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「ハイ論破!」文化を超えるために・・・立民・共産より維新の支持が伸びる理由についてのより深い考察

(トップ画像はウィキペディアより「ビリケン像」をお借りしました)

先週末にファインダーズというウェブメディアにアップした「関西人から見た維新躍進の理由を考察する記事」↓

…は多くの人に読まれて、記事に賛同する人も批判する人も含めてたくさんのコメントをツイッターで受け取りました。

日本のSNS全体で見れば毎日あちこちで起きている程度のバズでも、真面目に対応しようとすれば個人で受け取れるレベルを超えた数の反応になるんで、一個一個すべて対応することはできませんが、批判的なコメントも含めてちゃんと読んでいます。ありがとうございます。

もちろん「批判コメント」の中には単なる罵倒みたいなのも結構あるんですが、SNS炎上慣れしてくると、「なるほど、このタイプの人にとってこの記事はこういう強い感情を引き起こすトリガーになる内容なのか」みたいな気づきをくれる感じが強がりでなくあるので、それ自体結構勉強になるなあ、と思っています。

ただ、「出会い頭にパッと同意できる話」だけはRTとかいいねで反応できるんですが、「良い論争」になりそうでも現状をお互いの認識に隔たりがありすぎるコメント(ある意味で良いコメントといえると思うんですが)ほど、ツイッターという場の仕組み上無視するしかないみたいになっちゃうんですよね。

「これはちゃんと対応したい」というようなコメントがあっても一瞬で流れ去ってしまって見つけられなくなるんで、この記事でまとめて、「記事への批判」における代表的な論点についてお答えして、もしあなたが「維新嫌い」で「維新に選挙で勝ちたい」と思うなら考えるべきポイントについて考察する追加記事がこれです。

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。「批判へのリアクション」的な記事がこの体裁なことが良くないと思う人もいるかもしれませんが、月3回書くこのノルマに関連づけないとちゃんと対応する文章を書く時間が取れないので、片手間にテキトーな文章を書くよりはちゃんと腰を据えて反応した方がいいだろうという判断だとご理解いただければと思います)

1●「ハイ論破!文化」に毒されているのは、「自民・維新といった与党タイプ」だけの問題ではない

今回の記事に関する批判コメントの中で、チラホラあったのが「データがない・”個人の感想”じゃないか」みたいな話なんですよね。

そもそも「選挙の結果」という「”個人の感想”の集まり」について考察する記事なんだから「いろんな人の”個人の感想”」を考察対象にしないわけにいかないと思うんですが。

ただ、そりゃこれ見よがしな折れ線グラフを連発して「ハイ論破!」みたいなことはやってないですけど、それなりに数字は確認しつつ、エピソード的なものと往復しながら書いたらああいう感じになるんだと私は考えています。

こういうのはデータだけでもダメだし現場感だけでもダメなんで、データを確認しては「現場感」を探りに行って、「こうかなあ」と思ったらデータを確認し・・・みたいな事が、学者でなく中小企業コンサルタントとしては大事なところなんですよね。

というか本当を言えば学者さんでもそれが大事なのは変わらないと思います。(どの程度データをしっかり文中に提示する必要があるかは別としてね)

それに対して、今回の記事に関するいろんな賛否両論のコメントを見ていて思うのは(そしていつもSNSの論争を見ていて思うのは)、「あまり”意味”を検証されていないデータ」を連発して「ハイ論破!」ってなって終わっているのが多いなと思うんですよね。

理想的には、「引っ張ってくるデータ」を今の半分とか10分の1ぐらいに削った上で、その上で大事な「データ」の意味合いについて今の10倍ぐらい時間をかけて多面的に真剣に考えるべきだと思います。(あるいはいっそアカデミックに本格的なビッグデータ分析なものにするかどちらかであるべき)

で、そういう「ハイ論破!文化」って、一般的には国政における自民党とか、大阪における維新とかの「与党側の文化」だけの問題だと思われがちなんですが、でも見てると「野党側の文化」の方がこの安易な「ハイ論破」構造が深刻だと自分は感じていて。

というのは「実際やってる側」は「やってること」自体が「現実」とぶつかってるので、それなりに言ってる事のリアリティが担保される側面があるんですよね。もちろん「支持者」の中には結構ヤバい世界にイッちゃってる人もいるけど、「実際に政権担当するグループ」はある程度現実に引き戻されるんで。

一方で、「野党支持者」が自民党支持者の中の最過激派層と同じぐらいイッちゃってると、それに有名な野党議員まで相乗りしてその世界観の中に閉じこもってしまうので、どんどん「マスの票を取れない方向に」極まっていってしまうのは、今回の選挙結果でも見た通りですよね。

