた議論」を超えて、実地に実験をやっていく中で、「経済再開と感染症対策の両立」を現地現物に積み重ねていくフェーズにあるわけですが。

とはいえ見ようによっては「危ない橋」を渡っているという見方もできるわけなので、今後どうなっていくのか?そのシナリオについて最後に考えてみたいと思います。

●シナリオ1「新しい生活様式の磨き込みおよび何らかのファクターXの組み合わせがR<1を実現し、持続可能なウィズコロナ社会が実現する」

●シナリオ2「感染拡大が許容範囲を超えてしまい、再度ロックダウン的な厳しい措置が必要になる」

まあ、普通に考えるとこの2つのルートなんですが・・・

個人的には、シナリオ1でなんとか行けるんじゃないか?というような楽観を徐々に持つようになってはいます。

単に「新しい生活様式」だけの話じゃなくて、最近はいろんな新しい免疫系の仮説が出てきて「当初言われていたほど大量に感染しなくても集団免疫的な効果は得られるかも」的な話も出てきていますしね。

そういう仮説レベルのものに「期待」するのは厳密で保守的な学問的知識の応用が重要だと考える人から見ると非科学的に感じるかもしれませんが、別に免疫系の仮説が全部間違っていても、そしたらじゃあたとえば「ファクターX」の中身は日本社会が行っている三密回避的な「色々の対策の結果」なんだな、と理解して、結果としての新規陽性者数や重傷者数の数字だけを見ればいいわけですよね。

前回記事で書いたように、「ファクターX」の中身がなんだろうと、結果的に全部足しあわせてちゃんと「R<1」になりさえすればいいわけなので。

ここ一週間ぐらいの各種のデータを見ていても、

・感染者層が若いことや積極検査による対象者層の違いを考慮しても、重症化する割合は4−5月よりも低いのではないか?

・・・みたいな話は、「見ようによってはありうる」かも?ぐらいには個人的には思うようになっています。原因はウィルスの弱毒化なのか何らかの免疫系の仮説があたっているのかはわかりません。

医療関係者が軽症者への対処に慣れてきて重症化を防げるようになったという話も聞きましたが、とにかく「ファクターX」がなんだろうと重傷者数が医療キャパを溢れてしまわない範囲でコントロールできさえすればいいわけなので、その「必要十分な対策のあり方」も変わってくるはずなんですよね。

そして、日本において死者が少ない理由の一つとして、日本の高齢者施設の感染者対策が非常に優れていたのだ・・・という話は出てきており、そうやって「高リスク者」をピンポイントで守れる対策があるのだとすれば、むしろ市中感染をある程度容認しつつ「乗りこなす」対策を取る合理性がより高まるということになると思います。

もちろんこれらの見解は現状ではデータの意味の読み解き方次第というか、ただ単に感染者層が若年層に寄っていたから重症化しにくかっただけなので、これからは一気に大問題になるのだ・・・という「保守的な見解」も十分にありえる感じなので、それが誰の目にも明らかになるのはここ2−3週間ぐらい?かなという感じもします。

ここ二週間先ぐらいまでの重傷者数のデータをみんなでにらめっこしながら、今ブレーキを踏むべき!いやまだだ!という激論をしていくことになるのではないでしょうか。

・混乱しているように見えるのは悪いことではない

人によっていろんな立場があるし、何を重視するかも違ってくるので、とにかく全員が全然違うことを言いまくってただただ混乱している状況に見える状況は続くでしょうけど、この「よくわからなさ」を理解できるようになっていくこと自体が大事なことだと私は考えています。

「旅行させたいのかしてほしくないのかどっちやねーん!」的な単純化した構造に落としてしまいたくなるのはわかるんですが、

比較的低リスクの旅行を許容しつつ深刻な感染リスクは避けて行動してほしい

というこの「複雑な現象を複雑なまま」理解できるようになっていきたいわけですよね。

「都市まるごとロックダウン」じゃなくて「三密回避」を目指すように。

「旅行するのかしないのかハッキリしろ!」的にバカでかい一個のオンオフスイッチがあるような世界観ではなくて、無数のオンオフスイッチが並んでいて、状況の変化に応じてコレはオン、コレはオフ・・・的に適宜流動的に対応できる態勢を、今の日本は目指しているわけです。

今はさっきの「医療知識と現場の双方向コミュニケーション」がまだうまく行っていなくて、一方向的な「新しい生活様式」の押し付けとそれへの反発みたいになってしまっているんですが。

