見出し画像

車椅子でも暮らしやすい社会はどうすれば実現するのか?富永京子「みんなのわがまま入門」書評

この記事は、「社会運動に関して研究する社会学者」である富永京子さんの著書

「みんなのわがまま入門」

画像1

の書評をしながら、SNS上のネット論壇を一気に席巻したかと思えばあっという間に風化していきそうな、車椅子使用者のバリアフリーをいかに進めていくのか?という問題について本質的に考えてみるという記事になっています。

体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」はほぼ別記事のようになっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。

最初に端的に今回のバリアフリー問題についての私自身の立場を述べると、

1・当事者の人が遠慮なく声をあげられる事は大事なこと

2・特に「当事者が毎回凄く”感謝”しなくてもフツーに使える仕組みを目指すべき」という理想はとても大事で譲りたくない

3・しかしだからこそ、「当事者以外」の人は「日本社会で働く人たち」に対してちゃんと敬意を持った働きかけをするべき

これ↑はこの書評を書いている私の意見・・・であって、富永さんは必ずしも同じではないかもしれませんが、少なくとも「みんなのわがまま入門」を読んでいる限りにおいては「社会運動の内部論理が、”その外側の普通の人”にちゃんと伝わるにはどうしたらいいか?」について真剣に考えておられる方だという印象を持ちました。

案の定、「社会運動の世界」では、運動家以外の「普通の人にどうしたら伝わるか」などという事を考えること自体が邪道であり不徹底であり裏切りである・・・という風に考える人も多いみたいで、富永さんもそういう人に攻撃されているのをよくお見かけするわけですが(笑)。

古今東西あらゆる「改革派」において常に一番敵視されるのは、「保守派」よりもむしろ「改革派の中の穏健派」であったりするわけですが、「そこ」が対立するのって本質的に見てとにかくバカバカしいし、そこが「次の一歩」のために大事な発想の転換なのだ・・・という視点について、富永さんの議論を参照しながら書いてみたいと思っています。

まずはこの本と富永さんの紹介から、はじめます。


1●「みんなのわがまま入門」はどういう本か。

富永さんの事は随分前から注目していて、特に「社会運動が、そのインサイダーの論理で先鋭化していくあまり、”普通の人”との対話が不可能になっていく問題」について自覚的に考えておられるところが凄く面白い人だなと思ったわけです。(先程も書きましたが、そういう態度は”活動家”サイドから攻撃されることも多いようです)

「みんなのわがまま入門」は、高校生向けという形で、日本において「社会運動」というのが非常に「構えて」見られてしまう問題を解決するために、

「個人の”わがまま”をわきまえずに共有していく事で、みんなが生きやすくなるはず」という視点で日常の色んなことを扱っていくことで、「社会運動」という日本では警戒されがちな現象を自然に身近に感じられるようにする

ような狙いの本なんですね。

で、個人的に凄いフィーリングが近い感じがしたのは、実は最近、諸事情で商業出版が頓挫した原稿をnoteで公開して供養したんですが↓

この原稿は、

日常で感じる個人の「ウザい」という感情を起点に、それを社会とうまく交渉する形で具現化していくことで、自分個人の人生をもっと生きやすいものに、そして社会全体も徐々に生きやすいものにしていこう

という趣旨の本なんですが、なんか「めっちゃ似てる」と思いませんか。

「わがまま」とか「ウザいという感情」とか、そういう「極ワタクシ的な反感」をどんどん吸い上げて改善提案にしていけば、人生も社会ももっと「ラク」なものになるはずだ・・・・という発想。

こういうメカニカルな理解というか、会社経営において「現場的課題を次々に吸い上げて解決していくこと」が重要なように、ものづくりの現場において、工程のムリ・ムダ・ムラをどんどん吸い上げて改善していくことが重要なように、個人の人生においても「ウザい」事をいかに発生しないようにするかを次々と対象化して周囲と交渉していくことが重要なように、個々人の「わがまま」を吸い上げて社会の事情と突き合わせて解決していくことで、もっと「みんながラクに生きられる」社会になっていく。

こういう「ボトムアップに不具合を解決して行こう」というアプローチで社会運動を捉えることで、「何か怖い大上段なこと」だと思わずに済むのではないか、というような視点から、高校生にもわかりやすい日常的な例を色々とあげながら語りかける本が、この「みんなのわがまま入門」ということになります。

