敗戦日本の戦後統治がうまく行ったのは原爆でなく文化人類学のおかげという話
イスラエルのパレスチナに対する戦争(というか虐殺というか)について、色んなイスラエル寄りの立場を取る欧米人が、「日本の場合」を引き合いに出してるのを時々耳にするようになりました。
特にこのリンジー・グラハム米国上院議員っていう人が有名で、議会で言った発言が問題視されて日本政府から抗議を受けたりこうやって↓メディアで掘り下げたインタビューされても何回も同じことを繰り返してるので「心の底からそう信じている」という感じですね。
彼はユダヤ人というわけじゃないみたいなんですが、アメリカではユダヤ人よりむしろキリスト教保守派の方がイスラエル問題について強硬姿勢が強いという話を聞きますからその系統なのかなと思います。
同じようなことをイスラエル人も隠さずに言うようになってきていて、
この人のツイートによるとAP通信のこの記事の中に、
という文章がある??はずだったんですが今読むとなくて、別のサイトへのコピー版記事↓を見つけたらもっと酷い事が書いてありました。
「AP通信の元記事に該当部分ないじゃん?」って焦って色々探したんですが、コピーされた配信サイトには丸々残ってたので、イスラエルサイドから攻撃されてAP通信は「いわゆるサイレント修正」したのかも?(図らずも見つけてしまいましたが海外メディアもそんなことするんですね)
さて!!
で、こういうときに、我々日本人はどう言えばいいんですかね?
「ただ原爆の悲惨さ」について述べて抗議すればいいんでしょうか?
でも今回の件について似たような発言をしているのは一人や二人じゃないわけで、欧米世界全体として、
…と強烈に思い込んでるわけですよね。
そして、よく言われていることですが、アメリカは「日本の占領統治という成功体験」が他でも可能だと思い込みすぎて、その後世界中で「失敗」を繰り返してきているという話でもありますよね。
そのタイミングで「日本から言うべきこと」ってどういうことなのかな?って考えた時に、この記事タイトルの
「日本の占領統治を成功させたのは、原爆より文化人類学ですよ」
…というメッセージが必要なんじゃないかと最近思うんですね。
というのも、日米戦争の真っ只中にアメリカの文化人類学者が総力をあげて研究した成果が書かれた以下の本を最近ひょんなきっかけで読んだんですけど、正直めっちゃすごいなと思ったからです。
今回記事では、この「菊と刀」のような深い文化人類学的洞察とか、文化相対主義的な寛容さこそが今必要とされることなんだ、ということを、他ならぬ日本人が主張していくことが必要な時代なのだ、という話をします。
(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)
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1●菊と刀はどういう本か?
菊と刀は、ルース・ベネディクトという文化人類学者が中心となって、日米戦争時代に「日本文化を理解する」ために行われた研究をまとめた本です。
まあ、名前は有名なんで知ってる人多いと思いますが、実際読んだ人は少ないかもしれません。
たまたま、一個前の記事(海外発の日本時代劇ドラマの話)の準備をしている時に思い出して、ちょっと読んでみようかなーと思って読んだんですけどめちゃくちゃすごかったです。(ちなみにこんな古典が普通に読みやすい現代語で文庫に入ってるってすごいなと思ったし、日本の出版業界がギリギリ維持してくれてる文化の豊穣さという感じで感謝しかないです)
ちょっと図式的になってしまう部分はどうしてもあるけど、でも本当に2024年に生きる日本人が読んでもめっちゃ啓発されるというか、
って目からウロコになる事が沢山書かれていてほんとすごいです。
文中にも書かれているように、「アメリカ合衆国は日本人に対してどういうメッセージの出し方をすれば、本土決戦を諦めてもらえるのか」という物凄く切実なテーマに対して答を出そうとして、「日本人の考え方」を徹底的に掘り下げて研究してるんですよね。
この研究が成功するかによって、前線で死ぬ兵士(と民間人)の数が本当に数千万人単位で変わってくる超重要プロジェクトだったわけです。
それは例えば、日本人が好きな演劇(例えば忠臣蔵)のキャラクターたちの行動規範への分析からはじまり、それのどこに日本人が共感してるのかという話や、例えば日本仏教とインド仏教の比較(数行ではまとめきれませんが大変面白い指摘でした)とか、「親戚」と言った時に含まれる範囲が中国における「親戚」とどう違うのか(中国における”親戚”の範囲より日本はすごく狭い範囲しか”親戚”にならないんですがそれはなぜかという話など)・・・みたいな多種多様な角度から掘り下げた分析になっています。
戦争中だから日本には行けなかったわけですが、文献調査と、あとアメリカに住んでる日系人へのインタビューだけでこんなに詳細な研究ができて、結果として日本はまんまと本土決戦もしなかったし戦後もものすごい協力的に振る舞った・・・という
人類史上における文化人類学の大勝利
…と言っていい事例なのではないかと思います。