だからこそ、「与党サイドよりも批判者サイド」の方が、ちゃんと自分たちを顧みておかないと、知らないうちにどんどん自分が言ってることが現実から遠のいていきがちなんですね。

「有意義な噛み合ってる議論」をするには、「ものすごく明確な差がついているようなデータ」があった時に、それをサカナに「与党(自民党や維新)がいかに最悪か」と盛り上がってしまう前に、「そういう差が出るデータ」の「意味」についてあと三歩ぐらい真剣に考える時間が必要だと思います。

そのへんは、ファインダーズにおける一個前の連載記事↓で書いた「なぜ野党支持者と与党支持者でアベノミクスの評価が真逆なのか」にも通じる問題なんですけど。

2●データを見る時の基本、「空・雨・傘」の「雨」が大事

よくデータの見方として、

「空」「雨」「傘」

とか言われますけど、これは「空がどういう状況なのかというデータ」だけを並べていても意味はなくて、

「その空のデータが”意味すること”は何なのか」=「雨」

と、

「だから自分たちはどうすればいいのか?」=「傘」

まで考えることが必要だという話で。

で、今のネットで溢れる議論の大半は「雨」以前の「空」の話だけをして「ハイ論破!」で内輪で盛り上がって終わってしまいがちなんですよね。

そういう「ハイ論破!文化」は与党支持者内でも野党支持者内でも同じぐらいある傾向だと思うんですが、個人的には特に「野党側」が真剣に考えないといけない課題だと思っているんですよ。

なぜなら、繰り返すようですが「実際やってる方」は「現実」に常にぶつかられてるんで、それなりに「ムチャクチャな話」にはなっていかない傾向があるんですが、「批判する方」は、丁寧に「現実をグリップできているか」を自己確認しておかないと、「凄い無理筋な批判ばかりする勢力」みたいな印象になってきちゃうからなんですよね。

3●「日本における政府批判派」の議論の典型的な例

具体名を出して誰かを批判するのはあまりしたくないタイプなんですが、とりあえずここ数日、友人たちもたくさんシェアしていて話題になっていた例をあげさせていただきたいんですが。

これは社会学者の舞田敏彦氏のツイートですけど、コロナ禍にも関わらず生活保護を受けている人の数が変わっていないことが批判されています。

で、こういう「空」のグラフを持ってきて「いかに自民党政府が弱者に厳しい血も涙もないクズどもか」みたいな話が盛り上がる・・・っていうのは自民党政府批判としてよくある事なんですが。

大事なのはこの「空」のデータが「どういう意味を持つのか(雨)」の部分についてちゃんと考察することなんですね。

この生活保護のデータがフラットに動かない直接的な理由は、生活保護でなく雇用保険がこの場合の直接的なセーフティネットになっているからなんですが、もっと巨視的に見ると、そもそも「コロナ禍に対する雇用保全」に対して自民党政府は国際比較でも巨額のお金を出してるわけですよ。

OECDのデータから見ると、コロナ禍前後の失業率変化は、

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紫がアメリカ、黒がOECD諸国全体、赤がG7で、どの国も2020年にハネあがっています(ハイライトしてないですがアメリカと変わらないぐらいの凄い角度でハネあがって15%〜20%になっている灰色のラインの国はコスタリカ・コロンビア・スペインなどです)。

一方日本(青色)は、微増はしているがベタァー!と下に貼り付いたままです。これはもちろん自民党政府が大量にお金を出して補助したからですね。

だから、自民党政府の「みんなの雇用を守るのだ」という意志は世界的に見ても強烈で、「彼らなりの弱者保護への情熱」っていうのは明らかにあるわけですよ。

4●「70点取るための仕組みを無視してお前は0点だと言う意味」はあるのか?

ここで重要なことは、日本における生活保護の運用が硬直的で、必要な人に届いていない傾向があること自体は、事実な面もあるってことなんですよね。

それに、「正社員」の雇用を必死に守る結果として、非正規社員の人にシワ寄せが行っている側面もある。

だからその事自体を改善する提案は大事なことだし、自民党サイドだって最近は否定しない人が増えてきていると思います。

ただ、事実として自民党サイドの人たちの

「”みんなの雇用”を守る的責任感」

は、(野党サイドの人たちとは考え方の重点は違うとしても)世界的に見てもありえないほど下に貼り付いたままの失業率として明らかに現れているわけです。

にも関わらずそこで、

このデータ(空)↑の部分だけを見て、「雨」(意味合い)の部分の議論をすっ飛ばして

「自民党=弱者に優しくない血も涙もないクズども」

…みたいな話に持っていくことがフェアなことなのかどうか。

ここで、

「70点取るための仕組み」でガチガチにしてるから前向きなイノベーションが起きないのだ!多少の痛みを伴ってでも高付加価値産業へのシフトを推し進めるべきなのだ

・・・という”維新型の批判”は、賛否はともあれ(私もあまり賛成できないですが)こういう「自民党の政治の功罪」に対して論理的には噛み合ってると思うんですね。

今後の日本は、その「維新サイドの問題意識」とはちゃんと自民政府なりに向き合って、時代の変化に合わせた高付加価値産業の育成や労働生産性の改善策を真剣に考えていく必要はある。実際そこを無視しすぎれば維新に票を取られる結果になるでしょう。