2●「内輪の言葉」だけで閉じてしまわないことが大事

この「みんなのわがまま入門」においてかなり紙幅が取られて書かれている(そして”活動家”サイドから攻撃される原因になっているであろう)主張として、

「内輪の言葉」で閉じてしまわないように気をつけるべき

っていう話なんですね。

そこで富永さんが例として出しているのが、「山岳ベース事件とあさま山荘事件」を扱った山本直樹の漫画「レッド」なんですが、

画像2

これ、前から読もうと思ってたんで、富永さんの本で触れられてるのをキッカケに最近全部読んだんですが、物凄い衝撃を受けて、まさにこれも「今読まれるべき本」だと思いました。

この漫画は、1970年代初頭に、行き場を失った左翼学生運動がどんどん内向的に攻撃性を過激化していって、最終的に内輪モメで12人をリンチで殺害することになった有名な事件(”山岳ベース事件”と、続編において”あさま山荘事件”も描かれる)の顛末を描いているんですね。

で、富永さんも書いているんですが、「閉鎖された内輪の空間で果てしなく過激化していくさま」を漫画的に描くにあたって、「彼らが使っている内輪の用語」を特に読者に解説せずそのままフキダシの中でズラズラと書いちゃう演出が凄い不気味に強烈な印象なんですね。

こんな感じ↓とか、

スクリーンショット 2021-04-16 10.23.45

こんな感じ↓とか、

スクリーンショット 2021-04-16 10.25.47

これがどんどん過激化してこうなっていく↓(笑)

スクリーンショット 2021-04-16 10.32.24

なんかこういう感じ↑の、

『内輪の用語A』は『内輪の用語B』であり、そして『内輪の用語C』である事は決して許されないのだから、『内輪の用語D』や『内輪の用語E』を徹底的に糾弾し、社会から払拭しきってしまわねばならない。そのためには私たち一人ひとりが、心の中の『内輪の用語F』を直視し、『内輪の用語G』が染み込んだ日常のあらゆるものを『内輪の用語H』していく必要がある。

的なの↑、最近ツイッターとかでしょっちゅう見る感じしませんか?

で、こうやって「内輪の用語」だけで果てしなく純化していくと、だんだん物凄い些末なことですら許せなくなってきて、野外作業中に蚊が飛んでいるのが気になって「蚊取り線香か虫除けスプレーが欲しい」とか言ったのが反革命的だ!とかいう糾弾がはじまったり(笑)・・・↓

スクリーンショット 2021-04-16 10.31.16

この程度↑の「冗談のような」話も最近ツイッターで結構見る気がするんですが、これが内輪だけでさらに過激化していくと、

スクリーンショット 2021-04-16 10.35.11

こんな感じの「無条件で無限大に内輪の論理を過激化していくことを果てしなく追認する謎理論」が展開しはじめて↑・・・

この後も果てしなく「自分たちの過激化」を自分たちの内輪の用語で追認しまくっていくことで・・・

スクリーンショット 2021-04-16 10.37.55

最終的に12人のリンチ殺人と、その他警官殺害や爆弾テロ事件などに繋がっていくわけです。

富永さんの本だけじゃなくて、この山本直樹の漫画「レッド」も、超オススメなんで、ぜひ「今のツイッターの過激派論壇」で起きている現象との相似を感じながら読んで欲しい作品です。

で、こういう「内輪の論理の過激化」で脳内がいっぱいになっちゃってる人からすると、富永さんみたいな人が許せない気持ちになるんだと思うんですよ。不徹底だ!ってなるんですね。

でも、「普通の人にどうやったら伝わるか」を真剣に考える人を「敵」扱いしてたら、結局どんどんカルト化が進むだけですよね。

「欧米じゃあそんな事ない!日本みたいな野蛮国家だからそうなるんだ!」

って思うかもしれないけど(まずこの”欧米の理想化”自体がかなり実質的には怪しいことが簡単に発覚してしまうのがSNS時代の怖さなんですがそれはさておき)、

欧米社会なんて人口的に見れば人類社会の10%強にすぎない

わけで、

「その外側」にいかにその理想を広げるかって話をしている時に、その「特権階級の論理」でその他を見下すような事を言いまくるだけでいいのか?っていうのが21世紀に考えるべき大問題

