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脱原発したいならウソはいけない。「原発ムラがー」的陰謀論にハマるのをやめて、やるべき「相手を尊重しあう対話」とは?

Photo by Nicolas HIPPERT on unsplash

今日は記事を二つアップする予定なんですが、一つはFINDERSというウェブメディアの記事で、最近の夫婦別姓論議や、先日同性婚を認めないのは「違憲」だとした札幌地裁の話をしています。

個人的には、夫婦別姓を認めること自体も、同性婚も賛成なんですが、「変化を求める側」の高圧的な態度が凄い嫌いなんですよね。

「欧米的理想」と「その社会の伝統や普通の人の積み重ねてきた日常」をちゃんと「対等」なものとして対置して、その上で対話を積んでいくならいんだけど、「欧米的理想」を「正解」と見て「お前たちは間違っている」という構造の展開をするのが本当に良くない。

そういう高圧的な「自分たちが絶対善・敵が絶対悪」の構造で語るから、アメリカなんかはトランプ派との仁義なき社会分断が深刻になってしまっているわけですよね。人類全体で見ても、「中国フォロワー」の国が増えて「民主主義とか人権とかもう終わった思想だろ」みたいなことを言う人がどんどん増えている。

で、詳しくはFINDERS記事を読んでほしいんですが、台湾なんかは、アジアで初の同性婚を制度化してるんですけど、欧米的な分断は起きていない。

それは、「変化を迫る側」に、「古い伝統」への敬意が凄いあるからなんですよね。

「自分たちの主張」が「古い社会の伝統への攻撃」だと受け取られないようにメチャクチャ工夫している

結果として、例えば「婚姻」という字は中国語では、

「婚」はパーソナルな個人二人の間のもの

「姻」は、「一族」同士の結びつき的なもの

なので、同性婚を作るにあたっては、

「婚ではあるが姻ではない(結婚不結姻)」という新しいカタチを作ることで、「一族」というものに関する中華社会の伝統と対立しないような配慮をした

そうです。

結果として、そういうところを引きちぎるように「伝統」を敵視して無理やり改革した欧米で起きたような「社会の分断」は起きていない。

私はこういうのを「メタ正義感覚」と呼んでいるんですが、要するに「自分の正義」と「相手の正義」が別個にあって、しかも完全に対等なものとして扱う態度が重要なんですよね。

・・・というような話をFINDERS記事ではしたんですが、こっちのnoteでは、そういう「対話」のあり方を、脱原発とかのハードな議論でも起こすにはどうしたらいいか?という話をします。

先日、小泉純一郎氏が、

「原発の大義名分は全部ウソ!」

って演説して、「オレがそう言っても経産省は全然言い返せなかったぜハッハッハ」みたいなことをフカシまくってる毎日新聞の記事がSNSで流れていて、

ほう・・・そうなのか?

と思って読みに行ったらコストの話しかしてなくて唖然としたんですよね。

最近問題になっている

二酸化炭素排出量が問題な時代に、再エネの変動分を吸収するバックアップ電力として、火力が使えないなら原子力は必要なのではないか

みたいな、世界的に原子力が見直されてきている気運について全然触れていない。

そもそも本当にピークのピークの時の瞬間最大風速の太陽光のコストと、あらゆる安全コストも全部足した原発のコストを比較して・・・みたいなアンフェアさもさることながら、もうその「コスト」の問題じゃなくて「再エネの不安定性のバックアップをどうやってカーボンフリーにやるのか」っていう大問題が今はあって、脱原発とか関係なくそれ考えなきゃいけないはずですよね。

後述するんですが、今一緒になって小泉純一郎氏と一緒に脱原発を説いているという菅直人氏は結構「色々と議論の細部までわかった上でなんとか結論を脱原発に持っていこうと四苦八苦している」感じだったんですが、小泉純一郎氏のこの言い切りっぷりのサイコパス感はやばかったです。

こういう「サイコパス」的な脱原発議論をやっていると、余計に「マトモな人はみんな耳を貸さなくなってくる」じゃないですか。

本当に脱原発したいなら、「原発ムラがー」みたいな陰謀論じゃなくて、もっとリアルな対話をするようにしていかなくちゃいけないわけで。

・・・というような話を今回はします。

ちなみに有料記事の体裁になっていますが、有料部分はほぼ「別記事」のようになっていて無料部分だけで十分成立するように書いてあるので、気にしないで無料部分だけでも読んでいっていただければと思います。