一方で、立民・共産型の野党は、この「自民党が現実的に果たしている弱者保護の仕組み」を一応は認めた上で、「足りていない部分をサポート」する議論をするようにしないと、「70点取るための仕組み」を「0点だ」と言い張って具体策を考えれば考えるほど、「弱者保護を重視するタイプの票を投じたい国民」の実際のニーズとどんどんかけ離れて行ってしまうことになるわけですね。

コロナ禍に対する対応から、貧困対策から、なにからなにまでなんですが、今の日本の野党支持者の「内輪トーク」は、別に「ここが問題だ」と言うだけなら普通に通していける改善提案になる論点について、

「自民党(大阪では維新)=血も涙もない完全ある悪の化身」

vs

「自分たち=完全な正義の戦士」

という構造を無理やり作り出そうとするので、データの扱いが恣意的になりすぎ、その恣意的なデータを元に内輪で盛り上がりまくる結果、「国民のニーズ」からかけ離れた主張をするようになって選挙で票が取れない・・・という傾向があるのだと私は感じています。

そりゃ同調圧力強い日本で居場所がない辛さをそうやって紛らわしている部分もあるでしょうから、一切やるなとは言いづらい気持ちも自分はあるんですが、ただ「そういうことばっかり」やって内輪で盛り上がっているだけだと、日本社会もそろそろ付き合いきれない気持ちになってしまうのもむべなるかなというところかと思います。

ついでに、さっきのグラフを引用するために舞田氏のツイッターを見ていて、ものすごく「典型的に良くないのに最近毎日見る議論」が目についたので指摘しておきたいんですが↓

このグラフを見ると、コロナ禍で「日本の女性」だけが厳しい立場にさらされ、それは日本の男よりもよほどヒドイ状況にあるように見えるんですけど。

でも最近、「マスコミが実数を出してきたら率を見ろ、率を出してきたら実数を見ろ」とかよく言われてて(笑)それでいいのか?もともとフェアな議論をするのが普通になってなくていいのか?・・・って話なんですが、このグラフは「2015年の”それぞれの数字を百として”」出されているんですね。

で、実際に自殺で死んでいる実数はもともと男の方が倍近く多いんですよ。それは2021年の速報値でも変わっていない

もともと男性に比べて半分近くしか自殺していない女性が、2015年と比べた「伸び率」のグラフで見れば男よりも伸びた・・・というグラフを持ってきて、「日本社会が女性を抑圧している」という話にすることが、本当にフェアな議論なのかどうか。

日本社会のサポートが「手が回っていない」部分があった時に、そこにも手を回す提案をしていくのは大事なことなんですが、それが

「日本社会が70点取るための仕組み」=「アメリカ型の格差社会に陥らないように土俵際で守っている防波堤」

「まるごと否定する」=「70点取れている対象を0点だと言いはる」

タイプの議論で内輪で盛り上がることが、日本の野党サイドが選挙で票を取れない根本的な理由になっていると私は考えています。

5●「政権交代しない野党」ならそれでいいのか?

とはいえ、「絶対悪の政府と絶対善の俺たち」論法で無理やりにでも争点化しないと、問題が顕在化しないという意見がある程度意味を持つ時もある。

「保育園落ちた日本死ね」が騒ぎになったからこそそれなりに状況が改善されるわけで、もともと物分りが良い人ばっかりだったら見過ごされていく可能性は明らかにある。

それは、

で書いたとおりです。

上記のような「空雨傘の”空”だけ取ってきてハイ論破!とやる文化」だけで盛り上がるようになっていけばいくほど、立民・共産系のリベラル派野党の政権交代の可能性は実質どんどん消えていくわけなんですけど。

でもそうやって「極論を言って忘れ去られがちな議論を取り戻す」機能もあるのだから、「政権交代はどんどんありえなくなっていくけど、日本はそれでいいんだよ」という議論は一応ありえる。

ただそれにしたって、延々と政府批判派も政府側も「理不尽な水掛け論」をやり続けることが望ましいことなのか?は考えるべきだと私は思っていて。

以下の図の「滑走路段階への移行」みたいなことをやれる勢力が分厚く存在してこそ、「見逃されがちな論点をリマインドさせるために極論を言う勢力」にも価値あるとか悠長なことを言えるようになる・・・という話ではあると思います。