ただ、ミクロに見ると、「日本人の本能」的な連動はすでにそこかしこで動いていて、「無数のオンオフスイッチ」を状況に応じて切り替えるメカニズムが徐々に立ち上がってきているようにも思います。

テレビのニュースの街角インタビューとか、コメンテーターの口ぶりとかを見ていても、一部のアジテーション番組を除いては、

・「まあ、ウチは高リスク者と同居してるから近場で満足しようかなと思って」

・「僕ら若いし一人暮らしなんで、率先して経済回して貢献したいってことで、今日は来ちゃいました!」

みたいな感じで、「一個のバカでかいスイッチ」でなく「無数のスイッチをそれぞれが臨機応変に判断して操作する」意識は徐々に浸透しているように思いました。

「業界」側の対策の磨き込みだけでなくて、各地の夜の街対策的な話も、最初は無理やりやったりなだめすかしたり説得したり・・・といろいろと試していたわけですが、徐々に「夜の街対策はこうやるんだ」っていう方向が見えてきている感じがしますよね。

そこでバンバン逮捕したり無理やり検査受けさせたり無理やり隔離させたりできない自由主義の国だからこそ、尾身先生が「上から目線でない形でやるべき」って言っていたような、ある種まどろっこしい姿勢のまま、なんとか対策のやり方がだんだん定式化されてはきているわけです。

他にも学校をどうするか?高齢者施設をどうするか?その他いろんな「個別の全然違う問題」に対してちゃんと「それぞれ個別の必要十分」な対策さえ打てるようになっていけば、R<1を維持したまま経済を再開することは十分可能だと思います。

「頭良さそうな人が毎日ブリーフィングして統一的な基準で国全体を動かす」ようにやるとなかなかこういう「無数のスイッチを適宜流動的にオンオフする」ことはできなくなるんですよね。

そうやって「個別の例を洗い出してちゃんとそれぞれ特有の対策を無無理にやる」を積み重ねていくことは、「人出」とか「接触回数」的な一緒くたな定量数字だけを見て「感染者数が増えてきたら全部ロックダウン」的な対応をするよりも本来的な合理性は高いはず。

先程も書きましたけど、「メディア」の人たちも、単なる「バカでかい一個のオンオフスイッチ」的な世界観じゃなくて、いろんな立場が混淆している中でその場その場の最適を選ぼうとしているのだ、ということを、理解した報道もちょっとずつですが増えているようにも感じられて、それは凄くポジティブな要素ですね。

そうやって「複雑な現象を複雑なまま」理解できるようになっていけば、尾身先生がよく言う「メリハリ」もついてくると思います。

「これはやってもいい」をもっと周知することで、「これだけは本当に危ないからやめてくれ」という部分を完全に徹底することができるようになっていく。

「党派性」に囚われた目からは見えないリアリティを直接扱えるようになっていって、自分たちの強みを活かしていきつつ、「FAXを確認するために出社しなくちゃ」的なバカバカしさを温存するのを辞めて、前向きな変化を次々と起こしていけるようにする。

「コロナという敵」が常にいることは、日本社会を「助け合える国」にし、そして同時に「変わっていける国」にする大きなチャンスです。

「バカでかい一個のスイッチ」的にザツな世界観だけでは単に混乱しているだけのようにしか見えない現状の日本のコロナ対策の「真意」を理解して乗りこなしていきましょう。


・失敗したらその時はシナリオ2でやりなおせばいい。それはある種民主主義のコスト。

失敗したら失敗したときで、その時はロックダウンからやりなおせばいいだけです。場合によったらいわゆるMMT的な「助け合い」を実際に試すチャンスにすらなるかもしれない。

なにしろ「野放図な経済再開派」はその時はある程度「ごめんなさい気分」になっているでしょうから、その時はもっと慎重なロックダウン後の再開プロセスを踏んでいけるでしょう。

もちろん、どうせロックダウンが必要になるならはやいほうが傷口が浅くていいというのは確かなんですけどね。

しかし、民主主義社会においては、ある程度「経済を止めずになんとかやっていく」見通しがあるときにそれをやらずにいる選択肢に合意を得ることはなかなか難しいです。

中華文明圏や韓国のように政府の権威的なものがシッカリある国か、逆に自由主義社会の伝統が長くて反権威主義が染み付いていても、欧米ぐらいバンバン人が死んだらその後はさすがに可能になったりはします。

日本はそこまで行っていないので、チャレンジできるネタがあるのにチャレンジせずに終わる・・・などということは不可能なんですね。

向こう2週間、3週間ぐらいで答えは出ますから、国民全員で「もう危ない!」「いやまだ行ける!」と喧々諤々しながら、ハンドルを切るタイミングを見計らいつつ進んでいきましょう。