なんですよ。

そういう意味で「レッド」の中で物凄く染みたシーンがコレです↓。(爆弾テロを起こした後それは自分たちの犯行だと高らかに歌う機関紙を発行したことに関して)

スクリーンショット 2021-04-16 10.50.25

3●言葉遣いは激しくてもいいが、「見下し」に気をつけよう。

この「人類社会における欧米のシェアが下がり続ける21世紀特有の課題」っていうのが、今本当に真剣に考えないといけない時代なんですよね。

昔は欧米社会と「それ以外」の間に圧倒的な実力差があったから、「欧米じゃこうなんです(ピシャリ)」以上のコミュニケーションをする必要がなかったわけですよ。

一方で、今は欧米が人類社会に占めるGDPの割合が毎年どんどん下がっていって、「中国モデルの社会運営」を世界中の少なからぬ新興国の人たちが「別の選択肢」としてリアルに考えはじめているような時代には、単に「欧米じゃこうなのにアンタたちほんと遅れてるね」というだけの発言がいかに有害かっていう話で。

そういう状況の中で、中国の人権問題に関して日本はどういう態度を取るべきか?というテーマで今晩アップするFindersというウェブメディアで記事を書いたんですが・・・

上記記事の趣旨を一言で言うと、

NOと言うべきところでちゃんとNOというべきだが、その指摘が欧米文明中心主義的なアンフェアさを持たないように細心の注意を払わないと、”世界の半分”をさらに敵においやるだけで終わってしまう。ちゃんと強くNOと言うためにもフェアな議論をするべき

という事になります。

上記記事でも書いたんですが、数日前に日本語訳が出たマイケル・サンデル(ベストセラーの”白熱教室”で有名な人ですね)の新刊「能力主義は正義か?」を読むと、恵まれた知的なエリート階級が、自分たち以外の労働者を無意識に見下した態度を取っていることが、トランプ・ムーブメントのようなバックラッシュの根本原因にあることを直視するべきだ・・・という趣旨の分析がこれでもかと展開されていました。

「欧米的価値観すら相対化される米中冷戦時代において重要なこと」という課題意識は富永さんの本にはあまり出てきませんが、かわりに社会が複雑化することで、昔なら簡単に共有できていた問題意識を共有することが果てしなく難しくなっているのだ・・・という話が何度も出てきます。

その中で、狭いタコツボにこもらずに広い範囲の人と連帯していくためには、やはりこの「無意識の見下し」問題が非常に重要なんですね。

例えば杉田水脈さんのLGBTに関する差別発言についての話で、富永さんは以下のように書いています。

杉田さんのように差別的な言葉を発信する投稿に対して、差別に反対する人々は、「そういうのやめて」とか「差別だよ」というだけではなくて、「これだから差別をしているような人はバカ」と見下したような過激な反応をしてしまうこともある。そうなれば、一層、お互いの溝は乗り越えがたいものになってしまう。(”3時間目、わがまま準備運動”より引用)

またゼイナップ・トゥフェックチーという社会学者の「SNS自体に人々の対立を煽ってしまう作用がある」という主張を引用した上で、

社会運動をする中で用いられる表現は、人々を分断するような過激な言動が避けられずつきまとってしまう。対立するふたつの主張の間を取り持つような言葉がなくなってくる(同上”3時間目”より引用)

(中略)

自分はどっちかわからないといった主張の中間点になるような人の層が見えなくなって、極端な主張だけが目立つようになっていく。こうしてどちらでもない人たちは、よけいその空間にいづらくなってしまう。(同上”3時間目”より引用)

4●じゃあどうすればいいのか?

さてここまで、社会の半分に「そのとおり!」と言われて、逆に社会の半分に「黙ってわきまえてろって言うのか!」と激怒されそうなことばかり書いてきた感じがするんですが、ここからが大事なポイントです。

富永さんの本でも、

だれにでもわかりやすい言葉でしゃべる必要性をお伝えしつつ、一方で「わかりやすく話す必要はない」「わかりやすく話せない人を責めない」という、ふたつの事をお伝えしたつもりです

と書かれています。

だから、「問題があることを共有する」までは過激な言葉だって必要なんですよね。いわゆる「トーンポリシングをしてはいけない」っていう話です。

そして、富永さんも書いているんですが、「すぐに解決できなくてもいいと割り切って活動する」ことも大事なことです。活動家サイドの人が言うように、「最初は物凄くありえないことを言っているように思われたことが、次の世代には普通になっていく」っていう事がありますからね。