図1−1

だから「絶対善の俺たちvs絶対悪の日本政府」で騒ぎたい人が思う存分騒いでも意味があるようにするためにこそ、ちゃんと「70点取れる仕組み自体をちゃんと理解した上でそれを補って改善提案できる」グループがもっと力を持つ必要があるんですよね。

何度も書いているように、「この世界のあらゆる事が権力闘争に見える病気」の世代が徐々に引退して、メディアの中の人が30〜50代の「是々非々に議論できる中堅」に入れ替わりつつあることで、アナクロすぎる「絶対善vs絶対悪」の空騒ぎが通用する範囲を今後徐々に削っていくことができれば、やっと日本も「健全で有意義で前向きな議論」を積み重ねてどんどん変わっていける国になるでしょう。


6●維新が躍進したことの選挙情勢的な意味

そういう意味で、維新が第三党にまで国政で躍進したことの意味は、「立民・共産系」の野党が、

「現行の政治が持っている不具合の指摘・改善提案」

を踏み超えて、

「絶対善の俺たちと絶対悪のあいつら」論法に耽溺しすぎると、結局政府批判票が維新に逃げてしまう

構造になることで、

「全部世の中のせい」的な他責志向のモンスター的なムーブメントがある一定の範囲以上に広がらないビルトインスタビライザー(安定化装置)になる効果

を持つかもしれないと期待しています。

「絶対善vs絶対悪」論法に耽溺するモラルハザードにハマると票が逃げます・・・っていうことになればなるほど、立民にも実は多くいるちゃんと政策の細部の具体感について深い知識と責任感を持っている議員の活躍の場も広がっていき、日本における政策論議全体が健全化する意味を持つでしょう。

これは世界的に見ても「日本が果たすべき貢献」でもあって、昨今の欧米の流行が「全部”古い社会のあいつらのせい”にして吹き上がる」傾向が、余計にそのバックラッシュとしての、中国やアフガンの強権政府や、エコ系の対策へのバックラッシュにつながっている現実は明らかにある。

なかでも、たとえば「自分たち以外を大上段から批判しまくるプロ」のドイツのフォルクスワーゲンが、結局電気自動車に全振りするのはいいが結局値段が下がらないので全体としてみたらほんのちょっとしか売れず、「CAFE規制(平均二酸化炭素排出量規制)」で毎年莫大な罰金を払っている横で、「とりあえずの最善案のハイブリッド」を世界中で売りまくっているトヨタだけが余裕で規制をクリアしているみたいな現実がある。

実際の普及率とかリチウムなんかの資源問題とかを勘案して「とりあえず70点取る仕組み」を用意し、実際に発売車両の圧倒的な平均燃費を実現しているトヨタの責任感・・・みたいなのを、メチャクチャ敵視して「時代遅れのクズ」みたいな批判をする文化が、本当に人間社会を気候変動対策に対応させるために良いことなのか、真剣に問い直されるべき時だと思います。それこそ「How dare you!(よくもそんなことを言えるな)byグレタさん」って世界ですよね。

これは日本が地道に磨き上げてきた「高効率石炭火力発電」を敵視しすぎないことが人類全体として大事なんだというのも同じ課題であって、だからこそ「70点取るための仕組み」を否定せずにそれらと「個人主義者の理想家」が手を結ぶ仕組みを作ることは、人類社会全体の最前線の課題なんですよ。

「完全に理想化したビジョンを地球全体で一気に」導入しないと間に合わないんだという感覚が背後にはあるんだとは思いますが、結果として欧米の国ですら全然ついてこれていないビジョンを押し売りしていても前に進めないわけで。

最初は不十分でも、グレー水素・グレーアンモニアの仕組みができればそれを後からグリーン水素・グリーンアンモニアに転換することもできるわけで、今みたいに人類のほんの上澄みしか参加できない理想を押し売りしようとしたら全拒否されて当然なんですね。

そういう時に、「トヨタ的に70点ちゃんと取ってくれる人」は「純粋な理想家」にとって実は凄く大事なパートナーであって、そこを排除すれば、「もっと容赦なく完全に気候変動への対処そのものを否定する」ようなアメリカの一部の運動みたいなのに強烈に席巻されてしまうわけです。

「全否定してくるムーブメント」に飲まれないためにも「トヨタ的な存在」は「理想主義」にとって、決して切ってはいけない大事なパートナーなんですよね。

それは、「先週最も読まれたnote記事のひとつ」に選ばれた以下の記事で書いたように、「日本文化の根本的なところにある”部活的なもの”」の扱い・・・といった意味で私たち日本人が今まさにちゃんと考えるべきことだと思います。