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2●菊と刀の凄さは、「文化相対主義の徹底」と「図式だけで終わらない解像度の高さ」
読んでいて思った「菊と刀」の凄さは二点あって、
A・「文化相対主義の徹底」
B・「図式だけで終わらない解像度の高さ」
Aの「文化相対主義の徹底」というのは、
「我々欧米人のような”罪の文化”といった高級な思考回路はあいつら持ってなくて、野蛮人だから”恥の文化”を重視してるんだよ」
みたいな
「下に見る」
要素をできる限りできる限り廃して、
「自分たちと対等な異文化の中の必然性のある論理」
…として扱おうとする意思が全体的にすごく徹底しているところなんですよね。
これって本当になんかマザー・テレサとかガンジーとか級に突き抜けた精神がないとなかなかできないことで、なんせ戦争中で、実際にアメリカ人から見ると理解不能なカミカゼアタックとかをやってきて心底不気味に思われてる状況の中で
…という「下に見る」ような要素を極力廃した研究にしようとする意思が全体として感じられるのは本当に超すごいことだと思いました。(さすがに隠しきれない部分もなくはないですが、それでも当時の状況を考えるとありえないほどフェアに見ていると思います)
もう一つのB「図式だけで終わらない解像度の高さ」もほんとすごいなと思うんですよね。
例えば、これはこの「菊と刀」に出てきた例じゃないですが、江戸時代の武士は「切り捨て御免」という制度があって、武士は町人や農民から無礼を受けた時には「斬り殺しても罪には問われない」という制度・・・なわけですが、「これ」を字義どおりに解釈するとものすごい無法国家的な存在に思えるわけですよね。
で、一個前の記事に書いたように、海外産の日本時代劇ドラマとかではすごい「命が軽い」というか、簡単に自殺したり殺したりする高圧的な制度のような描かれ方をしちゃう部分はある。
でも、日本社会におけるこういう「システム」というのは、日常レベルから非常に密な義理の連鎖の中で相互調節されているもので、何も単なる「個人のエゴ」で暴発されていいものでもないわけですよね。
日本人の遠藤周作が原作を書いてる「サイレント(沈黙)」というハリウッド映画では、そのへんの「隠れたかけひき」が適切に描かれててすごい良かったんですよね。
隠れキリシタンを弾圧するために「踏み絵」をさせる時に、「暑いしさっさと終わらせようぜ。心の中までどうこうできると思ってないし、軽く形だけ踏むだけでもいいからさ」みたいなことを代官が言って、それでも応じない場合にのみ容赦なくバーンと首はねちゃう・・・っていうシーンがあって「めっちゃ日本すぎるw」と印象的だったんですが、その「容赦なさ」と「心底の適当さ」の同居しているところが「日本システム」なわけですよね。
それが、欧米のシステムでは「コミュニケーション回路が表でしか開かれていない」ために、例えばフランスでは貴族階級と資本家が協力しあう事ができず徹底的に「対立」関係になったためにギロチン祭りになって血みどろの革命が起きたが、日本の場合はその「下級武士(貴族階級)」と「資本家(商人たち)」が制度を超えて必要な融通を効かせる事ができたために、”ほぼ”無血革命が成立したという分析がされています。
こういう感じで、「日本人の倫理体系」「日本人にとって善とは何か」を、単純に欧米の理屈でジャッジしないで、徹底的に「日本人の世界観」で見ていく・・・という論理が徹底されてるところが本当にすごいなと思うんですよね。
で、結果として、「日本人にとっての”忠”の向かう先」が新しい秩序形成に参加する事であるように説得する方向性がアメリカの方針として取られたことが、「日本の戦後統治」を大変スムーズに実現することになった。
「菊と刀」自体は戦後にまとめられた本なので、戦後の日本統治の実情部分も少し書かれているのですが、従軍記者なんかはあちこちで斬りかかられるんじゃないかと思って警戒して武装して入国したけど、みんな全然心配いらなくて拍子抜けしたとかいう話が載っていました。
また、地方まで整備された日本の官僚システムを破壊せずにそれを利用することができたために、問題なく国の隅々まで安定した統治が可能になった。
「天皇に関する扱い」も、そのままにするでもなく完全に破壊するでもなく、ある意味ですごい配慮の上で最適な着地点を見出したところがあるわけですよね。
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3●「菊と刀」と同じレベルのことが、アフガンでもイラクでもできていれば…
要するに、日本が「欧米人」に今いうべきことは、「原爆より文化人類学のほうが有効だったよね」っていう学びなんじゃないかってことです。
「菊と刀」と同じレベルの研究を、アフガンでもイラクでもできていれば、こんな混乱にはなってないんじゃないか?っていうことなんですよね。
そのローカル社会の人々は何を重視して生きているのか、どういう振る舞いをすれば怒るのか、どこの部分は欧米人の望むように変えても全然平気なのか(むしろ望まれたり感謝されたりするのか)?