1●本当にそこで「敵を否定」する意味があってやっているのか?を考えよう。

先週、テレビで「Fukushima50」っていう映画やってたんですよね。福島第一原発事故の時に現場に残って奮闘した50人を描いた映画なんですが。

僕はそのテレビ放送は見逃したんですが、ツイッターで妙に紛糾していて、まあ保守派がこの手の映画が好きなのは当然として、逆に左派の人が「あれはプロパガンダ映画だ!」って批判しまくってるのが印象的で。

具体的には菅直人首相(当時)が、一応映画の中では首相だけ名前変えてあるんですけど、「バカ」扱いされていて、「民主党時代は最悪だった」という風に印象操作されている・・・という話だったんですよ。

この「対立」は随分前からSNS上でよく見かけたので、個人的にはリベラル寄りだと自分では思っているんで、「まあプロパガンダ映画なのかな?」と思って見てなかったんですが。

でも、テレビ放映の時にツイッターで紛糾しているのを見て、「一応自分で見ておこう」と思って、アマゾンでレンタルして見たんですね。

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で、これ読んでるあなたも良かったら見てほしいんですけど、前情報で「保守派のプロパガンダなんだろう」と思ってたのと比べると100倍ぐらい良くて、かなり感動しちゃったんですよね。

問題の「首相がバカに描かれている」とか言うのも、そりゃヒーロー扱いもされてないけれども、東電首脳部に殴り込んでいって「撤退などありえない!」とか叫んでいる有名なシーンとかは、むしろ結構「真剣な熱意を持って一喝する熱いシーン」として見れるような印象ではありました。

なにより、このインタビューとか読むと菅直人氏本人が「いい映画だった」とか言ってるのに、「プロパガンダだ!」って言ってる人は何と戦ってるんだ?って話じゃないですか。

東電首脳部の無責任ぶりも、「自然をなめてたんだ」っていう話も、「安全神話」的なものが良くなかったって話もそれなりに描かれていると思うんですが、「現場の人間の決死の奮闘」みたいなのがちょっとでも描かれること自体が左派的には受け入れられないってことなんでしょうかね。

僕は結構「永遠のゼロ」とかもちょっと見てるのシンドいな・・・って思ったぐらいには「リベラル感性」体質だと思うんですが、「Fukushima50」は全然そういう嫌な感じがしなかったというか、むしろ「コレ」まで否定しはじめたら「普通の有権者の多く」との紐帯をどうやって作っていけばいいのか?って話だと思います。

社会の運営には、消防隊員とか警察官とか自衛官とか、「決死」の役割をあえて担う縁の下の力持ち的な役割の人がどうしても必要ですけど、「そういう人たちをちゃんと称揚しておくこと」っていうのは、東電首脳部の無責任さを追求する時にだって重要というか、「現場の人間との心理的紐帯」なしに「首脳部の追及」とかって余計に不可能になると思うんですが。

ともあれ、この「Fukushima50」も否定するようじゃあ、「その先の広がり」とか無理だぜってことを思うわけですね。「民衆と寄り添う」部分が全然なくなっちゃったら左派思想はもうただのエリートの独善でしかないはずで。

2●「トリビアルな犯人探し」はもうやめよう

で、これを機会に、さっきリンクした菅直人首相のインタビューとか、菅直人氏が最近出した脱原発に関する本とか、ちょっと話題になってた今の福島に関するルポとか、色々読んでみたんですけど。

なんか、原発関連の話題になると、物凄くトリビアルというか、関係者以外からしたらどうでもいい「あの時本当はアイツがこうやったからこうなったのに、こっちのせいにしているじゃないか」みたいな責任争いをしてる感じなんですね。

東電に菅直人が怒鳴り込んだのは東電が全然情報を官邸にあげてなかったからで、ベントが遅れた理由はこうでこうで・・・みたいな。

なんか、そういうのって部外者からしたらどうでもいいというか、事故以前のあれこれの想定が甘かったのが第一義的には東電の問題で、次は規制官庁とメディアの問題ですよね・・・というのはいいんですが、それ以降事故時の混乱の中でどの行き違いがどう影響したかとか、今更言い争われても心底どうでもいい。

もちろん事故時の情報共有の仕組みとか指示系統をどう整備すればいいのか、って話なら意味があると思うんですが、なんかこういう時に「責任のなすりつけあい」みたいになるのが本当に良くないなと思います。