・21世紀版「開かれた社会とその敵」

今回の記事にトップ画像にしたカール・ポパーという哲学者が第二次大戦中に書いた「開かれた社会とその敵」という本があって、単純に言えば

「古代ギリシャの哲学者・プラトンから始まるような一つの流れである、どこかに完全なイデアがあって、それを少数者だけが知ることができるという前提に立っている人たちが、当時の大問題であったファシスト政権的な全体主義国家を生んだのだ」

みたいな批判で、

そうじゃなくて「衆知」をちゃんと信頼して常にチェック&バランスの中で「変化し続ける」開かれた社会をいかに維持していくかが大事なのだ・・・

みたいな感じの本だと思います。

読んだの大学時代なんで、厳密なアカデミアの人にはこういう雑なまとめ方に疑義もあろうかと思いますけど、まあ大枠でいうとこんな感じで。

僕がいわゆる「言論」的なものを発信するのを仕事にしてからいろんな評論をしてくれる人が出てきましたが、「倉本圭造はポパー主義者」って言う人がいて、最初は「??」だったんですが、最近結構あたってるかもしれないな、と思うようになりました。大学のゼミの先生がポパーが好きだったので、なんか影響受けたのかもしれない。

ファインダーズの連載で「日本の製造業の方策をコロナ対策に活かす」ときに、「美しい花がある、花の美しさというようなものはない」という小林秀雄の言葉を何度か引用しましたけど、そういう日本人の「現地現物」の、ある種「禅的」な発想は、ファインダーズ第5回の以下の部分

https://finders.me/articles.php?id=1990&p=3

に書いたように、現代の「トランプvs反トランプ」的な欧米文明の行き止まりを超える突破口となりつつ、米中冷戦の時代の新しい「調和」をもたらす起点でもあるわけですね。

「古代ギリシャの哲学者・プラトンから始まるような一つの流れである、どこかに完全なイデアがあって、それを少数者だけが知ることができるという前提に立っている人たちが、当時の大問題であったファシスト政権的な全体主義国家を生んだのだ」

この↑文章を読むと、今の欧米で吹き荒れている一種の「ポリコレファシズム」的なムーブメントの危うさを凄く感じるじゃないですか。

人種差別はそりゃ問題だが、その「解消方法」が「警察予算の削減」・・・って、そんな「敵と味方」に世界を分けて「敵」を攻撃できればいい、的な世界観ではいずれ強烈なしっぺ返しを受けるはず。

前々回のnoteで書いたように彼らの理想を否定したいわけじゃないし、実現していきたいと思っているが、「狭義の実験室的概念」に全社会をコントロールする権限を与えてしまうことの無理・・・が今全世界で紛糾しているわけですよね。

だから、日本社会の今の混乱は、「科学を否定するアホどもvs科学を理解する賢い俺たち」的な見方ではなくて、「本当にオープンな議論」をするために、「現地現物の発想も取り入れていく」ためのダイナミックな双方向コミュニケーションを目指しているのだ・・・という風に理解できるはずです。

何度か引用しているこの図のように、

画像1

「概念先行のポリコレムーブメント」を、というか「概念先行の欧米文明全体」を、日本社会がまるごと受け止めて、「あらゆる概念を超えたリアリティ」の中で現地現物に解決していく流れに持っていけるかどうかが問われているのが今なのだ・・・ってことなんですよね。

そういう方向を私たち日本人は本能的に選び取って進んでいこうと模索しているし、しかしちゃんと「自分たちがやっていることを他人が分かる言葉で語る」ことができずにいるので、「なんかとにかくわけがわからん混乱と物凄く強権的な強引さ」だけが暴走しているように見えてしまっているんですけど。

そうじゃないですから。

ここ数回のnoteで書いてきたアメリカの黒人差別問題も、ファインダーズ連載で書いた対中国の暴走をいかに国際社会が止めるのか、という話も、どちらにも、この「日本が今進んでいこうとしている”わけがわからないように見える混乱”」の道が隠し持っている可能性が、解決の鍵となっていくわけです。

先程もリンクを貼ったファインダーズ第5回の以下の部分

https://finders.me/articles.php?id=1990&p=3

は、いろいろな「科学者」の人たちに好評を持って受け入れられて凄く読まれました。

日本が今進んでいこうとしている道は「狭義の科学的態度」から見ると非理性的に見えるかもしれないけれども、「広義の科学的誠実さ」の観点から見ればむしろ深い洞察と可能性を含んでいる道なんですよね。