「みんなのわがまま入門」の中では、マックのバイト募集のポスターは昔は女の子ばかりが登場していたが、今は老若男女のバランスが常に配慮されたものになっている・・・というような例をあげて、些細なことでもちゃんとNOと言い続けた人がいてことで実現したはずだ・・・という話が載っていました。

だから、活動家まわりの人がとにかく過激な事を言って耳目を集めること自体には意味があるはずなんですよ。

問題は、それは

工程1・「問題点の共有」

でしかなくて、その後の

工程2・「現実に即した解決策の策定」

工程3・「解決策の周知・普及・共感の取り付け」

まで進んでいかないと意味がないのに、この「工程2・3」の事を活動家の人は”軽視している”どころか”敵視している”ぐらいの人が多くて、それが話をややこしくしてるんですよね。

5●「工程1」と「工程2・3」で必要な資質は違う事を理解しよう。

これは私の著書で使った図なんですが、

2-1滑走路と飛行

この上記の「滑走路段階」にある問題と、「飛行段階」にある問題とではその対処のあるべき方向性や必要な資質が違うんですよね。

この記事の用語で言えば「工程2・3」が「飛行段階」なわけですが、この「飛行段階」に入ると、「滑走路段階」に必要だった資質とか方針がかなり邪魔になってくるわけですよ。

たとえば、富永さんの本にも出てた例ですけど、日本の電車で痴漢が多い・・・って話があったとしてですね。

「滑走路段階」において「問題を周知」するまでは、「冤罪を気にする男」のことに構ってられない部分もあるわけですよね。「冤罪の可能性があるから女性は痴漢を我慢しなきゃいけない」みたいな結論になったら困るからです。

「そもそも9割以上の男は痴漢なんてしないし実際にやろうと思った事もない反面、たった数%の男が毎日やっていたら女性側から見るとかなりの数の人が体験する」という数字のマジックがあるので、女性側の懸念を男があまり受け取りづらい構造的問題がある。

だから、「普通以上に強い声で異議申し立て」をする意義は確実にあります。そこは”トーンポリシング”されてはいけない。

しかし一方で、「確かになんとかしなくちゃね」っていう機運が徐々に出てきてきて、具体的な防止策を考えましょう・・・という方向に動かしていくには、「冤罪の可能性」について考えない対策とかありえないじゃないですか。

なるほど、時々身動き取れなくなるような東京の通勤ラッシュの中では冤罪の可能性も当然あるし、男側からしたらそれで「一発で人生がアウト」になりえる可能性がある問題なんだから、そこはちゃんと考えた対策にしなくちゃいけませんね・・・という声が共有されてこそ、やっと「対策」に向けた具体的な社会のアレコレの調整をはじめられるわけです。

でも、なんか「活動家の内輪の用語の過激化」が暴走しすぎると、「冤罪の可能性を考えるということ自体が間違っている」みたいな事になりがちですよね。

これは↓こないだ色んな医療関係者に賛同いただいたコロナ関係の記事で使った図ですが、

210128_再宣言-01

こんな感じ↑で、現実社会における調整を考慮しない過激派の思いの暴走が、余計に「社会の現実をグリップする責任がある層」が必死にその「改革」を押し留めてしまう原因になるんですね。

男が冤罪で苦しむからって何だって言うんだ!痴漢によっていたいけな若い子の心には取り返しのつかない傷がつくんだぞ!

・・・みたいな話が強烈に盛り上がっていたら、怖くて「対策を考えましょう」っていう方向に動いてけなくなるわけです。

痴漢を抑止する。冤罪も防ぐ。『両方』やらなくっちゃあならないってのが・・・

っていうのが「決してどちらも無理に優先されない当然のこと」という信頼関係を築いていかないと「飛行段階」に入っていけない。

「問題点の共有」の段階で止まってしまう「仕掛品」で終わらせずに、「解決フェーズ」にまで持っていくには、

「活動家と一緒になって日本社会をぶっ壊せ!って叫んでくれる仲間」だけじゃダメ

で、

もっと中立的で冷静な、しかし理想を共有するパートナーが必要

ですよね?