7●日本は「維新の挑戦を真っ向から受ける」ことが必要

で、ここまでは「与党サイドの自民(大阪では維新)」vsリベラル派野党との関係について考えてきたんですが、ここからは、「国政における自民vs国政における維新」の争いを「適切なゴール」に導いていくにはどうすればいいのか?を考えたいんですけどね。

今回の記事に関する批判としては、リベラル系野党支持者からだけでなく、主に自民党支持者系の保守派からも強い批判を寄せられることが多かったです。

というか僕も、現状投票先としては自民を選んでいる人間なんで、その人たちが持つ「維新批判」は「自分も同じこと思ってるんですけど」という感じのものが多かったんですが。

なかでも

実際、こんなに大胆な予算の組み換えを常時やっていたら、そのトバッチリで社会にとって大事な予算を切ってしまったことも当然あるだろうなと感じます。それはコロナ禍において橋下徹氏も認めていたとおりでしょう。

と書いた実例みたいな感じで、大阪では道路の中央の白線とかが消えてきていたり、整備が悪くてボコボコになっていたり、中央分離帯の雑草が伸び放題になっていたりと、「重点的に整備された中心街」以外の部分でザツな運営が増えているという指摘が多くの人から寄せられました。(維新支持者からはまた別の見方があるようですが)

また、元記事にも追記しておいたんですが、

「大阪城公園や天王寺周辺が昔は治安が悪かった」というのは事実ではない。もっと普通に行ける場所だった。維新が自分たちの功績を強調するために事実とは違うことを言っているのだ

という批判も大きかったです。

実際、「あんなとこ行ったらアカンで」とか「ウチの実家はほんまガラ悪いところにあるから」とか言ってみせるけれども実態はそれほどでもない・・・という「関西人のネタ話の呼吸」は私も一応理解していますし、この記事の部分についても”そういうノリ”の一環として書いたつもりではあります。しかし、「自分の地元」をそういうふうに悪く言われると不快だと思われる方もいるでしょうし、その点は言葉が足りなかったと思います。

ただ、そういう批判をされる方の「論調」を見ていて、「この論調を丁寧に扱わないと、逆に維新票を伸ばしてしまうんじゃないか」と感じる部分でもあったんですよね。

そしてこの問題こそが、「自民党支持者タイプ」の人が「維新支持のムーブメント」に対抗していくために気をつけるべき大事なニュアンスの部分だと思うので、最後にその話をします。

8●ジェントリフィケーションに関する世界共通の問題

この問題について、維新批判派の人の発言を見ていて思うのは、

維新を批判するために”過去の大阪”を美化しすぎる傾向

があるんじゃないかということです。そして、それが「大多数の有権者の気分」とズレていて、票を奪われている傾向にあるんじゃないかと。

これは、「自民党的な政府運営」が「維新的な”改革を求める圧力”」とどう向き合っていくのか?という課題そのものとして考えてほしいんですが。

確かに、「実態として」は、大阪城公園や天王寺周辺の「治安が悪かった」といっても、まあしょせん日本の話なんで、たとえばアメリカのスラム街に比べたら全然安全な街だったことは事実だと思います。

ただ、事実はともかく大阪人の多くが「天王寺周辺(特に付近の南西ブロックにある釜ヶ崎エリア)とか、そんなとこ行ったら危ないで!」と冗談だとしても定番ネタとして言っている文化があったこと自体は紛れもない事実で、今までの人生の中で私は数え切れないぐらいその「ネタ」を聞いてきました。

そして実際、それは「ある程度」は事実だったし、過去10年〜20年で「かなりきれいな場所に」なったことも事実なのだと思います。それによって投資を呼び込んで観光客の伸び率世界一みたいな成果につながってもいる。

そしてそういう「ジェントリフィケーション(中心部再開発によって住民層が変わり、もともとの住民にとって暮らしづらい環境に変化すること)」には、世界中で同じことが起きている功罪両面的な問題がありますよね。

「新しくきれいになった街」によって「排除」される存在に対して優しい目線を持ちたいという人にとって、「きれいになった天王寺公園エントランスエリア」を批判したい気持ちになることはわかる。

ただ、なんかその「昔の雑多な価値のあった大阪が良かった。今のきれいになった街は俺は嫌いだ」みたいな論調自体が、昨今の有権者の大多数の気分と合ってなくて、むしろ凄く「守旧派のノスタルジー」に聞こえている部分があるんじゃないか?というのはいつも私が懸念している部分なんですよね。