そこの部分が徹底した文化相対主義かつ「図式だけでない解像度の高さ」で理解できるようになっていくことは、「欧米が人類社会のほんの一部に転落していくこれからの時代」に、それでも欧米的理想を捨て去らずにいるためには必須な事だと言えるでしょう。
その時代に、日本という国こそが発することができるメッセージも、ここにあるはずですよね。
っていうメッセージこそが今必要とされてるのではないでしょうか。
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4●イスラエルやロシアに対してどう対処すべきか?
これ、今の時代に「菊と刀」的に研究するべきはハマスとかイスラム国とかもそうなんですが、イスラエルとかロシアに対しても同じような態度で考えていく部分が必要なんだと思うんですよね。
ロシアのウクライナ侵攻とか、イスラエルのパレスチナにおける虐殺とかはもうガチで一線超えまくってるのでそれを相対化するのは決して許されないですし、徹底的に「NO」と言っていくことは大事です。
一方で、ロシアとかイスラエルのような「欧米から見た辺境の欧米側」において、強権的な政府が生まれがち・・・というのは「人類の歴史上常に起きてきた」ことなわけで、それを全部「その国民が悪い」で終わらせていいはずないよね、という段階に来てると思います。
まさにそれが大日本帝国で起きたことでもあるし、ナチスで起きたことでもあるし、それをドイツ人とか日本人のせいにしてりゃいい話ではない。
「西欧+米国の世界支配」の歪みが最も端的に噴出するのがその「欧米における辺境」部分なのではないか?という観点から捉えかえしが行われるべき時なんですよ。
そして、「どういうメッセージの出し方をすれば大日本帝国は本土決戦を諦めてくれるのか」を必死に研究したように、
・どういうメッセージの出し方をすればイスラエルのパレスチナへの日常的圧迫をやめてもらえるのか
・どういうメッセージの出し方をすればロシア国民にウクライナを諦めてもらえるのか
…について研究していくことが必要なときなのだと思います。
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5●「欧米という特殊な思考様式」の限界とその補完
以下の本は、文化人類学の観点から「欧米文明こそがむしろかなり特殊な例だ」ということを論証した本なんですが…
WEIRD(ウィアード)「現代人」の奇妙な心理 上:経済的繁栄、民主制、個人主義の起源
例えば、仲の良い友達が運転してる車に同乗してて、スピード違反の上で事故った時に、取り調べでちゃんと「スピード違反」っていうかどうか・・・みたいなのの文化差とかを国ごとに調べていくと、ちゃんと正直に申告する「個人主義的」な国はむしろ少数派なんだという話が出てきます。
で、その「個人主義度は、西欧において”いとこ婚”を神学的に禁じる」ような風習が生まれたことで、何百年にわたって欧米人(キリスト教神学に影響を受けた世界)が「”一族”的な連帯感を解体してきた」ことによって生まれたのだ・・・という分析がなされていて、すごいナルホドと思いました。
で、そうやって「個人の側」から全部を見るようにすると、「欧米における辺境」になればなるほど、反政府的になりすぎるところがあると常々私は思ってるんですよね。
日本でも、全然日本特有の問題に向き合う気もなく
みたいなことを(もっと賢そうに見える用語とレトリックで)言うことだけに人生を賭けてる人いっぱいいますよね?