でも、「活動家」さんはこの「中立的なパートナー」を見つけるのが凄い苦手というか、むしろ徹底的に「敵」だと思いがちなんですよ。

「そこ」がちゃんと繋がれないと、社会の中に「仕掛品」ばっかりが溢れかえって混乱して余計に全員が不幸になるんですよね。

それを放置しているから、「普通の人」が「ちょっとした異議申し立て」にすら「うるせえ黙れ!」っていう強烈なバックラッシュが起きてしまうわけです。

飛行機の例につなげれば、滑走路を猛スピードで加速してきてるのに飛行段階に移れなかったら大惨事なんで、そもそも「飛行段階」に見通しが立ってないんなら滑走路で加速しはじめたりするんじゃねえ!という声が出てくるのはある意味当然と言えます。

6●「問題解決のためでなく、自分がカッコつけるために糾弾したり嘆いたりするナルシシズム」と決別しよう

これは昨年書いてかなりバズった記事↑ですが、

「女性の前で男性の原罪性みたいなのを大げさに嘆いてみせるしぐさをする男」

って、フェミニズムから取って「有益な仲間」かどうか真剣に考えるべきだと思っています。

その理由の詳細は上記記事を読んで欲しいわけですが、体験的に言ってそういう男は、単にフェミニズムに「媚びて」いるだけで、本当にそれを解決しようという責任感があるわけじゃない事が多いです。

フェミニズムに限らずあらゆる活動家が大事にしないといけない仲間は、

「一緒になって全力で糾弾する声をあげてくれる人」ではなく

て、

「活動家サイドと一般社会サイドの両方をちゃんと中立に見れて、現実的な解決策を両方に働きかける力がある人」

と、

いかに協力関係を築いていけるか、あるいは自分たちがそうなっていくか・・・であるはずです。

例えば子供に何か教える時に

本当にその子に伝えたい大事な事があるから、伝えるために強い調子で言っている

のか、

単に自分が悦に入りたいから過剰な言葉遣いをしている

のかって、伝わりますよね?

そこで、「単に自分がカッコつけたいから過剰に糾弾したり嘆いたりするナルシシズム」って、本当に今の時代蔓延している有害な何かだと私は考えています。

さっきも書いたマイケル・サンデルの新刊はそのあたりの問題に物凄く鋭く切り込んでいて大変おもしろかったです。

なんにせよ、無駄に「普通の人」の効力感を横取りするような「気取り」って、今の時代本当に良くないんですよ。

さっき富永さんの文章を引用して書いたように、

「主張」に「見下し」が含まれていないか

は真剣に考えるべきだと思います。

7●車椅子問題はどう決着していくべきか?

で、結論として最初に書いたこの三ヶ条に戻ってくるんですけど。

1・当事者の人が遠慮なく声をあげられる事は大事なこと

2・特に「当事者が毎回凄く”感謝”しなくてもフツーに使える仕組みを目指すべき」という理想はとても大事で譲りたくない

3・しかしだからこそ、「当事者以外」の人は「日本社会で働く人たち」に対してちゃんと敬意を持った働きかけをするべき

1で書いたように、今回の車椅子の問題で言えば、伊是名夏子さんのブログ自体は、個人的にはとても良かったと思っています。

多少過激な言葉でも使って、問題点を周知する意味はあった。そこで多少反感を買ったとしてもそれはしょうがない。

そして2で書いたように、「目指すゴール」として、単に障害者が毎回凄い大変な思いをして交渉すれば電車に乗れる・・・というのではなく、ペコペコし続けなくても普通に生活できる配慮が行き届いた社会が理想である・・・ということも、個人的には譲りたくない。

やっぱり、毎回ちょっとした事でも他人の手を煩わせて何度もありがとう!って言わなきゃいけないのって辛いと思うからね。だからその「理想像」の部分は譲らないように、徐々に近づけていきたい思いはある。

でもね!だからこそ!ね!

「当事者以外の人」が、伊是名夏子さんのブログに批判的なタイプの人をやたらディスったり見下したりする発言をするのは本当にマジで真剣に良くないと思うんですよ。

欧米には欧米の、日本には日本の、人間関係の作り方とか社会の運営の仕方の伝統とかあるわけで、そこに「上下」をつけて語ること自体が21世紀の米中冷戦時代のマナー違反なんですよ。”内輪の用語”(笑)で言うなら”欧米文化帝国主義的なレイシズム”なのである!