「日本人は責任を明確にしたがらない」

っていうよくある批判がありますけど、私が思うにそれよりも

「純粋なシステム的な原因究明」に注意を向けなくてはいけない時に属人的な”責任問題”を議論してしまいがち

なところに問題があるんじゃないかと思います。

3●脱原発も、「原発ムラがー!」はもういいから新しい電源構成をみんなで考えるべき

で、菅直人氏のインタビューから彼の近著

原発事故10年目の真実 始動した再エネ水素社会

も読んだんですけど、脱原発の議論をする時も、

こうすれば再エネを拡大できるというポジティブな話

だけをもっとすればいいのに、本の半分ぐらいが

「原発ムラの利権ゆえに話が動かないんだ」

的な、ちょっと陰謀論めいた話が延々と続くんで、「そこ」やめようぜ、っていう気持ちになるんですよね。

菅直人氏の本には、ソーラーシェアリング(営農型太陽光発電)の話が出てきて、この話自体は凄い面白いなと思ったんですよ。

具体的には、農作物には「光飽和点」というのがあって、「強すぎる光」はむしろ植物の成長にマイナスである性質があるので、農地の上にソーラーパネルを置いて、光飽和点以上の光をパネルで吸収することで、営農と発電を同じ土地で行う工夫・・・のことだそうです。

もちろん実際にやってみると色々と問題もあるでしょうが、一部の篤農家も含めて実践例が出てきていて問題なく農業生産と発電が両立できているそうなので、

これを推し進めていけば、既に実施されている事例の実測値をベースにした計算上では、全国の農地をすべて使えば日本の年間電力消費量の2倍ほどの発電が営農しながら可能になる

そうです。

こういう「実地上の工夫によるブレイクスルー」っていうのは本気で再エネに人生賭けてる人からしか生まれないんで、だから菅直人氏みたいな人がその発案者と繋がって、農水省を動かしてこのソーラーシェアリングが可能にしやすいような制度づくりをやって・・・みたいなことは凄い大事なことなんですよね。

でも一方で、だからといってそれだけでソーラーで電力消費がまかなえるかっていうとそうじゃないわけですよね。

変動をいかに吸収して安定電源化するかとか、台風のような災害においてこういうのが一気に吹き飛んでしまうんじゃないかとか、検討課題は山程ある。

「営農型太陽光発電」の発想がとてもいいし可能性があるからこそ、「原発ムラがー!」みたいな陰謀論にはまらずに、

・実地の新しいブレイクスルーを生み出せる工夫

・それをちゃんと実現する上での問題があるんで知恵貸してください

的な部分だけをちゃんと押し出していくことが重要なはずなんですが、今回色んな「活動家」の本やら記事やら見ていると、なんか半分ぐらいは「あいつが悪い」的な陰謀論が満ちていて、そこなんとかならないの?という気持ちになりました。

4●「水素インフラ整備」はまず「グレー水素」からでいい

なんというか、原発への利権がある既存の電力会社が、例えば洋上風力のさらなる導入における適地への送電線の整備に積極的でない・・・みたいな事が「一切ない」かといえば”ある”と思いますよ。

でもその時にはその「特定の連携送電線を整備すべき」っていう話を具体的にするべきなんですよね。

なんでかというと、結局「今の新しい試み」で不具合が起きそうになった時に、それをカバーして停電しないように必死にやりくりしてるのはとりあえず東電だったりするからで。

昨年末とかほとんど大停電の危機みたいになっていたのを、アメリカのテキサスとかでは大停電に実際になっちゃったけど、日本じゃそうならないのは、やはりある程度東電とかの「責任感」で結構無理して老朽化力を動員したりしてなんとか乗り切っているわけなので。(だからこそ小泉純一郎みたいに”ホラ!原発止めても停電しなかったろ!東電はウソついてんだよ!”的なことを言うのはほんとマジで邪悪だと思うんですが)

最終的にはそういう「使命感」とかなしにマーケットメカニズムだけで回るようにするべきだ、っていう意見はわかるけど、でも過渡期にはまだそういうの必要ですよね。

だから「原発ムラがー」とか「東電の利権がー」とか言うよりも、具体的に再エネの普及を、さっきの「営農型太陽光発電の普及」みたいな形で進めていったり、天候や時間による発電量のブレを吸収する具体策とかをちゃんと詰めていくことで、「原発なしでも大丈夫ですね」という情勢を具体的に作りさえすれば、その時はじめて「原発ムラ(というのが本当にあるとすれば)」の息の根を止めることもやっと可能になるんですよね。