たしかに今回の記事についての「維新支持者」の中の過激派タイプの人から、「税金でいい思いをしていた既得権益者とかホームレスを排除して何が悪い!」みたいなコメントもチラホラあって、私はそういうのはちょっとかなり「嫌な気持ち」になるタイプなんですよね(一応言っておきますが維新支持者はそういう人ばかりではないですよ!)。

だから、釜ヶ崎の労働者の人たちの居場所もどこかに存続するような丁寧な変化をしていってほしいと思うし、維新はそういうところで常に「やりすぎる」感じがするから現状支持できないと思っている。

ただ、だからといって、公的な公園(あるいは路上)を野宿者が独占していて、一説には覚醒剤を売っている人が普通にいたとか、パチもんだらけの露天商がいたりとか、そういう事自体を「肯定」する論調にしてしまうと、それが「広い支持」を得るのは難しくなると思うんですよ。

それに、実際に釜ヶ崎の労働者の人たちも猛烈に高齢化していて、昔のままではいられなくなっているのも事実なはずで、「何か変化は必要」なんですよね。

そういう時に、単なる「昔は良かった」的なノスタルジーだと受け取られるような論調で維新に立ち向かうのは、ちょっと選挙的にも難しいと思うんですね。

「きれいになって良かった」こと自体はある程度認めた上で、しかし「そこに生きていた人たちのナマの声」をある程度反映した街づくりであるべきだ・・・みたいなところで、是々非々の議論をするようにしていかないと、「維新が言っていることのわかりやすさ」に勝てないんじゃないだろうかと。

「維新に対抗する」には、

・きれいになった街・・・を実現しつつ、地元住民の人情も反映させられる、そういう丁寧な変化を自分たちならできる

という方向性であるべきで、

・昔はメチャクチャなオッサンらがたくさんおったけどそれが良かった

みたいな論調だと受け取られる言い方をするのは、尾崎豊の「盗んだバイクで走り出す」の歌詞に「盗まれた人可愛そう」という声があがる令和の空気の中における選挙戦術として正しくないのではないかと私は考えています。

9●維新は「地元の人の気持ち」を結構吸い上げている部分があると思う

とはいえ、僕は「維新が伸びる理由も一応わかるがそのやりすぎを警戒する、現状自民党に投票した人間」なんで、そういう批判コメントをする人たちが懸念していることはだいたい同じように思っていることが多いと思います。

同じようなネタとして最近よくツイッターで不評になってる「オシャレ蔦屋書店みたいな図書館」も、個人的にはあまり好きじゃなかったりする。

ただね、ある程度再開発されてキレイになる事自体を全部拒否するような論調だと、マスには受け入れられづらいと思うんですよね。凄く単なる懐古主義に聞こえるちゃうというか。

実際私が数年前まで住んでいた自治体の図書館は、凄いキレイに再開発されたけど、「ツタヤ図書館」的な「本をオシャレなインテリア的アイテムとして扱う」感じがなくて凄くいいなあ、と思っていました。

「古風な司書さんたちが持つ文化」と「新しいオシャレできれいな建物」が両立してて、いろんな視聴覚系の資料も充実してて「こういうのだったらいいなあ」と凄く思いました。

だからそういう「良いバランス」をいかに実現するかが大事なんで、だから「やり方の細部」の問題なんですよね。

で、今回の記事で「自転車のベルの声まねをして通り過ぎる謎のオッサン」とかがいて良かった・・みたいなエピソードを書いたのは、そのへんの「古い社会と新しいきれいな街との共存」について、維新は「全く無自覚というわけでもないな」と感じるところがあるんですよ。

ぶっちゃけ私は「オシャレ蔦屋書店」はどこの店でも実際行って見た上であまり好きじゃないなと思ったんですが、大阪城公園や天王寺周辺は実際行って見た上で「案外いいな」と思ったんですよね。(これはほんとにあくまで”個人の感想”ですけど!)

それは、「地元の人のマスの気持ち」からそれほど遊離した感じになっていないからだと思うんですよね。

今回色々と寄せてくれた反応の中で、天王寺周辺エリア(特に西成あいりん地区)についての資料としては以下のMBSのニュース動画が参考になったんですけど。

これは↑、「維新批判派」の人から見ると、「維新べったり」「維新の功績を強調しすぎている」ような動画に感じるかもしれませんが、ただそういうのを割り引いて見つつ「ある程度批判的に検討しながら」映っている現象を見ていけば、「どの程度のこと」が起きているのかを理解するにはいい動画かと思います。

最初に出てきた「あいりん地区の顔役」みたいな水野阿修羅氏でも、

「路上強盗も昔は多かった。酔っ払って寝ている人を襲う人とか。今はほとんどないですね。急激な変化で街がキレイになって、まあ住みやすいと言えば住みやすくなった」

と言っています。(結果として家賃が上がって居づらくなる人が出たとしても)