富永京子さんの本には、色々なデータを引用して、

・日本で「政治に関心がある」人の割合は国際的に見て物凄く高いわけでもないが低いわけでもなく、「中の上」ぐらいではある

・国際比較でみて、日本人はデモや座り込みには否定的イメージを持っているが、政府に制度を変えて欲しいと交渉したりする活動にはむしろかなり寛容

といった分析が書かれていて、別に日本人はそんなにあらゆる政治活動に否定的なわけではないんですね。(個人的意見ですが、デモや座り込みへの否定的イメージについては、さっきの”レッド”で描かれた70年代初頭のアレコレがとにかくイメージ悪すぎたってのがあると思います)

要するに「メッセージの受け手の文化」の事を考えて「メッセージ」も工夫しないと

「アメリカではこうやってるというメッセージをそのまま輸入して、反応が悪いと”遅れてる野蛮人どもめ”と罵る」

とか、まるで現地の風習を理解せずに広告を打って反感を買う思い上がった多国籍企業みたいじゃないですか。

特に、「他の弱者」たちと喧嘩するのをやめるように真剣に考えるべきで。

要するに、あらゆることにリソースの限界があるわけですから、明日からあらゆる無人駅にエレベーターつけたりできないわけですよね。

世の中には「色んな弱者」がいて、その中には「障害者」のように問題を対象化しづらいから放置されている人たちもたくさんいるわけですよね。

よく、発達障害とかの「他人から見えづらい」障害を抱えている人が、「いっそ車椅子の人みたいに”わかりやすい”障害だったら良かったのに」とか言ってる人がいますが、それぐらい「色んな人が色んなことを抱えて生きている」わけじゃないですか。

そして、欧米なら「単なるしょうもない現場仕事」みたいな扱いになりがちな分野でも、ちゃんと責任感を持って仕事をしてくれる無数の人たちによって日本社会は成り立っているわけですけど、「そういう人への敬意」がどんどんオザナリになっていくというか、むしろ「インテリエリートサークルの内輪の論理の絶対化」によって蔑視される構造にある・・・というのはさっきのサンデルの新刊でも事細かに分析されていることです。

最近の”クレーマー”って本当にヒドイ人がいるらしいので、日々そういうのに触れて疲弊している人が、伊是名夏子さんのブログを見て反射的に反感を持ってしまっても当然というか、そういう人を責めるのってコクすぎませんかね。

要するに、重要なのは、

「あのブログへの反感を持つ人たち」への敬意

が大事だってことなんですよ。

当事者は必死に声を上げるのが仕事。それはいい。どんどんやったらいい。

その「必死にあげた声」をちゃんと「普通の人の社会」へと翻訳して伝えるべきまわりの人間が、単に「ナルシスト的に嘆いてみせたり糾弾してみせたりして、次の日には忘れてる」みたいなのが本当に良くない。

日々クレーマーに追われる現場仕事をしている”弱者”を糾弾して「自分とは違って倫理的に劣った存在」だと貶める言説をする・・・人たちを見るとなんか自分は怒りが湧いてきます。

ただでさえ感情的なぶつかり合いが不可避な問題について、インテリのエゴで余計な摩擦を増やすなよと。

まさにコレですよコレ↓。

スクリーンショット 2021-04-16 10.50.25

「わかりやすい弱者性」から「わかりづらい弱者性」まで、みんなそれぞれ「弱者性」を抱えて生きているんだから、「オマエは何の悩みもない強者のくせに」とかレッテル貼られたらそりゃ反感買いますよ。

だからこそ、「”みんなのわがまま”入門」で、「”あなた”も”わたし”も”あの人”も、”あらゆる”人の不満を勝手に他人がジャッジしないで、ちゃんと全部吐き出せる世の中がいいですよね」という「みんなベース」のトーンをいかに維持していくかが重要なのに、「欧米社会」を上に見た理想で語って「その他の社会」をディスって悦に入るとか、本当に相互理解を広げていく気があるのか?と疑問に思います。

この記事と同時にアップされた、中国の人権問題に関するFinders記事にも書いたんですが、

(以下引用)

結局、「特権的なインテリエリートサークル」の内側の論理を、その外側にまで広めていくにあたって、「遅れているダメな人たち」という目線が隠しきれず、現地現物の事情に敬意を払ってすり合わせる地道な試みをバカにし続けるからこそ、結局”欧米的理想”は人類の上澄み10%の外側には決して普及せずにいるのではないでしょうか。

それは単に「欧米人以外は人権思想が理解できない野蛮人」だからでしょうか?そうではなく、「ローカル社会の運営上の事情やそれぞれの伝統」への配慮がない上から目線のゴリ押ししか存在しない事を反省するべきなのではないでしょうか?