菅直人氏の本ではそのあたりを「水素インフラ」で埋める構想になっているんですが、実際に菅(スガ)内閣もそのへん結構頑張って動き出していて、とりあえず「水素インフラ」系の話はここ最近で凄く動き出してますよね。

「アンモニア混焼」で既存の火力発電をカーボンフリー化する試みとか、原発も使いづらい状況の中で二酸化炭素排出を抑えつつ再エネを増やしても破綻しない・・・みたいな物凄くシビアな連立方程式をなんとか解こうと色々と考えられてきている。

で、「水素インフラ」を最初に作っていくにあたっては、天然ガスから作る「完全にカーボンフリーじゃない水素」をまず使うことになるんですが、「コレ」もまた「活動家的人格」の人から見ると不徹底な感じがして批判の対象になったりするんですよね。

水素自体は二酸化炭素は出さないけど天然ガス由来で作る過程で二酸化炭素が出ちゃうんで、こういうのを「グレー水素」と言うらしいんですが(笑)

この記事によると、その「グレー水素」を製造する過程で出る二酸化炭素を捕まえて地中に戻す技術をちゃんとやって「カーボンニュートラル」にした水素を「ブルー水素」といい、そうじゃなくてそもそもエコな電源で水を電気分解して作った水素を「グリーン水素」と言うらしい。

で、「脱原発活動家」みたいなタイプの人は「グリーン水素」以外を敵視しがちで、「陰謀だー!」ってなりがちなんですが、しかし水素インフラ自体を立ち上げるにはまずは「グレー水素」から入るのも悪くないはずなんですよ。

これ↓随分昔に、FCV(燃料電池自動車)に関する解説記事を書いた時に使った図なんですが、「水素インフラ」が整備されると、あちこちでバラバラに発電した電力を「水素という通貨」の形に変えておけるようになるんで、気にせず全力で再エネを使えるようになるんですね。

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この記事↑を書いた時に、ある理系の技術者の読者から、「いかに電力そのままより水素を経由することがエネルギーロスが大きいか」みたいなことを切々と説明する苦情メールが来て、そんなことはわかってるんですがこっちの意見の重点はそこじゃなくて・・・って何度メールを返しても「オマエはわかってない!」って同じ趣旨のメールが帰ってきて堂々巡りになったことを覚えているんですが(笑)

そんなことはわかってるんですが!上記の図の指差しマークの部分にあるように、この「貯蔵通貨効果」が大きいので、特にピーキーで使いづらいけどそれ自体は安い太陽光発電みたいなのが大量に使えるようになったら、多少のロスを取り返して系全体では意味があるってことなんですよね。

太陽光発電の天候による増減って物凄いので、今ですら「まだ冷房の電力需要が高まってない頃のよく晴れた日」とかは九州とかで発電しすぎて余っちゃってたりするんですよね。

水素インフラが成立すれば、「電力網の安定性を重視する人」と「とにかく不安定でもエコに発電したい人」の利害を調整する必要がなくなるんで、それぞれがやりたいように動けるようになるんですよね。

また、「水素インフラ」が確立すれば、日本だけじゃなくて「オーストラリアの砂漠の超巨大ソーラーの電力で作った水素」とかを今の液化天然ガスみたいに輸入して使うようなエコシステムも使えるようになる。

そうでなくとも菅直人氏の本では、「全農地を営農型太陽光発電化」すると、「日本の全電力消費量の2倍レベル」の能力を持ちうるそうなので、「水素インフラ」ができさえすれば大きな可能性があることは確かだと思います。

ただ、台風などの災害への脆弱性の問題とかは残るんで、「一本足打法」にはならないようにすることが必要かもしれませんが。

5●「同時多発的に色んな試みを否定しあわずにやる」べき

結局何が言いたいかというと、

・「グレー水素」でもとりあえずいいから水素インフラを作っていく

・「営農型太陽光」みたいな実地のブレイクスルーで再エネ発電量をあげていく

・ソーラーのピーク時に「めっちゃ沢山電力が余る」ようになればその活用法も自然に開発される流れになるので、その時に「グリーン水素」の可能性も検討できるようにする

・洋上風力などの有効な再エネ候補のために必要な送電線の整備が必要なら、大きな陰謀論にしないで具体的にその整備自体を働きかけて実現する

・どんどん不安定化する電源構成でも停電しないような責任を持つ組織を温存しておく

・原発に頼らなくても再エネの不安定さをバックアップする火力発電をカーボンフリー化するアンモニア混焼技術などの研究をする

・アンモニア発電などの技術を使っても火力でのバックアップがカーボンフリー化できない可能性に備えて原子力技術も温存しておく

・・・こういうのは、

「お互いを否定せずに全部同時多発的にやるべき」

なんですよね。

特に、「理想が高い人が描く青写真」と「堅実派・現実派の青写真」がぶつかる時に、お互いを否定しまくるのが一番良くない。

別にグレー水素でもいいからまずは水素インフラを作っていけば、営農型太陽光その他で再エネが大量に使えるようになったら、その時はじめて既にできている水素インフラにそれを流せばいい。