そしてこれも結構多くの人からコメントされたんですが、こういう路線をここ10年で強烈に推し進めたのは維新であるにせよ、維新以前から「こういう流れ」は実際に行われてきたらしい。だから「維新だけの意志(と功績)」というわけでもないらしい。

上記の動画の最後で西成区役所の担当者の人が出てくるんですけど、諸外国の大都市のジェントリフィケーションってもっと「容赦ない」感じで行われてることが多いと思いますが、この担当者の人たちは「それなりに配慮をしつつ前に進めよう」としているのが一応は感じられるのではないでしょうか。

大事なのは

・公的な公園や路上をホームレスが独占しているような状況は改善していくべき

・ホームレス状態にある人を「福祉」でちゃんとカバーできるようにすべき

は、

「両方」ちゃんとやるべき

という着地点にいかに持っていけるかだと思います。

今はお互い「相手側の理想を潰してやる」という方向に吹き上がりがちなのではないかと常々私は考えています。

だからこそ、「維新のやり方が強引すぎて良くない」と感じる保守系の人も、それが「単なる懐古主義」的なものだと思われないような表現の仕方を考えることが、「維新に選挙で勝って主導権を自分たちに取り戻す」ために大事なことだと思います。

それは「選挙戦術」的に大事なことじゃなくて、「ちゃんとそこにある課題」に向き合うためにも大事なことだと思うんですね。

10●大上段の理想論で批判すると、その批判が票に繋がらない現象と向き合う

今回記事の前半で見たように、日本社会は「みんなの雇用を超守る」パワーが凄すぎて、社会が硬直化し、高付加価値産業に人がシフトしない結果として、だんだんと緩やかに衰退してきている・・・みたいな現象は一応正しいと思うんですね。

だから「維新が言っていること」「改革を止めるな的な言論」を全拒否にはできない現状があるわけですよ。

だから「自民党政府支持者」側から、そういう「いわゆるネオリベ要素」を「全部拒否する」みたいな形になると、むしろ票が維新に逃げちゃうところもある。

「立民・共産」的な野党の「お株」を自民党が奪う・・・というのは、「徹底的な雇用重視姿勢」によってある程度実現していると思うので。

これからは、「維新的な改革」を、「自民党側ならもっと適切で配慮の生きとどいた形で実現できる」という情勢に持っていくことが必要なのではないでしょうか。

何度も書いていますが私は日本国債には伝統的に思われていた以上の借り入れ余地があって、積極財政的なことをするのが必要だと考えていますが、しかし「無限大に借りられる」わけでないのも当然なので、何らかの「改革」が全然いらないという議論もまた暴論だと思っています。

特に、介護その他で「空前の人手不足」になっても賃金が上がらない業界が実際にあった以上、私のクライアントの地方の中小企業で150万円あげられた例を考えても、そもそも「ある程度ちゃんと給料出せる主体」に統合していく動きも同時にやらないと、「日本国債は国民から見れば資産なんだから」みたいな話だけで押し切れる話でもないはず。

それは、上記記事などで繰り返し述べてきた話で、この点に関しては、左派寄りの人がよく言っている

「労働基準法も守れないし最低賃金を上げたら潰れちゃう!とか言ってるのって経営者失格だよね」

みたいな要素はむしろ適切に重視していくべきだと思います。

つまり、「維新の方向性」には否定できないものがあるが、「維新のやりすぎ」を警戒し、ちゃんと「丁寧に」それをやるべきだ・・・という話が大事なはずなんですよね。

だからこそ、自民党サイドも「維新の功績」を全拒否にはせず、「彼らが支持されている理由」自体にはちゃんと向き合って自分たちも取り入れていく部分が必要なのではないでしょうか。

これは日本人全体の気分としてですが、「実際にやってる人を批判する」時に、「ものすごく完全無比な理想論」をぶつけて「全部ダメ」って話をする傾向があるのが、「当局者」が「とりあえずの結論」にしがみつきがちになる原因になっていると思います。

「維新が支持されている理由」の中に、「とりあえずなんかキレイになった」こと自体はかなり「基礎的な好感要素」としてあるはずなんで、そこを全拒否にするのではなく、「それを超える改善案」の方向に誘導することが、「大阪では野党の自民党支持者」にとって大事な戦術ではないかと思っています。

とはいえ、「天王寺はすげえ治安悪かったらしいぜ!」みたいな話が感じ悪いと思った方々には謝罪します。僕の父の実家も大阪のミナミの方なんで、その気持ちはわかるつもりだと思っています。