「弱者」に上下をつけずに平等に扱い、その社会の伝統にも敬意を払いながら変えていくことが、「欧米社会という人類全体のほんの10%以外になかなか広がっていかない理想」を「上から目線でなく着実に根付かせていく」ために重要なことだと私は考えています。

そのために、「果てしなく誰かを糾弾する構造」自体を克服した、なんか「ニンテンドー型包摂性」みたいなビジョンが必要なんじゃないか・・・という趣旨の内容が、今日3つめの記事としてアップされているのでこちらも是非どうぞ。

今回記事の無料部分はここまでです。

ここ以降は、なんかちょっと唐突ですが、ポリコレ系の話題で常に紛糾している「嫁」とか「主人」とかその他の呼び方の話をしたいと思います(笑)

個人的に自分は結構リベラルな人間なんで、「嫁」っていう言葉も「主人」っていう言葉も苦手で、自分はほぼ使わないんですね。

既婚女性に話しかける時に「ご主人は・・・」とかは絶対言わないし、自分の奥さんのことを「嫁」と呼ぶこともほぼ絶対ない。

なんか大きな家系図的な話をしていて、人物Aと人物Bの関係性はどうなってるの?みたいな話の中で「この人とこの人は姑と嫁の関係で・・・」とか言うことはひょっとしたらあったかもしれないが、だから人生の中で「嫁」って言葉を使った回数は数えられるぐらいしかないと思う。

・・・っていうぐらい、「嫁とかご主人とか言う言い方」に抵抗感があるタイプの人と同じ感覚は結構持ってるんですよね。

ただ一方で、「ヨメ」っていう言葉を使う男の文化圏も結構あるじゃないですか。

で、昔、ある男の友人に、「ヨメっていう言葉に抵抗感がある」っていう話を何気なくしたら、

「いかに自分にとってヨメという呼び方が最上級の愛情を表現したものであるか」

について延々と語られたことがあって(笑)

それがなんか結構感動しちゃったんですね。

だから、本人同士がそれで良いって言ってるんなら、余計なこと言うもんじゃないな・・・と思ったというか、そもそも「普通の人」に新しい考え方を徐々に受け入れてもらっていく必要があるテーマがただでさえ沢山ある時代に、箸の上げ下ろし的な部分までギャーギャー言うことが果たしてポジティブな意味があるのかどうか、真剣に考えなくちゃいけないな、と思った・・・という事があって。

「ご主人」はさすがに徐々に何か別の言葉を考えたいと自分も思ってるんですが、「ヨメ」は使いたい人の”特有の愛情”も確かにあるなと思うし、”旦那””奥さん”その他・・・まで来ると、だいたい言葉って元々の意味とどんどん変わって使われても普通なんで、いちいち誰も意識しない元の意味まで遡って批判するのってどうなのよという感じがする。

それに、"Prisoner of love(宇多田ヒカル)"とか"20th century boy, I wanna be your toy(Tレックス)"みたいな表現だってあるわけだから、親密さの表現がある種の上下関係をはらむワードに載っていること自体がそれほど悪いことでもないかもしれないし。

まあ、そういう風に思うようになった「衝撃」だった、僕の友人の「ヨメという言葉が俺にとって最高の愛情を表現した言葉なのだ」説について、以下の有料部分では語ってみたいと思っています。

これはこれで凄い「納得」したし、「一人の男のそういう部分を占めたいのだ」という女性も世の中には沢山いておかしくないな・・・と思ったので、それ以降「ヨメ」という言葉は自分は使わないけど他人にとやかく言うのはやめました。

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

また、倉本圭造の最新刊「日本人のための議論と対話の教科書」もよろしくお願いします。以下のページで試し読みできます。

ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。

「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。

また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

また、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。


ここから先は

1,633字
最低でも月3回は更新します(できればもっと多く)。同時期開始のメルマガと内容は同じになる予定なのでお好みの配信方法を選んでください。 連載バナーデザイン(大嶋二郎氏)

ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?