再エネの不安定さのバックアップをなんとか原子力でなく火力発電かつカーボンフリーでできるようにアンモニア発電などの工夫を必死にやってるけど、「もしそれが無理だった時用に原子力も温存しておきたい」みたいな気持ちを無理に否定しようとすると余計に混乱する。

送配電を完全に東電などから分離したい気持ちはわかるけど、現状移行期の不安定さを責任持って解決する主体を残しておく合理性はやはり存在する。

何かを主張する時に「藁人形」みたいな仮想敵を作り出して延々陰謀論で叩くのをやめて、「それぞれがそれぞれの活動を別個にやる」方向に動いていくことが必要な時期なはずです。

というか、ここまで読むと普通の人は「そりゃそうだ」と思うと思うんですが(笑)、Fukushima50を見たついでに結構はじめてぐらいの感じで「原発にまつわる色んな言論」を読んでみると、陰謀論的ノイズが多すぎて凄いビックリしたんですよね。

むしろ「脱原発界隈言論の”ムラ”」ってのがあるように思った(笑)

「AができたからもうBは終わりだ!Bがまだ続いているのは利権だからだ」

・・・みたいな論法ばっかり見るんで、もうそういうのはやめようぜ、とウンザリしました。AもBも全部全力でそれぞれやっていって、本当に「もういらないね」ってなったら「利権だー!」とか言わなくたって自然になくなりますよ。

「営農型太陽光発電」は凄いいいアイデアだと思ったし、「エコに必死」な人の中からそういうブレイクスルーは今後も沢山生まれてくると思うんですよ。

そういうのを「安定重視派」の人がなかなか採用しない・・・というディスコミュニケーションは本当に良くないですよね。

でもそのためには、「エコ重視」で動いている人たちも、口を開けば「東電ガー経産省ガー」みたいな陰謀論を枕詞のように話すのをやめるべきなんですよね。

むしろ

「安定重視で色々やってくれてる人がいるから、俺達は失敗してもいいからアグレッシブな路線を試すことができる。アイツらと俺たちは本来敵同士じゃない」

という発想が必要な時期だと思います。


6●イーロン・マスク型独善性を超えて

今回記事の無料部分はここまでです。

以下では、過去20年間もてはやされてきた「イーロン・マスク(テスラ創業者)的独善性」を超えていこう・・・みたいな話をします。

水素電池車(FCV)について一番辛辣だったのがテスラ創業者のイーロン・マスクで、「Fuel cell(燃料電池)は、Fool cell(愚か者の電池)だ」みたいなウマイこと言って批判して、トヨタの副社長と舌戦になった・・・っていうニュースを昔読みました。

そのニュースが流れていたのは2015年で、トヨタの水素燃料電池車MIRAIが発売されたのが2014年なんですが、あれから5−6年の間は、明らかに「テスラ側の独壇場」って感じで、燃料電池みたいに複雑なシステムを作ろうとするのは、テスラみたいな身軽でイノベーティブな企業に敗れ去るんだ・・・みたいな論調が世界的にも広まっていて、テスラの株価は天井知らずのうなぎ登りで・・・みたいな感じでした。

ただ、最近は結構水素インフラに対する世界的理解が進んできて、欧州企業なんかも積極的に水素インフラ投資をはじめることで、むしろ日本企業が置いていかれないように頑張らなくちゃ、みたいな話にすらなってきています。

その話の中で、個人的に「テスラ」型の、「みんな」に尻拭いを押し付ける型のイノベーションってのがあまり好きじゃないんですよね。

そうじゃなくて、「トヨタ」型に「みんなへの責任」を持ったまま着実に進んでいこうとする意思が好きだし、「人類社会のほんとうの全体集合」的なリアルさとぶつかって行く時に、最後に生き残るのは「テスラ型」でなく「トヨタ型」であるはずだ・・・みたいな話をしたいと思います。

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