今回記事の無料部分はここまでです。長い記事をここまでお読みいただいてありがとうございました。

ここ以下の部分では、「批判に答える記事」が有料部分に含まれているのも良くないと思うので、少し話題をガラッと変えて、さっきもリンクした「先週最も読まれた記事」に選ばれた以下の記事

で書いた話の「続報」みたいな話をします。

上記記事について、結構真剣な論調で、「そもそも合唱部が体育会っぽくなりがちなこと自体を批判するべきで、もっとプロフェッショナルな個人主義の延長で運営できている部活だってあるはずだ」みたいな話を連続ツイートで批判してくれた人がいたんですけど(流れ去ってしまって見つけられない)。

それ読んでて、まあ自分だって「そりゃそうなったらいいと思うけどね!」みたいな気分だったんですが、なんかこう、

「体育会度100%vs個人主義度100%」

みたいな世界観自体が良くないなとは思ってるんですよね。私が言いたいのは、

「その時代、その集団なりの体育会っぽい要素」を否定しないで協力しあいながら、徐々に「個人主義度」をあげていければいいね

っていう感じのことなんですよ。

先日NHKの方の合唱コンクールの全国大会があって(合唱の全国大会は朝日がやってるものとNHKがやってるものと2つあって、NHKの方が出場校の数が少なくて全国に出るのが難しい)、テレビ放送は月末ぐらいにあるんですが、同窓会に配布されていた「ネット同時配信枠」を貰って聞かせてもらったんですけどね。

僕が現役のころ「絶対的王者」だった東北の高校が今でもそれなりに強いんですが、そういうところは本当に「鍛え抜かれている」という感じで、「NHKアナウンサーのように正しい鼻濁音」とか「指揮者の指示に応えて一糸乱れぬ統制で解放されるクレッシェンド」とか、たしかにものすごく見事だなあと思う反面、なんだか20年前から同じことをずっとやっているようなアナクロ感を感じる部分もあったりして。

一方で、今回はシード枠の関係で首都圏の女子校が3校も出てたんですけど、それぞれ凄く「統制は取れてるけど個人の感性でそれぞれ勝手に動いている」感じがあっていいなあ・・・新時代だなあ・・・と思っていたら2ー4位をその三校が独占した結果に終わったんですよね。

そのあたり、東京という街の文化が、日本全体をある意味で「引っ張っている」要素を凄く感じたんですけど。

自分が現役だった20年前ぐらいは、そういう「個人主義的なテイスト」が混ざってくると「東北とか九州の学校」の「一糸乱れぬ演奏」に、やっぱりクオリティ面で負け気味だったんですが、最近は「個人」を大事にしつつ連携も取れてる演奏が多くて。

最近は東北の高校でも、昔は男子校だったところが共学化して凄く「良い雰囲気」で個人を活かした感じの演奏になっているところもあって。

だから「紐帯が崩壊しない温め方」を常にしたまま、徐々に「個」に目覚めていく・・みたいな流れは日本の中で明らかに起きていると思うんですよね。

そのプロセスの中で、欧米の流行で見られるような「全部古い社会が悪い!と吹き上がるモラルハザード」的なものをきちんと抑止した状態のままで、徐々に「個」を目覚めさせていくプロセスというのが、今後の日本において重要なことだと考えています。

というわけで、以下の部分では、ちょっとマニアックに「今の合唱界におけるいろんなテイスト」について語ったりしながら、世の中には「保守的に見えるグループ」にもいろんなテイストがあるし、それぞれが競争しあいながら、徐々に「個人の気持ち」をそのまま素直に載せられるようになってきているのだ・・・という話をします。

特に「結構古風な文化」の中に「個」が躍動しているように感じる世界もあるし、「今までの世界観の中では結構個人が自由にしている文化だと思われいた世界」の中でむしろ結構「抑圧的」な要素があったりとか・・・みたいな話をしたいと思っています。

なんか「戦後民主主義風のさわやか三組感あるなあ」っていう学校の指揮者の先生が、むしろリヒャルトワグナー風の19世紀的エゴ全開な感じで「自分のビジョンに生徒を動員!」するような「実質的には上意下達な」演奏をしがちだったり、古風なエリート主義感のある学校の演奏が、むしろサロン的に自由で細やかな演奏感があったりとか、こういうのは「現実社会」と全く同じ(笑)だなあ・・・って思うところがあって面白いです。

そういう「見かけ」とは別に、今回凄い上位独占していた首都圏の女子校のように、「本当の意味で個人主義が目覚めつつあり、しかも集団でみた時のクオリティを損なわずに変わってきている」ような変化もあるように思っていて、そのへんの「違い」とか「これまで」と「これから」の展望とかを、合唱の話をしつつも世の中全体の視点として書いてみます。

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