本当に「菊と刀」レベルのフェアネスを持って「辺境」の問題に立ち向かうガッツというのは、よほどの精神のエネルギーが必要で、ただただ欧米からみた「辺境」になればなるほど「知的な分析」と「その社会の実情」との間にはどんどんギャップが生まれていってしまう。
たとえば欧米において「反プーチン派ロシア人」としてやたら期待を受けて持ち上げられたあげく亡くなってしまったナワリヌイ氏という人が、以下のxポストで紹介したドキュメンタリーの中で…「ロシアの右翼と仲良くしてること」について欧米メディアに突っ込まれた時に結構激怒しててですね。
ざっくり意図を汲むと、
…みたいなことを言っててすごい「なるほど」と思ったんですよね。
「欧米知識人かぶれがロシアの実情も考えずに批判しかしないヤツになること」はドストエフスキーの作品以来のロシアの大問題みたいなところがあるんで。
そのロシアにおいて「ちゃんとプーチンに対抗できるほどの票を集める政治家になる」ってなった時に、
とタンカを切りたくなるのもわかる。
またこれインドも今同じ問題が起きていて、一個後の記事で紹介しますが、
「モディ化」するインド―大国幻想が生み出した権威主義 (中公選書)
こういう本で触れられてるような「インド政府の権威主義化」が問題化してるんですが、なんかこう「欧米の辺境では常に起きる問題」について常に「彼らの側に問題が全部ある」と考えることの無理が噴出していると認識するべき時代になってるのだと思います。
ロシアとかイスラエルの「当局者」が過剰に攻撃的・権威的になってしまう元凶には、この「菊と刀レベルの認識」をグローバル社会側が持てていない事情は明らかにあるはずで、そのレベルの「深い事情の読み込み」がないと、ロシアやイスラエル政府の「暴走」を本当の意味で抑止することなどできない時代になっていくのだと思います。
原爆よりも文化人類学こそが、戦後平和を作った
…という視点が大事なんですね。
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6●AIの数学=”勾配降下法”的な誤差修正メカニズムを入れ込めるか
ちょっとマニアックな話を最後したいんですが、例えば「菊と刀」に触れられている「当時の日本人」に関する記述について、今の日本人は当てはまらないな、と思う部分は結構沢山あるんですよね。
例えば、さっきのWEIREDの本で出てきた「交通事故の時運転していた同乗者の友人をかばうかどうか」みたいな指標では、戦後何十年と「日本的な甘えの構造では駄目だ空気で決めるな」と自己洗脳し続けてきた成果もあるのか(現代)日本人は結構個人主義寄りの結果になってるんですよね。(英米が一番個人主義寄りですが、日本とフランスは同程度に個人主義寄り、次にロシアや中国が入り、朝鮮半島では南北問わず”当然友達をかばうでしょ!”が世界一レベルに強くて違いが印象的でした)
現代日本人の結果がこうだとして、多分戦前の日本はまただいぶん違っていたと思うし、江戸時代の日本もこれは大分違っていたと思うし、多分この調査における韓国もそのうち徐々に個人主義寄りに変わっていくだろうと予測できるわけですが・・・
大事なのは、「常に罪の文化のほうが恥の文化より正しい」とか「常に個人主義的に振る舞うべきだ」みたいなイデオロギーレベルで「確定」させてしまわなくても、ちゃんとあらゆる人間は生きていく中で毎日悩んで毎日考えて答を出していく中で変わっていくんだってことなんですよね。
逆に、欧米ではそういう「集団側から見た要素」を全部破棄して「個人から見た時の罪と罰」だけで世界を組み上げようとしすぎて、政治的志向がちょっとでも違う隣人と一切話ができないみたいな世界にすらなっていて、それはそれでやりすぎなわけですよね。
1945年の段階において、「日本社会が培ってきた日本社会なりの倫理」を完全に否定せずに、温存させたまま決着した事で、その先で「本当の双方向性」が生まれたのだ・・・というように考えるべきなんですよ。
そうすると、「欧米的な普遍主義」も「その社会における相対主義」も「両方大事だよね」となる中で、一億数千万人が毎日生きる中で感じたり悩んだりする中で、「適切な重み付け」を習得していくことが可能になるってことなんですよね。
「イデオロギーレベル」で決着すると、ありとあらゆる日常における細部の配慮の重み付けを全部排除して一色に塗りつぶしてしまうわけですが(結果として民心の安定性が壊れて破滅的な政治ムーブメントに席巻されてしまう)、一方で「イデオロギーレベルでは決してどちらかを完全に優先はしない」状態にすることで、日常レベルの細部の細部の細かい重み付けを徹底的に高精細に調節し続けるプロセスを実現することができる。
要するに「決してイデオロギーだけでは決められない」構造にキチンと責任持って追い込むことで、「日常レベルの細部の微調整」を徹底的に高精細化していって、「理念」と「その社会の細かいローカルな現実」が分離しないように両立するように持っていけるわけですね。
これはまさに、今AIに使われてる「勾配降下法」的な処理だっていうか・・・(以下の動画とかめっちゃわかりやすかったので良かったらどうぞ。大学受験の時数学頑張ってれば文系の人でもコンセプトは理解できます)
https://youtu.be/0AX3KSKjyog?si=aXuYhpmkEFE-wXch
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7●人間の「知性」の限界をいかに知的に扱えるかに習熟してきたのが人類の歴史