相変わらず政府の対応は後手後手だし混乱しまくってるし相変わらず保健所はFAXで集計していて接触者追跡能力の増強はあれだけ言っていたのに進んでいるのかいいないのか・・・みたいな話があって、私たちは自分たちの政府が「ちゃんとやってるか」を追求する目を失ってはいけません。

ただ、ある意味日本人の集団本能的な洞察ゆえに進んでいこうとする道に対して、それに賛成するにしても批判するにしても、その「意味」を理解せずに水掛け論をやっていても結局意味のある結果には繋がらないでしょう。

「バカでかいオンオフスイッチが一個だけある」ような世界観を超えて、無数の細かいスイッチを機動的にオンオフ切り替えできるようになっていく、その道にこそ、日本人が考える「欧米文明の行き止まりをブレイク・スルーする本当の多様性への入り口」があるのだ、と私は考えています。

それを理解しないで、単に「現行の欧米文明の狭い基準で裁いてばーかばーかという」だけの批判が溢れかえっていると、日本の当局者は非効率な仕組みとある種不公平な仕切りと・・・と問題を山積みにしながら開き直り続けるしかなくなってしまうわけです。

それを超える「新しい視点」で、議論の整備やメディアのあり方、SNSでの「専門知と現場知の相互コミュニケーションの仕方」を見出していければ、日本人のありとあらゆる人が不満に思っている細部の非効率や「わけのわからない混乱」を、ちゃんとゼロベースに見直して効率化していくことも、はじめて可能になっていくでしょう。

今回記事の無料部分はここまでです。

以下の部分では、先程少しだけ述べましたが、この「日本人が取り組もうとする、複雑なものを複雑なまま理解する」方針と、「アメリカの黒人差別問題」「対中冷戦問題」は深く関わり合っているのだ、という話をします。

今月ネットでの活動が低調だったのは、自分がやっていく活動をちゃんと世界の流れの中で適切に位置づけて、単に「日本はスゴイぞ!欧米人のいうことなど聞く必要はないのだあああわはははは!」みたいなムーブメントに飲み込まれてしまわないようにするのが本当に注意が必要だったからなんですが。

たとえば上記の記事のように、オバマ大統領ですら、昨今の欧米文明のポリコレファシズム的な過激主義に対しては批判的だったりして、ただ単に気に食わないやつを全力で攻撃するだけで良い社会になったりはしないことは、「本当の良識派は世界中みんなわかってる」わけですよね。

でも欧米社会の中だと同調圧力が強すぎて、なかなか↑のような意見を共有していけない。

先月のnote3本で書いたように、対欧米のポリコレファシズム的なものに対して「否定しないがそれを超える」位置づけを用意して、欧米人の中の「過剰な過激主義への懐疑主義」へのアンサーとして位置づければ、そこに今は「ザツな日本スゴイ!」的な感情として噴出しているエネルギーをぶつけていっても破綻しない、むしろ世界の新しい希望の旗印にできる可能性も生まれてくるでしょう。

御存知の通り今の日本の保守派の一部の過激派はネットで特定民族や女性に罵詈雑言を吐きまくったりと、結構ポリコレ的には問題行動をしていますが、私が思うにそれは欧米文明が支配する世界構造全体の「歪み」がただ素直に噴出しているだけなので、単に彼らを非難するだけでは決して解決できません。

世界の見方自体を徹底的に見直して、欧米文明の独善性を相対化しつつ、しかし彼らの理想は消えないように細部を差配していくことが必要な時代なんですよね。

そういう、21世紀版「開かれた社会とその敵」的な構造の中で私たち日本人が果たすべき役割は大きいはずなので、一緒に頑張っていきましょう。

そしてまた逆に、「対中国でNOと言える国」になることと、「日本人が自分たちのやり方をちゃんと普通に理解できる言葉で語り、自信を持って実行できるようになること」は密接な関わりがあり、そういう「東アジアの本能的な主導権争い」的な観点を深く理解することによってのみ、日本は今の「何をやってもうまくいかない」的な混乱を超えることができるのだ・・・という構造もあるんですね。

以下の有料部分では、特にそっちの「対中国の競争心」のあたりでの非常に「ぶっちゃけた」話をします。

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。結構人気がある「幻の原稿」一冊分もマガジン購読者は読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

また、倉本圭造の最新刊「日本人のための議論と対話の教科書」もよろしくお願いします。以下のページで試し読みできます。

ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。

「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。

また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

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ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…

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