大昔(1920年代〜30年代)に経済学で「経済計算論争」っていうのがあって、コンピュータが発達したら何でもかんでも計算できるようになって、すごい賢い中央政府がなんでもコントロール時代になるんだ、っていう今考えるとめちゃ呑気な論争があったんですが、当時オーストリア学派の経済学者が正しく予見したように、「計算量もさることながら情報を集める部分からして無理じゃん」みたいな話があったわけですよね。
とはいえ、「俺は賢いからそういうことができるはずだあああああ」って暴走して爆死して何千万人とか餓死するような悲惨な現象を巻き起こしたのが共産主義の悪夢なわけですが。
同じ形で、ありとあらゆる「イデオロギー」も、特に欧米における辺境になればなるほど「ローカル社会側の細部のヒダ」の部分をキチンと読み込めずにロードローラーのように押しつぶしてしまおうとすれば、当然バックラッシュがあるよね・・・ということを今人類社会は学びつつあるのだと思います。
むしろその「理屈の型」の方も、「ローカル社会側の細かい凹凸」も「両方」当然必要な等価な情報だと受け入れたうえで、その間にある誤差を丁寧に丁寧に減らしていくような演算処理にこそ、莫大な計算力を投入するべきだよね、ということが当然視される時代になっていくわけですね。
その流れを主導するべき存在こそが、まさに東洋と西洋の交差点で色んな「一方的な批判」を受け続けてきた我々日本人の特別な使命だってことですね。
私が昔書いた本の図で言えば、こういう感じの対立に、「イデオロギーレベル」ではどちらにも与せずに、「注射器の先に穴をあけること」だけに即物的に集中するように持って行くことで・・・・
以下の図のように、「アメリカの時代の終焉」において、「新しい世界の調和」を生み出すのが日本の使命だってことですね。
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というわけで、これからありとあらゆる「欧米由来の倫理」がグローバルサウスから総スカンになってどこにも基準点が見いだせなくなっていく時代にこそ、我々日本人が主張するべき新しい調和の道が「消去法的に」浮かび上がってくるという話でした。
日本統治を成功させたのは、原爆じゃなくて文化人類学なんですよ
…というメッセージを堂々と発して、新しい人類の調和を見出していきましょう。
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長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。
ちょっと今書こうとしている本の準備のために駆け足で大きな話に繋いでしまいましたが、だんだんと明確に自分の思想を「人類の歴史の中に定式化」できてきている感じがすごいありますね。
今書いている本では、日本社会が対応するべき色んな課題についての具体的な話とともに、こういうレベルでの「大きな話」としての、これからの日本人が人類社会の中で果たすべき特別な「使命」についての定式化もできればと思っています。
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ここ以後では、最近SNSで話題だった以下の経済産業省の資料についての話をしたいと思っています。
要するに日本の製造業の「経営」が欧米の例と違って全然うまく行ってない理由の分析みたいな資料なんですが・・・
この資料を読み解きながら、僕が実際の大手企業の幹部研修のしごとをしていた時に議論に出た話なんかを紹介しながら、今後の日本企業がどういう形になっていくべきか、「欧米的中央集権化」は当然必要として、その先でどういう着地点を描くかを考えておくことも大事では?みたいな話を、今回の記事のここまでの話と絡めながら考えます。
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2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個以上ある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。(これはまだ確定ではありませんが、月3回の記事以外でも、もう少し別の企画を増やす計画もあります。)
普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。
ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。
「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。
また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。
また、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。
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ここから先は
倉本圭造のひとりごとマガジン
ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…
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